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★道具扱いされた女性★

 「天の半分を支えるのは女性」、いい言葉だと思いますが、こう言われたのもいわゆる新生中国以後。
 それまでは、人間じゃなくてモノのように、道具扱いされた女性の姿が、そこかしこで見られました。


(1) 趙ul

 漢の武帝劉徹 BC159〜BC87)といえば、一般には、衛青霍去病といった武将にも恵まれ、大いに武威を四方に輝かせ、前漢の黄金時代を築いた大皇帝というイメージがあるかと思います。
(もっとも、黄河の決壊を放置し、何百万人もの流民を出し、後年宣帝が廟号を奉ろうと詔した際、ある儒者は、武帝は徳がないから不要だと上申したという話もあるようです。→『中国歴代皇帝人物事典』

 武帝は、在位がBC141〜BC87といいますから、在位期間は半世紀を超えます。
(ちなみに、それ以後半世紀を超えるのは、はるか時代をくだって清朝の康煕帝(1661〜1722)と、乾隆帝(1662〜1722)のみ)

 しかし、その晩年は決して幸福とはいえませんでした。衛皇后との間の皇太子劉拠も、姦臣江充によって謀反の罪を着せられ、命を失いました。いわゆる巫蠱(ふこ)の乱です。
 冤罪であったことが判明し、「思子宮」や「帰来望思の台」を築き、皇太子の魂魄が還ることを願ったところで、まさに後の祭り。頼もしき後継者を自分の手で摘んでしまった武帝は一挙に老け込みました。

 そして、武帝が次なる皇太子に指名しようとしたのは、末子の弗陵、当時わずかに7歳でした。

 弗陵の母は趙ul。ul(しょうよ)というのは、後宮における地位の呼称であって、人名ではありません。
 ですから、趙氏とか、趙夫人とか、また、鉤弋宮に住んでいたことから鉤弋(こうよく)夫人とも呼ばれました。後宮入りした時のいきさつから拳夫人と呼ばれること(ギネス「選ぶきっかけ」余談参照)もあったようです。

 ある日、趙ulは、ごくごくささいなことで、武帝の叱責を受けました。いくら詫びても、なぜか武帝の怒りはとけません。
 周囲も、何より趙ul自身も信じられないことに、そのまま許されることなく、処刑されてしまったのです。

 自分の命はもう長くはない。幼帝が即位すれば、その後見たる母が実権を握り、権勢をふるって、自己の欲望を満たそうとするのは必定。
 そうすれば、呂后の二の舞であり、国家が乱れるもとである。ここは、皇太子の母には死んでもらわねばならぬ。そんな冷徹な計算のもと、趙ulの命はいとも簡単に奪われたのでした。

孝昭皇帝、名は弗陵。
母は鉤弋夫人、趙氏なり。
〜年七歳、体、壮大にして多知なり。
武帝これを立てんと欲す。
〜鉤弋夫人を譴責して死を賜う。
曰く、「古(いにしえ)、国家の乱るるゆえんは、主少(わか)く母壮にして、驕淫自恣なるに由る」。

    


(2) 平原君の側室

 魏の信陵君、楚の春申君、斉の孟嘗君、そして趙の平原君は、いわゆる「戦国の四公子」として、それぞれ多くの食客をかかえていました。

 さて、小川環樹氏ほか訳『史記列伝』:「平原君・虞卿列伝」(岩波文庫)より引用します。一部不適切な用語が含まれている点は、ご了承ください。

 「平原君趙勝は、趙の国の公子である。
〜民家に足の不自由な男がいて、びっこを引き引き水をくみに出る。平原君のめかけが「たかどの」からこれを見て大わらいした。

 そのあくる日、男は平原君の家をおとずれて申し出た。
『〜私はふしあわせにもせむしの病いがございます。それを奥の間の方々は、見おろしてお笑いなされました。あの笑ったひとの首をいただきとう存じます』。
 平原君は笑って、よしと答えた。男が行ってしまうと、平原君は笑いながら、
『あいつめ、事もあろうに笑われたばかりを根にもち、わしの妾を殺させようとしおる。あまりにもひどいではないか』と言い、とうとう殺すことはさせずにおいた。

 ところが一年あまりたつと、賓客や家の家来たちはだんだんどこかへ行って、なかばをこえた。平原君はふしぎに思い、言った、
『わしは諸君に失礼がないよう気をつこうて、まちがいはせなんだはずじゃが、去ってゆくものが多いのは何ゆえであろうな』。
 ひとりの家来が進み出てこたえた、
殿さまがあの足のわるい男を笑った女をば殺されませぬためでございます。殿さまはすぐれた士よりも女を惜しみたもうと思い、すぐにいなくなったのであります』
 このとき平原君ははじめて跛(びっこ)を笑っためかけの首を切り、その男の家へ自身で行き差し出して、わびを言ったのであった。」

 さて、現在の人権感覚を2000年以上も昔の話にあてはめるのが妥当でないのはわかっています。それにしても、平原君の言動には首肯できません。
 身体障害者を笑った側室は確かに悪い。
 男の申し入れに対し、
 「まことに申し訳ない。おっしゃるように、あやつの首を差し上げておわびしたいところなれど、命まで奪うのも、ちと哀れである。
 よって、直ちに放逐いたすので、それでこらえてもらえまいか」とでも言うようなら、平原君は四公子の中でもトップに立てたのではないでしょうか。

 しかし、平原君は、当初は別に大して悪いことをしたとは思っていませんでした。そのくせ、思いもよらず自分の声望、評判が落ちていることを知った彼は、今さらその側室を追い出すくらいでは失地回復のインパクトが乏しいと判断するや、ためらいもなく、彼女の命を奪ったのです。
 まさしく、彼女の首は、平原君にとっては人気回復のための道具でしかなかったのでしょう。

                                              


(3) 張巡の愛妾

 
布目・栗原両氏の『隋唐帝国』によると、安禄山はイラン系のソグド人を父に、突厥婦人を母にもった混血の異民族だそうです。
 安禄山が権勢を振るうのは、楊貴妃、そして玄宗に巧みに取り入ったという点も大きいのですが、時の宰相李林甫の影響も見逃せないようです。

 唐代、710年から721年にかけて辺境防衛体制として地方に藩鎮という組織が置かれました。その最高指揮者が節度使です。
 当初、安西・北庭・河西・隴右・平盧といった長城外の節度使には異民族も含む武官系、そして長城内の朔方・河東・范陽や西南部の剣南・嶺南の節度使には文官系の人物が任命される傾向がありました。
 しかも、とりわけ長城内の節度使に任命された中央の文官は、その後、多くが宰相になるという出世コースだったのです。

 李林甫といえば、ギネス「讒言(芽を摘む)」でもご紹介したように、自らの地位を守るためライバルになりそうな人間の芽を摘み続けた男。
 長城内の節度使にも、中央官界での出世は望めない、つまり宰相となって自分の地位を脅かす心配のない武官、異民族をあてるようにしたのです。

 安禄山は、742年に平盧(現在の遼寧省朝陽市)の節度使に任ぜられたのを皮切りに、744年には范陽(北京市)、そして751年には河東(山西省太原市)の節度使を兼任するに至りました。

 ところが、752年に李林甫が病死し、楊貴妃の従祖兄(またいとこ)にあたる楊国忠が後任の宰相となると、安禄山の権勢にも陰りがみえてきました。玄宗の側近くにあることを利用して、楊国忠は、しばしば「安禄山に謀反の意あり」と皇帝の耳に入れたのです。
 755年、安禄山は、半ば追い込まれるような形で、「君側の逆賊楊国忠を除く」という名目で乱をおこしました。

 太平の世に慣れた唐朝は、あわてて長安の市民から兵を募ったりしましたが、そんな付け焼刃では剽悍な安禄山の大軍に敵すべくもありません。しかし、そんな中で最も熾烈な攻防戦を展開したのが、睢陽城に立てこもった張巡許遠です。
 長期にわたる籠城戦で、城中では兵糧が底を尽きはじめました。撤退を求める声もありましたが、二人は、断固籠城を貫きました。
 この睢陽は長江、淮水一帯を防備する要の地点だからです。

 将兵たちは、茶の葉をかじり、紙を食べ、軍馬を殺し、果ては雀や鼠まで捕まえて食べましたが、ついにそれらも尽き果てました。張巡が次に屠(ほふ)ったのは・・・自らの愛妾だったのです。 

 
茶、紙を食う。尽く。
ついに馬を食う。馬尽く。
雀を羅し、鼠を掘る。雀・鼠また尽く。
巡、愛妾を殺してもって士を食わしむ。

   

(余談)
 これで思い出してしまうのが、三国志演義の中の一節。小川・金田両氏訳の『完訳 三国志』(岩波文庫)から引用します。

 「かれは、おのれの同族にあたる劉予州が来られたと聞き、何か猟の獲物もがなとさがしまわったが、何としても得られなかったので、とうとう妻を殺してその肉を食事に出した。」  

 かれというのは、猟師の劉安という若者。同族といっても、おそらく単に同姓であるだけの劉備呂布に追われ敗走中)を、妻の肉でもてなしたのです。

 そして、さらに「鉢木」という話を思い出してしまいました。最明寺(北条)時頼がある日吹雪に出会い、佐野源左衛門常世という武士のあばら家に難を逃れました。
 焚き木が底をつき、常世は愛蔵していた梅・松・桜の鉢の木をいろりにくべて、時頼をもてなしました。
(私は、小学生の頃何かの本で読んだのですが、能や歌舞伎にもなってるようです)

 ともあれ、同じ客をもてなすにも、妻の肉と鉢植えの木という辺に、何となく中国と日本の違いがあるような気がします。
(あと、極端なとこでは、手塚治虫氏の『ブッダ』で読んだ、飢えで行き倒れたインドの聖人のため、ウサギが自ら焚き火の中に身を投げ、自分の肉を捧げたという仏教の説話なんかもありますね。介子推にも似たような話が・・・)

 


☆王昭君☆

王昭君  古来、そして洋の東西を問わず政略結婚というものは存在します。
 しかし、私が特に目立つように感じるのは、武力に勝る異民族を懐柔しようとして、辺境の地にやられた女性たちの姿です。
 これは、ひょっとすると私自身「中華思想」にとらわれているせいかもしれません。

 BC200年、劉邦(漢の高祖)は韓王信の反逆に怒って晋陽に出撃した際、白登という平城(山西省大同市)付近の丘陵で匈奴の大軍に七日間にわたり包囲され、陳平の謀計により命からがら逃げのびたことがありました。
 その敗北の後に匈奴と結んだ和議の中で、公主(皇帝の娘)を単于(ぜんう。匈奴の王)の閼氏(あつし。単于の妻)として与えることとなったのです。


 実際には、皇帝の実の娘ではないのですが、こうして匈奴に与えられる娘のことを和蕃公主と世間では呼びました。
 中原の漢民族というか、礼経に従う者が「中華」であって、それ以外は東夷・西戎・南蛮・北狄といった蕃人どもと考えられていました。いくら国の平和を守るためといいながら、そんな野蛮な異境へやられるとは・・・と同情が集まったのでしょう。

 漢の武帝は、天山山脈の北に位置する烏孫国王に対しても、甥の江都王の娘(名は細君)を内親王にしたてて嫁入らせました。BC110年のことです。彼女がかの地でつくったとされる「烏孫公主の歌」を、貝塚茂樹氏の『中国のあけぼの』(河出書房)から引用します。

 
わが家はわれを嫁しぬ天の一方に
穹(まる)き盧(ろ)を室(いえ)となし
肉をもって食となし
居常(ひねもす)に土(くに)を思いて
願わくば黄なる鵠(おおとり)となりて
遠く託(つか)う異国の烏孫王
旃(けおりもの)を牆(かべ)となす
酪(らく)を漿(しる)となす
心の内の傷(いた)む
故郷に帰らん


 さて、漢の宣帝の時代、西域諸国が漢に帰服し、BC60年に西域都護が設置されました。
 その頃、匈奴は内部分裂を起こし、呼韓邪(こかんや)単于が兄の郅支(しつし)単于と対立して、漢の助勢を請うためBC51年に来朝したのです。

 郅支単于は、宣帝の次の元帝の代に漢軍によって殺されました。呼韓邪単于は答礼のため再び来朝し、その際に妻の下賜を願いました。
 そして、BC33年に与えられたのが、王昭君です。

 王昭君の選出に関して、いろいろな話が創作されたことについては、ギネス「選ぶきっかけ」でもご紹介しました。

 岡本隆三氏の『中国史の謎と怪異』(日本文芸社)によると、王昭君を悲劇のヒロインとして決定的に有名にしたのは、1829年には英訳もされた馬致遠の元曲『漢宮秋』
 これでは、国を守るため王昭君は自ら匈奴に嫁ぐことを申し出たものの、漢と匈奴の国境の黒河まで来たとき、河に身を投げて自殺する・・・とあるそうです。

 広辞苑でも、「胡地にあって怨思の歌を作り、後、服毒自殺」と書かれていました。
 史書では、呼韓邪単于の死後、あとを継いだ義理の息子と再婚させられた(匈奴など、遊牧民族では一般的な風習です)とはありますが、自殺とは書いていないようなのですが・・・。やはり、彼女は、国家の犠牲となった、悲しい女性だったのでしょうか?
 
 前『人民日報』編集長のケ拓が北京晩報という夕刊紙に連載した随筆が『燕山夜話』ですが、そこにこんなちょっとほっとする話が載っていました。

 謝覚哉(中国政法学会名誉会長)らが内蒙地区の民間伝説について詳細に調査研究したところ、王昭君は匈奴に行った際、土地の女性に機織り、裁縫、農業技術などを教えて、人民から善良で勤勉な婦人として深い敬愛を受けていることがわかったというのです。
 彼女の死後も、黒河のほとり(内蒙古自治区のフフホト市)に墓塚をつくり、現在でも大切にされているとか。
 そうですね。その身は道具のようにやり取りをされても、「こころ」までは奪えなかった。その場所、その時代で精一杯に生きたんだと信じたいなと思います。


このほか、『史記』:「孫子・呉起列伝」で、魯に仕えていたとき、斉と戦争になったが、斉から妻を娶っていたため忠誠心を疑われ、大将に起用されなかった。そこで、妻を殺し、証しとしたといわれる呉起
 また、出世の切り札となると見込んだ公子子楚(後の秦の荘襄王)に望まれ、既に妊娠していると知りながら自分の愛姫を譲った呂不韋なども、女性をモノ扱いした人物といえるでしょうね。

 今回(と言うか、いつものことですが)話があっちゃ飛び、こっちゃ飛びしてずいぶん長くなりました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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