駿河・復生で二十一回検証会議


        富士山と汗と血と涙と


 第二十一回検証会議は、創立の一番新しい駿河療養所と、神山復生病院に於いて八月十八・十九の両日開催されました。1日目の駿河でも最初、納骨堂への献花が行われ、続いて金平輝子座長と自治会の小鹿美佐雄会長の挨拶がありました。

検証会議委員を迎える富士の姿 駿河療養所で眠る物故者を奉る納骨堂

 納骨堂は富士山と向き合い、所内と麓の町を見下ろせる場所に一九八八年、新たに建設され、現在二百六十二人の先輩僚友が眠っています。因みに入所者は百四十一人です。
 講堂での聞き取りは午後一時十五分から検証会議十一人、検討会十一、が出席して行われ、入所者および職員、弁護団、外部からの理解者等約八十人が傍聴その他に当たりました。
 講堂では前田所長の挨拶があり、聞き取りのトップは田中章道さんでした。田中さんは大正十年生まれ、鳥取県の出身です。海軍の航空学校を出て巡洋艦に乗っているときに発病し、駿河へは二十年十一月に入所したということです。

 当時、軍事保護院からの通達で、労務作業が可能な軽症な軍人を募集していました。お国の為に戦った軍人なのだから、少しはましな待遇をしてくれるのでは、という期待がありました。長島愛生園と邑久光明園から三十人の応募があり、お召し列車で移動しました。

 駿河の施設はひどいもので、木造の本部棟と病室は辛うじてありましたが、窓ガラスがない、戸がない、戸があってもガラスがはまっていないという有様で、バラック同然でした。私たちは入所後、窓や戸に板をはって雨風を凌ぐ状況でした。
 しかし、一番困ったのは食料のないことで、これには本当にまいりました。駿河療養所には畑もなく、すぐに食べられる物がないのです。一食に支給されるのは細くやせたいも二本だけ。これで建設作業をやったのですからたまりません。周辺は山芋の産地でした。けれど、腹が減って、山の登り下りが出来ないのです。力が入らず、目の前の山芋が掘れないのです。

 所長は初代の高島重考氏で、昭和十九年から長島愛生園園長へ転任になる三十二年まで十三年間勤められました。はじめ、入所者が三十人ほどであった頃は、隔離といっても比較的ゆるやかでした。火葬場なども高島所長が長島へ行く直前までありませんでした。
 
 管理が目立って厳しくなったのは、入所者が急増し、二百人近くになった昭和二十三年頃からでした。正門近くに守衛が常駐し、入所者を下の部落へ行かせないため、見張るようになりました。高島所長のもとで、所内に監房が設けられ、夫婦舎への入居は断種、不妊手術条件でした。

 自治会は昭和二十二年に発足し、私が初代の会長になりました。当時,入所者のなかに、支給される生活物資が公平に配分されていないことに対する不満がありました。入所者の中には職員に取り入り、他の者より多く貰ったり、他の者には支給されていない物が支給されていたりしました。

 これが入所者に自治的な組織をつくらせた最大の理由でしたが、実際には出身施設毎に、或いは軍隊の階級の高い者の下に派閥が幾つも出来、評議員会の決定も階級の高い者の一声で反故にされるといった状況が続き、公平な分配という目的もうまく達成できませんでした。

 そこで、規約に基づき、選挙で選ばれた執行機関が日常の業務を実行し、決めた内容は評議員の諮問と吟味を受けるという組織形態にしたのです。手探りの状態で規約を作りました。外部の講師等もなく参考にしたのは施行されたばかりの憲法でした。

 活動の中心は生活改善要求でした。所と厚生省に要望書を提出し、所長と交渉をおこなう、という方法の活動でした。生活必需品を自主的かつ公平に分配することも重要な活動でした。住居がぼろぼろなので、新しい寮を要求しました。公民館や売店の設置も求めました。長期入所を強制しているのだから、必要なものを設置する義務が当局にはある、と。

 田中さんは続いて、「らい予防法闘争」の際の総決起集会やデモ行進、作業拒否やハンストなどに触れながら、「待遇改善は決して入所者が座して実現したのではなく、入所者の営々とした運動と努力があったのは事実」と話されたあと、警察留置所が強引に設置されたこととの対比でローマ国際会議の意義について最後に述べられました。

 続いて二人からの聞き取りが行われましたが、都合により、小鹿会長の案内と説明で午後五時から行われた所内見学について先に記します。

@ 駿河木工所
 駿河の入所者には、ドラム缶の風呂に入り、本館の屋根瓦は俺たちが上げた。という自負があり、その伝統を受け継いだ木工所です。寮舎の根太の腐蝕が早い所であり、その取り替えや作業場の建築から棺桶作りまで、営繕に関わること一切をやっていたようです。

A 綿打ち工場(略)

B 御殿場警察留置場跡
「納得の上で建てる」との約束に反して昭和三十二年二月、箝口令をしいて本館横倉庫裏に突貫工事で建設しただけでなく、高島所長が「だましたのは事実である。われわれは中央の方針に従ってやっているのだから、反対するなら中央に働きかければいい」といい、更に、「諸君も被選挙権を獲得して代議士なり大臣にでもなって法律を改正したらよい」といって入所者を怒らせた警察留置所です。殆ど使われず、もう跡形もありませんでした。

C 所内監房
昭和二十六年七月に建てられました。
執行委員会を開いたら一人足りない、探し回ったら監禁室に入れられており、自治会に何の連絡もなかったという事件があったということで、ほんの些細なことでも入れられたのです。「らい予防法闘争」のあと取り壊され、跡地にカトリック教会が建てられています。

D 解剖室
解剖台から器具類までそっくり揃っており、電気も水道も通っていて今でも使える状況にありましたが、平成四年が最後であったということでした。

解剖に関連の病理標本について、多磨全生園ほかで検証後、胎児が改めて
沢山山見つかりました。駿河療養所では試験室に保管されており、プロジェクトチームによって事前に検証が行われました。

その際の臓器保存名簿によれば、胎児は十一体、そのうち一体は胎盤なし、
一体は胎盤のみ、さらに解剖・手術記録はすべてなし、となっています。
施設の大小を問わずの感を深くしますが、それにしても「標本」は、全部合
わせたらどれ位の数になるのでしよう。断種、堕胎の理由は明らかです。けれど、それが一体、何のためのコレクションであったのか、医師たちの中のホラーと責任の所在も解明される必要があります。
                                    (続く)