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★廃嫡(えこひいき編)★

 さて、廃嫡の第2パターンのご紹介。同じ腹を痛めた子でありながら、不思議と兄より弟を可愛がる母。そうした「えこひいき」が原因となる事例をいくつか取り集めました。


(1) 鄭の武公の妻武姜→寤生・共叔段

 鄭は、現在の河南省洛陽の東方にBC8世紀頃建国された国です。武公は、鄭国第二代の君主で、名は掘突です。

 さて、武姜とは、武公が申国から娶った夫人です。彼女は、荘公共叔段という二人の子を生みました。
 ところが、長男は生まれる際「逆子(さかご)」であったため、名前も「寤生」(ごせい。逆子という意味)と名付けられました。
 武姜は、寤生を憎み、弟段を偏愛したので、段を後継ぎとするよう何度も夫にお願いしましたが、ついに武公は聞き入れませんでした。

 初め鄭の武公、申に娶る。武姜という。荘公と共叔段とを生めり。
 荘公寤生して、姜を驚かしたり。故に名づけて寤生といい、ついにこれを悪(にく)む。共叔段を愛して、これを立てんと欲し、しばしば武公に請う。公許さず。

                                           『左伝』

     
 さて、まずは生母のえこひいきで廃嫡されそうになった鄭の荘公の場合を挙げました。
 しかし、なんだかなあ・・・「さかご」なんて名前つけますか、普通。「私を殺そうとした子」として憎んだのでしょうか。

 荘公即位後も、武姜は「段に要地を与えなさい」と要求し、果ては段の謀反の手引きまでしようとしました。 
 ことここに至り、荘公は機先を制し段の本拠地である京城を攻め、国外に追ったのです。


(2) 周の恵后→襄王・大叔帯

 周王室の紊(みだ)れとは、襄王大叔帯という兄弟の争いをいう。

 骨肉の争いの近因は、生母である恵后の偏愛にある。すなわち先代の周王であった恵王の后(きさき)であった恵后は、太子ではない帯という子を溺愛し、恵王が崩御した直後に、帯に王位を継がせたいという意向をもらした。
 恵后の愛情が自分にむけられていないことを知りつつも、襄王は即位した。

 「帯に王位を譲ればよいものを・・・」
 恵后の不満がつねに王室内を動揺させ、襄王に不安をあたえつづけた。
 即位して三年後に、大叔帯が与党を集めて挙兵することを知った襄王は、機先を制するように弟を討った。

・・・似たような話があるものですねえ。ところで、この文章、どこかで見覚えが?そう、これは、現在朝日新聞で連載中の宮城谷昌光氏の『沙中の回廊』(第26回。平成11年10月2日分)の一節でした。


(3) 隋の独孤皇后→楊勇・楊広

 隋の高祖楊堅文帝)は、581年に帝位につき国号を隋と定めました。

 さて、太子のは寵愛する女性が多く、妃は愛されぬまま世を去りました。母である独孤皇后は、そんな勇が苦々しくてたまりません。

 そこで、次男のは、父母の気に入るように自分のうわべを取り繕い、太子の座を奪おうとしました。皇后が進言して、ついに帝は勇を廃して広を太子に立てたのです。
独孤皇后



    
 勇、内寵多く、妃、寵なくして死す。而して庶子多し。独孤皇后深くこれを悪(にく)む。晋王広いよいよ自ら矯飾して、嫡を奪うの計をなす。后、帝を賛(たす)けて勇を廃せしめ、而して広を立てて太子となす。

    

 独孤皇后はこの時代にしては異常なほど嫉妬心が強く、皇后存命中、文帝は一人の妃妾も置かなかったといいます。

 宮崎市定氏の『隋の煬帝』によりますと、独孤皇后は、臣下でも妾が懐妊したと聞くと帝に勧めて免職させたそうです。
 それだけに、太子の勇が阿雲という側室を寵愛し、正妻の元氏が死んだのも雲氏に毒殺されたとの噂などは絶対に許せないと感じたことでしょう。

 一方、広は側室が懐妊すると闇から闇に葬ってしまって、正妻蕭氏のほかには婦人を近づけない風を装う。
 また、父母が家に来た時には、若い美人や贅沢な調度品は別室に隠し、老婦に粗末な服を着せて給仕に出し、弦が切れほこりをかぶったままの楽器をさりげなく目につくような所に置くという細かい芸もしています。
 長いこと宴会や舞踏会をしていないことのアピールですね。文帝は若い頃貧乏をしたことがあるため倹約家でした。勇がお坊ちゃんらしく大っぴらに贅沢をするのが父の不興をかった一因、と計算したうえのことです。

 こうした広の演技が功を奏し、勇が廃嫡されたのは600年の10月のことでした。


館陶公主→劉栄・劉徹

漢の武帝  さて、以上3例はいずれも生母の偏愛でしたが、今度はそれ以外の要因がはたらいたケースを。その結果が天下に名高い漢の武帝なので、これをトップといたします。

 劉徹が漢帝国4代皇帝景帝王夫人の間に生まれたのはBC156年。徹は景帝の第9子です。
 薄皇后
には子がなかったので廃されており、皇太子は栗姫の子劉栄でした。

 では、なぜ徹に皇太子の座が転がりこんできたのか。それは、景帝の姉館陶公主のバックアップがあったからです。


 館陶公主には娘がおり、公主は娘が皇太子の許婚者、つまり未来の皇后となれば自分も先々安泰だと考えました。
 ところが、栗姫はこの話にうんといわなかったのです。そこで、公主は栄を廃嫡に追い込み、徹を太子に立てることに成功しました。

 この辺の話、『新十八史略』「帝王の哀歓 武帝物語」(後藤基巳氏)や『人物 中国の歴史』「漢の武帝」(村松暎氏)にもありましたが、史実にどの程度基づいているかは別として陳舜臣氏の『小説十八史略』の記述が一番「おもしろかった」ので、それをベースに紹介します。

 「女衒(ぜげん)の娘が皇太子妃になれるものか!」
 
栗姫は、そういって館陶公主からの縁談話を拒絶しました。
 薄皇后が廃されて後、劉栄が太子に立てられ、当然その母が立后されるか・・・と思われたのにその沙汰はありません。
 自尊心が傷つけられた栗姫は、原因は館陶公主が次々と新しい女性を景帝に勧めるからだと怨んでいたのです。

 しかし、女衒云々が公主の耳に入ったからたまりません。公主としたら、先帝(文帝)の長女、皇帝の姉なれど臣下に嫁した身なので、下手に出た申し出をしたつもりだったのです。

 栗姫憎しの気持ちから、どうすれば彼女を皇后とか皇帝の生母という地位につけずにすむか、と謀略をめぐらすこととなりました。当然、息子を皇太子の座から引きずりおろすことです。

 姉ですから、弟景帝の心を動かすつぼは心得ています。おりにふれ、栄をくさす一方で、徹のことをほめ上げました。

 ある日公主は、風邪気味の景帝に「帝に万一のことがあったら、私たち女子供はどうなるでしょう。皇太子はまだ幼いので、生母栗姫に面倒を見てくださるようお願いしてください」と涙ながらに訴えました。
 「大した病気じゃないのに、心配性なことだ」と苦笑しながら、帝は
 「万一の時は、皇子や皇族の女たちを頼むぞ」と栗姫を召して声をかけました。

 ところが、そこにも公主のわなが。栗姫は、皇后に立てられぬイライラから、それでなくても普段からヒステリー状態でした。
 それに加えて公主は、栗姫の侍女たちを買収し、食事の時碗が割れるやら、服に袖を通すと縫い目がほつれるやら、靴の片方がぼろぼろになって犬小屋から見つかるやらトラブル続きで、栗姫を極限状態まで追いつめておいたのです。

 何気ない帝の申し出を栗姫はヒステリックに拒絶しました。

 これでは将来が思いやられる・・・そう考えた景帝は、皇太子の栄を廃し、その5か月後、王夫人を皇后とするとともに徹を皇太子としました。BC150年のことでした。
 

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