全療協ニユース891号より転載

 駿河・復生で第21回検証会議(続き)

      富士山と汗と血と涙と

 二人目は国賠訴訟駿河原告団団長であり、先日まで支部自治会会長兼全療協非常勤中執でもあった西村時夫さんでした。西村さんは、病気治療中のため、妻・冴子さんがずっと隣の席で介添えに当たられていました。

去る11月9日、駿河療養所で行われた、平成16年度合同慰霊祭風景です。今年は西村氏を入れて6名の先輩たちが新たに納骨されました。 新居・から眺める富士山です。

 
 私は一九五六年、中学二年の時、愛知県で病気と診断され、駿河への強制収容を余儀なくされました。もともとの家は岐阜県の山里でした。子供のころ納屋に母親が合わさなかった祖父がいました。一九五〇年、その祖父はトラックで邑久光明園に強制収容されていきました。

 婿養子の父は、村を追われるようにして名古屋に引っ越しましたが、今度は私が発病しました。愛知県は戦前戦後を通じ、悪名高い「無らい県運動」の発祥の地でした。
 入所と同時に私は西村時夫となりました。
 なぜ、本名を変え、どんな病気でここに残されるのか、私は、まだ状況が飲み込めませんでした。そして父親は「解剖承諾書」にサインをし、正門から小雨のなかを嗚咽に肩をふるわせながら、一度だけ振り返り、帰っていきました。

 家は消毒され、私の持ち物は焼却された、ということでした。父は一九七三年五十五歳で亡くなり、私は偽名の由来を聞く機会を失ったのでした。ですので、私は予防法の廃止も、熊本地裁判決も知らずに逝った父の無念を思い、本名の西田博司とともに西村時夫を今も使っています。
 
 先輩たちが「「らい予防法闘争」のなかで要求し、実現させた邑久高校(新良田教室)に私も進学。卒業の翌年の一九六三年、私と冴子は結婚しました。当時、自治会規約では仲人をたて 、お仕着せを着て所内の公民館で式を挙げなければ、部屋が貰えませんでした。結婚に際しては医局から断種手術をいい渡されましたが、私は従いませんでした。

 私たちは一九六七年、名古屋で両家の親族が集い、結婚式を挙げました。私たちは社会復帰しました。中学生以降、社会生活の経験が全くなく、どこからも、何の援助もありません。私はセールスの仕事で交通事故を起こし、大きな精神的ダメージを受けた上、治療薬の服用が不規則になり、病気を再燃させて駿河に戻りました。私たちの夢は僅か三年で挫折しました。
 
 一九七七年三月から私たち夫婦は所内の売店を委託事業として運営することにしました。私は自治会活動の傍ら、妻と二人で朝三時半に起きて二十四年間、大きな病気もせずに続けてきました。ある意味では充実した日々でした。私は一九九七年十二月に自治会会長になり、体調不良で辞任した今年一月までの六年間を加え、合計三十五年間、自治会活動に関わってきました。
 
 このあと、西村さんは「廃止法」のもとでも続いていた偏見差別にについて,駿河の医療の象徴ともいえる眼下診療のお粗末について「らい予防法」改正か廃止に向けての全患協の取り組みに対する駿河支部の立場と意見及びハンセン病訴訟への全療協の立ち後れについて、検証委員として出席していた神事務局長を念頭に批判を込めて述べられました。

駿河療養所納骨堂にて、納骨の儀式 面宿から不自由センター棟を望む


 更に西村さんは偏見と差別に翻弄された奥さんの生い立ちに触れその最後をこう話されました。
 一九八三年私たちに子供が出来ました。何とか産めないか。妻は四十歳、最後のチャンスだと思いました。療養生活を続けながら育てることは出来ないか、施設管理者に相談してみました。「産むのであれば駿河を出て行きなさい。現在は予防法があり、所内では認められない」といわれました。
 売店事業を放棄し、社会で子供を育てることは困難だと考えました。結局、所内では中絶しませんでした。子供は男の子でした。
 妻は気丈にも売店の仕入れからレジ前に立つことも、休みませんでしたが、涙で枕を濡らす夜が幾日も続きました。私自身の決断の弱さによるものであり、妻には本当に済まないと思いました。

 それ以後私たちは一切そのことに触れないようにしています。けれど、テレビに幼児の姿が写し出されると、私は黙ってチャンネルを変えます。悔恨と懺悔の思いが今でも消えることがないからです。親しい人たちでも、初めて聞く話であり、誰にとってもショックでした。

 三人目は元国立感染症ハンセン病研究センター長の阿部正英さんでした。阿部さんは、検証会議の中間報告で研究所の果たした役割について、批判的な意見が述べられているので、まず研究内容等の事実をもって正確を期したい。という立場から話されました。内容は専門的に過ぎますので省略しますが、各委員による質問によっても、およそ次のような結論に向かったといえるでしよう。
 即ち、中間報告で低い評価をしている必ずしもいえないが、終生隔離を終わらせる方向多摩研が有効なリーダーシップを取れなかったこてゃやはり六十年代に政策転換が図れなかったことへの責任を伴うのではないか、と。



 二日目の十九日は午前九時から神山復生病院の見学が行われました。
 
 @ 墓地
 巨大な墓碑に明治二十二年以来、六百六十人余りの氏名と昇天年月日が刻まれていますが、職員も二、三十人含まれているとのことでした。まだ、余白がだいぶんあり「ここに眠りて 復活を待つ」とありました。(写真)
 神山を出て全生園で落ち合い、同園で結婚した人がいましたが、彼らは何時もお墓でデートしていた、ということでした。生分離を原則とし、男女のまじわりがやかましかった復生病院です。
国公立では結婚を餌に園への定着と勤勉と秩序の維持を図ってきた傾向があり。一概にどちらがどうとはいえませんが、それが入口の流出を招いたことは確かでしよう。

A復生記念館
 ハンセン病への理解と、ここで暮らしてきた人たち歴史を後世に残すため、明治三十年に建てられ、平成十四年まで事務所として使われてきた建物が記念館になっていました。
 展示室は入口ロビーと左右の三室に分かれ、年表や歴代院長の写真、遺品をはじめ在院者が娯楽のための楽器、道具、ミサ祭具まどを展示。日曜祭日を除く午前十時から午後四時まで開館している、ということでした。

 B病棟
 復生病院ではハンセン病療養所から一般病院への転換を図ることとし、在来の療養所型病床群に加え、ハンセン病以外の難治性特定疾患や末期ガン患者を対象とした緩和ケアのためにのホスピス病棟を併設。平成十四年五月に竣工し、将来構想の先駆けとして今日に至りました。
 最高時には百三十もいた復生病院在院者は、いまでは、十一人に減っており、そのうちの十人と食堂で非公開により懇談しました。慎み深い人が多く、発言は二・三人に限られましたが、それでも代表の藤原さんは、当然のように将来の不安を述べていました。そこで神事務局長が「最後の一人まで面倒をみる」というターマの状況について説明し、心配事のあるときは全療協に連絡するように、と伝えて懇談会を終えました。それにしても在院者がみんな男性ばかりであったのは、偶然ですかどうですか。