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選ぶきっかけ

 皇帝が、数多(あまた)いる女性の中から一人を選ぶ、そのきっかけにもいろいろあります。
 もっとも、そんななれそめは、本来なら男女の間の秘め事。正式な「歴史」というよりは、物語、伝承に類するものが多い点はご容赦願います。 


(1) 適当に指名(漢の元帝)

 漢の元帝劉奭=りゅうせき。BC75〜BC33)は、宣帝許皇后の間の子。皇太子時代の彼と王政君とのなれそめ(?)を『漢書列伝選』:「元后」(筑摩叢書)から引用してみましょう。

 「皇太子が寵愛していた司馬良娣(しばりょうてい)〜が亡くなると、太子はかなしみと怒りのため病気になり、まるで腑抜けのようにぼんやりとしてしまって、なんの楽しみも感じなくなった。
〜父の宣帝は〜皇后にいいつけて、後宮の家人子のうちで、太子の気に入るようかしずきうるものを択ばせた。
〜皇后は政君ら五人を呼び出して太子に会わせ、かたわらにいる長御(ちょうぎょ。女官長)にそっといいつけて、太子が五人のうち誰が気に入ったかを尋ねさせた。
 ところが太子は五人のうち誰にも興味がない。しかし皇后の手前、やむを得ず強いて返事をして、『このうち一人だけ気に入りました』と答えた。
 そのとき政君は太子に近い所に座席があり、彼女だけが真紅の縁のある諸于(しょう。袿衣=うちかけの類)を着ていた。長御はこの女だなと思った。」

 実に投げやりに、ええかげんに選んだわけですね。この辺を、陳舜臣氏の『小説十八史略』の記述を参考にもう少し補っていきます。

 元帝の生母許皇后は、以前に霍光の妻に毒殺されたので、当時の皇后は王皇后にかわっていました。

 王皇后は、新しい花嫁候補に、自分と同じ王という姓の娘ばかりを選びました。皇太子は、周りからやいのやいのと迫られるので、適当に「一人・・・」といっただけで、別に誰でも良かったのです。
 しかし、いきさつはどうであれ、結果的に選ばれたのは、王禁という者の娘で、名を政君といいました。

 皇太子が即位して元帝となると、政君は皇后となりました。
 そんな愛情薄い結びつきだけに、王政君は、元帝存命中はいつ廃されるかびくびくものだったのでしょう。
 その不安が、かえって元帝死後の、行き過ぎた身内びいき(ギネス「七光り」をご参照ください)に結びついたのかもしれません。



(2) 色気がないという噂に・・・(漢の高祖)

 これも陳舜臣氏の前掲書及び『中国の歴史』を参考にさせていただきます。

 漢の高祖劉邦BC247〜BC195)の後宮にいた薄氏は、管夫人と趙子児という二人の女性と仲が良く、普段から「誰が先に出世しても、お互いに忘れずにいましょうね」と言い合っていたそうです。

 ところが、管夫人と趙子児の二人は早々に高祖の寵愛を受けましたが、いつまでたっても薄氏には、お声がかかりません。
 「あたしたちは、漢王さまのご寵愛をうけ、河南宮に入れたけど、あの子はどうしてるかしら」
 「だめよ、あの子は、さっぱり色気がないんだから」

 そんな噂話を聞きつけた劉邦は、彼女らから少女時代に交わした約束なども耳にして、薄氏のことを哀れにも思い、また、いったいどんな女なのかという好奇心もはたらいたのでしょう。さっそく薄氏を召してみることにしました。
 しかし、彼女は、やはり色気というか、強く劉邦をとらえる魅力には乏しかったようです。ただ一度の寵愛を限りに、二度と召されることはありませんでした。

(余談その1)
 しかし、彼女は、この一度の寵愛で身ごもりました。その子が、名君と名高い文帝です。
 本当に、その後二度と召されなかったのかどうかはわかりませんが、深い寵愛の対象でなかったのは事実です。
 ところが、おもしろいことに、後にそれが幸いします。その辺のことは、ギネス「災い転じて・・・」をご参照ください。そこには、上記の宣帝のことも出てきます。 

(余談その2)
 陳舜臣氏は、こうしたエピソードを交えるのに巧みで、ここで挙げた2冊でも、漢の武帝趙ulとのなれそめで拳娘(けんじょう)という逸話を紹介されています。

 いわく、趙ulは河間出身で、生まれつき両手の拳を握り締めたままで、どうしても開かなかった。しかし、高貴な方がお触れになった場合は開くという言い伝えがあり、県令やら郡守やらが触ったが、開かない。
 そんな「拳娘」の怪異譚を聞きつけて興味を持った武帝が、その手に触れると・・・というものです。
 しかし、彼女はむしろその最期が印象的です。これについては、ギネス「道具扱いされた女性」の項をご参照ください。


(3) 羊が導く(晋の武帝) 

 「三国志演義」で培われた「三国鼎立」というイメージから、何だか魏・呉・蜀って勢力が拮抗していたように思われがちです。しかし、実際には中原を制圧していた魏が人口等の点で他を圧倒した国力を有していたというのは、皆さんご承知のとおり。
 この辺、宮崎市定氏の『中国史』でも「結局三国の実力は(魏・呉・蜀の順で)、六、二、一位の比かと思われる」と書いておられます。
 しかし、そんな圧倒的優勢を誇っていた魏がすんなり全国統一・・・といかないのが、歴史のおもしろいところ。
 司馬懿
のクーデターで魏の実権を握った後、孫にあたる司馬炎は魏王に禅譲を迫り、晋の武帝となりました(265年)。
 そして、呉の孫皓(そんこう)を降し、天下を平定(280年)したのです。

  武帝(236年〜290年)は、即位した当初こそ奢侈をいましめ、雉頭裘(ちとうきゅう。キジの頭の毛でつくった上衣)などのぜいたく品を太極殿の前で焼き捨て、自ら節倹の見本を示したりもしました。

 ところが、天下を統一してしまうと、とたんに気がゆるみ、後宮には宮女数千人を置きました。
 そうなると、どの女を選ぶのかも大変ですし、第一、女たちの部屋を巡り歩くにも骨が折れる。そこで、羊が引く車に乗って、後宮の廊下を往来し、羊がたまたま歩みを止めた部屋の女性を寵愛することにしました。
 ある頭の良い女官が、部屋の入り口に竹の葉を挿し、それに塩をふりかけました。それで羊を誘おうというのです。

 
 帝、初め位に即き、かつて雉頭裘を太極殿の前に焚(や)きて、もって倹を示す。既にして侈縦(ししょう)なり。後宮数千あり。常に羊車に乗る。宮人、竹葉を門に挿し、塩を洒(そそ)ぎてもってこれを待つ。

    

 「将を射んと欲さば、まず駒を射よ」ならぬ、「武帝を誘わんと欲さば、まず羊を・・・」ですね。
 今でも、飲食店の玄関などに置かれる「盛り塩」の習慣は、これが起源だそうです。


☆似顔絵帖(元帝)☆

 さて、(1)でも出てきた漢の元帝、後宮の女性全員の肖像を画工に描かせ、その似顔絵帖を見て気に入った娘を指名し、寝室に召したそうです。いわば、写真顔見せシステムみたいなもんですな(←おいおい)。

 ここで有名なのが王昭君のおはなし。
 と言っても、『十八史略』では、匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)が、匈奴統一に力を貸してもらった返礼のため来朝(BC33年)した際、漢の皇女を娶りたいといったので、後宮から王嬙(おうしょう)字は昭君という女性を選んで与えた、とあるだけです。

 竟寧元年、呼韓邪単于来朝す。願わくは漢に壻(むこ)たらん、と。後宮の王嬙字は昭君をもってこれに賜う。

   

 
『資治通鑑』でも、「帝、後宮の良家の子王嬙字は昭君をもって単于に賜う。〜単于、王昭君を号して寧胡閼氏(ねいこあつし。胡を寧(やす)んずる婦人)となす。一男伊屠智牙師(いとちがし)を生む。右日逐王(ゆうじつちくおう)となす。」とあるくらい。

 では、何故有名になったかというと、どうやら劉歆(りゅうきん)の作と伝えられる『西京雑記』の中の「王嬙」という一編が、その由来のようです。
 似顔絵帖で選ぶので、帝の寵愛を得んと欲する宮女たちは競って、画工に賄賂を贈り、少しでも帝の心をそそるような美人に描いてもらおうとしました。

 しかし、ひとり王嬙のみは、そのような不正を諒とせず、まいないを贈りません。そんな王嬙を小面憎く思った画工は、わざと醜く描いたため、帝に召されることはありませんでした。
王昭君


 単于から妻を求められた帝は、いなくなっても惜しくない女性を・・・と似顔絵帖で選んだのが王昭君。
 さて、単于と共に旅立とうとする王昭君を引見したところ、類まれなる美しさ。帝は深く後悔しましたが、匈奴との信頼関係を重んずれば、今さら取り消すわけにもいきません。
 涙をのんで送り出した後、帝は画工たちの不正に憤り、ことごとく死刑に処したため、毛延寿といった名匠たちまで命を落としたそうです。

(余談その1)
 王昭君については、外交政策の犠牲となって、文化果つる遠い異国にやられた悲劇の人なのか、それともそうでないのか、いろいろ論議のあるところです。
 この辺も、ギネス「道具扱いされた女性」の項をご参照ください。

(余談その2)
 女から男へ、だったので選外といたしましたが、後周の太祖郭威904〜954)を見初めた柴氏のエピソードも、好きな逸話のひとつ。

 後唐の荘宗の頃、宮中に仕えていた柴氏という女官が、婿選びをするため里帰りしました。ある日、何となく門外を眺めていると、すごい勢いで駆け抜けていった男がいました。
 何かピピッ!とひらめくものがあったのか、名前や素性を尋ね、彼に嫁ぐことを決意したのです。
 両親は驚き、お前は皇帝のお側近くにお仕えまでした身、節度使くらいでなければつり合いが取れないから、あんな男はやめなさいと猛反対。
 しかし、柴氏はとうとう初志を貫徹したのでした。

  唐の荘宗に宮人柴氏あり。その家に帰りて姻を択ぶ。一日、門に窺(うかが)う。疾走して過ぐる者あるを見る。柴氏大いに驚いて何人ぞと問う。
 告ぐる者曰く、「従馬軍使、郭雀児なり」。柴氏これに嫁がんと欲す。父母、肯(がえん)ぜずして曰く、「汝は帝の左右の人なり。節度使に嫁ぐべし。いかんぞこの人に嫁がん」。
 柴氏、堅く他人に嫁がず、ついに威に帰す。

  

 

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