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★暗君★
暗君、暴君、狂君(これは、あまり聞いたことがないですが)、歴史上には、いろいろといてます。
狂暴な君主は別項で取り上げるとして、取りあえず暗愚な君主たちを拾っていきたいと思います。
(1) 衛の懿公
春秋時代前期の衛の君主懿公(いこう)は、動物好き、特に鶴を愛したことで知られています。
特に気に入りの鶴を大臣が乗る「軒(けん)」という車に乗せて運んだりしたので、人々は「鶴大臣」と呼んだとか。
陳舜臣氏が『小説十八史略』で「17世紀末の日本で、人々が犬のことを『お犬さま』と呼んだのに似ている」と書いているように、すぐ徳川綱吉を連想してしまうところですね。
同じく『小説・・』では、「軍隊の食事よりも、鶴の餌のほうが、ずっと豪勢であった」とあります。
また、鄭問(チェン・ウェン)氏の『東周英雄伝』第三巻「意志なき君主」では、広い良田と水源地を確保して衛国宮殿より華麗な鶴園を建てたとか、ひどい旱魃にもかかわらず鶴園の水を領民の田畑にまわさなかったなどの逸話が紹介されています。
そんなおり、北方の異民族狄(てき)が侵攻してきました。
領民は、徴兵に従い雄々しく戦ったか・・・といえば、反応は予想できますね。そう、「鶴に守ってもらえ」だったのです。
かくして、衛の懿公は、BC660年、鶴の群とともに切り刻まれたとのことです。
(2) 南斉の東昏侯
「東昏侯」、即位して三年で廃され、帝号どころか、王号ももらえずずばり「ばか殿」と呼ばれているのですから、思いっきりな人物ですね。
そういえば、安能務氏訳の『封神演義』でも、随所に紂王を「昏君(フンチュン)!」(「この、ばか皇帝!」)とののしるシーンが出てきます。
高帝蕭道成の建国した斉(南北朝のころ、斉という名の国が二つ建国されましたが、いわゆる南斉の方)は、わずか20年で7人の国主の立った暗君、暴君の展覧会のような王朝です。
498年、5代の明帝が死にました。当時の風習では、遺骸はすぐに埋葬せず、最低でも「月を越す」のがしきたりだったそうです。
ところが、当時16歳の皇太子蕭宝巻は「気味が悪いから、すぐに埋めよう」といい、喪主の礼として柩前で哭(な)かねばならないのですが、「喉が痛いから、いやだ」と駄々をこねる。
きわめつけに、羊闡(ようせん)という忠臣の哭踊(体ごと感情を表現するため踊るような形になる、最高の悲しみを表す様式)の際、頭巾が外れ彼の禿頭が見えたのを指差し、「禿げ鷹が鳴きにきた」と手をうって大声で笑い出したそうです。
・・・しかし、当時の礼としては絶対に許されないことばかりですが、気持ち的にはわからないこともないような・・・。まあ、少なくとも声出して笑いはしませんね。
とりわけ、東昏侯が後世に名を残したのは、寵妃潘(はん)夫人に対する色ボケぶり。
寵愛する潘夫人のために黄金で蓮の花をつくって床に敷きつめ、その上を歩かせて「ひとあしごとに蓮の花が生まれる。これこそ、天女の歩みじゃ」と悦に入ったとか。
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幸するところの潘妃、金をもって蓮花を為(つく)り、地上に帖してこれに歩ましめ、曰く、
「これ歩歩蓮花を生ずるなり」
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以後、美女の歩みを「蓮歩」、後世の纏足(てんそく)を美称して「金蓮」などと形容するようになったとのこと。
それはさておき、宝巻は、501年、蕭衍(しょうえん。梁の武帝)に攻められ、内応した家臣に首をはねられました。
駒田信二氏ほかの『新十八史略』によりますと、漢の海昏侯(武帝の孫の昌邑王賀。先帝の葬儀も済まないうちからドンチャン騒ぎを始め、BC74年に重臣霍光に廃された人物ですね)にならって、東昏侯と呼ばれるようになったそうです。
(3) 劉宋の前廃帝
・・・う〜む、人選を誤ったかな。
無難に、後漢の霊帝(お店やさんごっこが大好き。それが嵩じて官職を売る「売官店」を開業。189年没)や、胡亥(こがい。秦の二世皇帝。宦官趙高の謀議によって即位したいきさつから、政治は趙高に任せきりにして芝居見物など道楽にうつつを抜かした。BC207年、趙高の手の者に自決を迫られ没)など、もう少しメジャーどころにすればよかったかも?
というのも、(1)、(2)の前二者はどっかに理解できなくもない部分があったけど、この前廃帝、はっきり言って、そういうかわいい所がない。
まあ、気を取り直してご紹介を続けましょう。
劉裕(宋の高祖武帝)が420年に東晋を滅ぼし宋(後の宋と区別するため劉宋といわれる)を建国し、北方の魏と対立するようになってから隋の統一までを南北朝時代といいます。
前廃帝こと劉子業は、劉宋の五代目。
『小説十八史略』によりますと、人妻となったおば(父の妹)を奪って後宮に入れ、その夫何邁(かまい)を殺す。また、母王太后危篤の際「病人の所には鬼が来るから、そんな所に行けるか」と見舞いにも行かず母を憤死させる。一族の女を集め、乱交パーティーをひらき、それを拒んだおば(先のおばとは別人物。どうも「おば」好みのようですな)を鞭打ち、彼女の子供を殺した・・・あ〜あ、もうやめましょう。暗君というより、別項目の暴君で取り上げるべきだったかもしれません。
さて、彼がなぜ「前」廃帝かというと、七代目劉c(りゅういく)が、やはり廃されたために、劉cの方を後廃帝と呼んだからです。
後廃帝の方は、完全に暴君、いや狂人ですね。だから、前廃帝の方は暗君でも、まあいいか(←オイオイ)
さて、私の選んだ一番のご紹介です。
☆晋の恵帝☆
晋(西晋)の恵帝は、『三国志』でおなじみの司馬懿仲達のひ孫にあたります。
『十八史略』には、次のような記述があります。
恵帝、名は衷(ちゅう)。生まれつき白痴に近かった。
孝恵皇帝、名は衷、性不慧(ふけい)なり。
あるとき、老大臣の「衛かん」は、酒の席で武帝の前でよろけてみせ、帝の腰掛けを手で触り、「ああ、この玉座がもったいない」とつぶやきました。
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衛かん、かつて武帝に侍し、陽(いつわ)り酔いて前に跪(ひざまず)き、手をもって床を撫して曰く、
「この座惜しむべし」。 |
西晋の武帝とは、司馬懿の孫である司馬炎であります。
この老臣は、酔余を装い、後嗣衷が暗愚であることを嘆いてみせたのです。
武帝もさすがに暗然となりましたが、恵帝の嫁の賈(か)妃のカンニングにコロリとだまされました。
武帝は、実際上の政策案件を衷に解決させてみて力量を測ろうとしたのですが、賈妃が人を雇って答案を代作させ、太子に写させました。
それで、武帝は安心し、廃嫡の話は沙汰やみとなったのです。
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武帝悟り、尚書の疑事を密封し、太子をしてこれを決せしむ。
賈氏大いに懼(おそ)れ、外人を倩(やと)いて草を具して代わりて対(こた)えしめ、太子をして自ら写さしむ。
武帝悦(よろこ)び、廃せられざるを得たり。 |
「武帝悦び・・・」という辺に、親ばかぶりというか、「廃嫡しなきゃいけないほど馬鹿じゃない」とすがるような思いで信じ込みたかったんだろうなあ、ということがうかがえます。
最も印象的なのが、次の逸話。
恵帝は頭が弱かった。凶作で天下が飢えに苦しんでいると聞いて「穀物がないなら、肉の粥を食べればいいじゃないか」といった。
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帝、昏愚なり。天下大いに餓う。帝曰く、
「何ぞ肉糜(にくび)を食わざる」
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陳舜臣さんは「『貧乏人は麦を食え』は日本の宰相の語録にあるが・・・」というコメントを付け加えていますが、私が想起するのはマリー・アントアネット。
そう、「パンがないというなら、お菓子を食べればいいじゃないの」と言ったと伝えられていますね。
でも、これは娘の本棚から引っ張り出してきた集英社版学習漫画「世界の伝記マリー・アントアネット」によりますと、王妃を中傷するために別の人の言葉を王妃が言ったように報じられたとのことであります。(・・・しかし、我ながら参考文献を選びませんなあ)
そう言えば、『笑得好』という中国の笑い話を集めた本に、金持ちの若旦那が、空腹のあまりぶっ倒れたモッコかつぎを見て、「飯を食べないなら、なぜ人参湯を飲んでおかなかったのだろう。一杯飲めば半日はもつものを」と言ったという話が載っていました。
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