再登板に当たって
     
全療協会長 曽我野一美
           

 

全療協の前身である全患協が組織として世に打って出たのは、たしか昭和26年2月のことである。
今から53年も昔だ。

それまでは、13の国立療養所に、それぞれ入所者自治会がありながら、そのエリアだけの活動であって、いきおい大きな成果らしいものはなかった。異論があるかも知れないが私はそのように思う。

全患協が全国組織として動き始めて一番最初に取り組んだのが、昭和28年の「らい予防法改正要求」の闘いであった。熾烈で生命がけの行動であった。国会前の座り込み、厚生省交渉、国会要請など、行動参加者が20代あるいは30代を中核とする者達であったので誠に血気盛んであった。

ただ、惜しむらくは、対社会的取り組みがなおざりもしくは等閑に付されたため、厚生省と国会対策を重点に据えた各自治会だけの闘いになってしまい、周辺地域を巻き込むとか、マスメディアによる活字や映像などの世論づくり等の大事なことが皆無であったことは否定すべくもない。

結局は改正でなく、むしろ改悪された法律が成立してしまい、無念の敗北に終わり、抗議のため厚生大臣室前の廊下に7日間座り込みをかけたあと終結したのであった。今でも往時のあれこれが生々しく思い出され、老いた血が騒ぐのを覚える。

私は26歳の時、大島支部代表として予防法改正要求の中央交渉に参加。そのあと、昭和58年から平成元年5月末までの8年間、全患協会長を勤め、力不足のため多くの辛酸を舐めた経験を持っている。

全患協が全療協に変わったのは平成8年5月からである。その理由は、正式名称の変化の故であって、全国ハンセン病患者協議会を改め、全国ハンセン病療養所入所者協議会となったためである。


呼び名は変わったが、掲げる目的や本質には何等の変わりはない。創立以来53年取り組んできた権利を守り、医療を高め、生活を改善せよ。更に、ハ病に対する差別、偏見を取り払うための国としての対処を強化せよ等々の問題解決が未だ解決せず、道半ばであるためである。


その全療協の会長を引き受けざるを得ぬ仕儀となってしまった。想いは誠に複雑であるが、更なる大きな辛酸を舐めるほかはない。

ところが思うのであるが、国であっても、多くの企業であっても、そこで働く人達の定年退職は60歳だと思う。20歳ぐらいから働き初めて40年。そろそろ休養期にはいってよかろう、という永い人間の経験が産み出した評価されて然る可き所産だろう。

それだのにである。主題に取り上げたように「老醜」がまたぞろ立ちあがらざるを得なくなった。今年の7月には77歳の喜寿を迎える人間がである。全体の平均年齢が高いのであるから、なんとも仕方のないところではある。

再登板して、何をどうするのか。眼の前にある問題について、いろいろと吟味を重ねつつある。

平成13年12月25日で、当時の厚生労働副大臣の桝屋氏と交わした「ハンセン病問題対策協議会における確認事項」にも取り上げられている各項を厳守、あるいは着実に実行することが先ず前提になると言わなければならない。

すなわち、吾々入所者の名誉回復に関する問題。更に、入所者が在園を希望する場合、その意志に反して退所、転園させることなく終生の在園を保障すると共に、国民の平均生活水準と同様の内容を確保する件、また、退所者に対する社会生活支援策を充分に行うこと等々がある。


要するに、らい予防法という強権を振りかざして、吾々を公共の福祉を増進するという美名のもと、療養所という特殊な環境に押し込め監禁したのであるから、最後まで責任を持って生活を保障せよ・・・これがなにものにも増して大前提となる。私は微力ながら、その大前提に立脚して、全療協の代表らしく取り組むことを表明し、就任の挨拶といたします。