全療協ニユース889号転

 松丘で第二十回検証会議

         
          今でも疼く隔離の爪跡



 第二十回検証会議は七月十四・十五日、涼しさ満点の松丘保養園に於いて開催され、二人の入所者
および市立新城中学校双葉文教室元教員と、社会復帰者各一人の聞き取りを中心に治療棟、病棟をはじめ、園内各所の見学、検証が行われました。

 先ず、十四日午後一時より、千五百六十三人の先輩療友が眠る納骨堂への参拝、献花に続き、金平輝子座長の挨拶がありました。金平座長は挨拶で熊本地裁判決の結果、ハンセン病に関する事実検証調査事業が始まったこと、その検証会議が回を重ねる都度、新しい事実が出ており、隔離政策が一人一人の皆さんに及ぼした被害の大きさを再認識しているが、坂口厚生労働大臣昨日「再発防止のための提言」(骨子)を提出してきたこと、そしてその最終報告書の完成に向け、お力添えを頂きながら
更に努力して参りたいと、と述べられました。

   

 自治会の藤崎陸安会長は「この納骨堂に眠る先輩たちは、療養所の基礎となるはずであった収容所の建設と運営のため、作業に狩り出され、骨身を削り、身を粉にして働かなければならなかった過酷な時代の犠牲者です。手足の指を失い、視力を無くし、挙げ句の果てに命まで失うという非業の人生を送らざるを得ないくさせた隔離政策が、なぜこうも長きに渡って続けられたのか。検証会議と検討会の皆さんには、過ちを繰り返さないための提言を行い、今後の疾病対策等に資するためにも鋭意ご努力を頂きたい」と挨拶されました。

  

 会場を松丘会館に移し、第回検証会議は、福西征子園長の挨拶からはじめられ、検証会議十人と検討会八人の委員が出席、弁護団や入所者、職員、外部からの理解者ひやマスコミ等、約八十人が傍聴その他に当たりました。
 福西園長は挨拶で開園以来、松丘保養園が辿ってきた歴史的経過について詳述され、金平座長が「たいへん参考になりました」とお礼をいわれたほどでした。
 
 以下、福西園長の挨拶から、特に一点だけ紹介します。
 昭和十六年十二月の開戦の布告を挟んで秋田、青森両県を中心に強制隔離、所謂、「刈り込み」が強行され、二年間で約三百名予の人々が松丘保養園に収容されました。この時代は、極端な収容者の増加のため、所内生活は誠に厳しいものがありました。当時、飢えを凌ぐために所内に生えている食べられる草は、何でも若芽のうちに摘んで食べてしまったため「松丘保養園には草が生えない」という「言い伝え」ができたといわれています、と。

 手取り、足を取り、「一、二の三」でトラックに放り上げられて収容された病人や、田んぼから野良着のまま、連れてこられた人たちです。ろくな治療も受けられず、食料不足で一年間に一割近くが亡くなったのでした。

    

 聞き取りのトップは入所者で先頃、全療協の会長をつとめた伊藤文男さんでした。伊藤さんは十五歳の時、入園と同時に「農園室」の配属になりましたが、「農園室」の農作業は重労働であり、過酷で苦痛でした。
 
 伊藤さんは高校の中退であることと、入園の際、沢山の本を持っていたということで、昭和二十五年三月、自治会から頼まれ、十七歳で学校の先生になることを引き受けた、ということです。

 松丘保養園の学校は寺小屋時代を経て、昭和七年から私塾に替わり、「桜丘学園」として独立した校舎を持ち、卒業証書を所長名で発行されるようになりました。戦後になると、卒業証書も、村立新城小・中学校の校長名による正式のものが貰えるようになりました。伊藤さんが教員になったのはその頃です。

 十数人の生徒に対し、教員は二人でした。「小使い」「給仕」も兼任で当然、複式授業でした。子供たちは新聞配達や牛乳配達を日課としており、更にクリスチャンであったため、日曜日以外でも、牧師や神父が来たり、礼拝のある時は無断で欠席したり、早退するのが普通でした。
 「私は若かったし、我慢出来ませんでした」と伊藤さんは言っていました。新聞や牛乳配達、礼拝などが授業時間に食い込まないように関係者と話し合いました。強い反対もありましたが、それでいいはずがありませんでした。
 教材、教員も皆無に等しく、あったのは協会から借りていたオルガンと大日本帝国時代の地球儀くらいでした。
 入所者の一人で先輩教員であった人が怪我をし、昭和二十六年二月に辞任したため卒業式に関する一切の準備が新米教師の伊藤さん一人の仕事になりました。
 
 新学期から新たに一人、入所者が教員になってくれましたが、二人とも、オルガンが弾けず、伊藤さんは急遽、夜遅くまでオルガンの練習をするのでした。
その後、伊藤さんは、もっと生徒たちの自発性を尊重すべきだと考え、「朝顔だより」という学校新聞を発行したり、新たに就任してくれた先生と協力して、「ひばりクラブ」を結成、生徒たちを「芸能部」や「運動部」や「社会部」のクラブ活動に参加させ、子供たちの笑顔が忘れられないものとなっていくのですが、それは昭和二十九年末まででした。
 
 全患協によるらい予防法闘争によって昭和二十八年八月、「らい予防法」制定の際に九項目の付帯決議行われ、邑久高校新良田教室が設立されることになりました。昭和二十九年二月、松丘学園も新城村立新城小・中学校双葉分校と認められ、選任の教師が派遣されることになりました。小学生六人、中学生八人、伊藤さんは補助教師となりましたが、役割を終えたものと考え、十月に辞任し、自治会へ出ることにしたのでした。

    

 二人目は新城中学校双葉分教室の元職員、梅原秀之さんでした。
 梅原さんはお父さんが昭和十五年から薬剤師として勤務したため、小学三年生の時から家族と一緒に松丘保養園の官舎に住むようになりました。当時の職員が白衣や白い帽子をしていたので、移る病気であることを知りましたが、急激に悪化する病気でないことも分かったということでした。

 弘前大学の教育学部へ進み、二年終了後、小学校に勤めたり、弘前盲聾学校へ勤務するようになりましたが、昭和三十年九月から分教室の教員になったのでした。

 私が赴任した当時、正規の教員は私だけでした。園長は阿部秀直先生でした。最初に言われたことは、「医療のことには口を出さないで欲しい」ということでした。服装等はやや穏やかになったとはいえ、患者地帯の学校へ行く時は、通常の服の上に白衣を着て更に下にもんぺを穿くようにいわれました。

 松丘保養園はだいぶ明るくなっていました。プロミンにより、不治の病気ではなくなったこと、また、予防法闘争を経て、社会復帰の希望が強くなったためだと思いました。


 私が特に力を入れ、子供たちも一生懸命だったのが邑久高校新良田教室への進学でした。そのおかげで、全国の療養所でも一番の進学率ではなかったかと、密かに誇りに思ったものでした。赴任して二度目の卒業生が出た時だったと思いますが、子供たちと一緒に「お召し列車」乗って長島愛生園まで行ったことがありました。各園の子供たちを各地で次々に乗せ、東京では貨物駅で、かなり待たされたことが印象にのこっています。ただ、長島愛生園に行ったとき、青森は長島のような島でなく、市の郊外で孤立していないことから、恵まれているなあと思いました。

 進学に熱心だったとはいえ、もう少し哲学的な話をしたり、子供たちとも触れあい、将来の事も語り合えばよかったと今は思います。何かに取り憑かれたかのように同じ場所で松の木の絵ばかり描いていた生徒がいました。何か内面に思いがあって、あのような場所にいたと思います。本人から話すこともなく、それ以上のこともしてやらず、いつまでも心に残ることとなりました。
                                                    (以下次号)