移動メニューにジャンプ

★引き際★

 「出処進退」に人間の器量があらわれる・・・なんて、申します。
 けっこうがんばった人なのに、惜しいかな、晩節を汚してしまったために何となく全体のイメージまで損なわれてしまった人っていますよね。
 さて、今回はそうした「引き際」の鮮やかな人たちをご紹介します。


(1) 秦の范雎(はんしょ)

 范雎は、もともと魏の人です。
 下積み時代の逸話は、また「復讐」か何かの項目で取り上げたいので詳述しませんが、概略はこうです。

 范雎は、魏の中大夫須賈(しゅか。又は、すか)に仕えていましたが、身に覚えのないことで疑われ公子魏斉にひどい目にあわされました。
 ようよう逃げ出し、その後苦労の末、BC266年には秦の昭襄王のもとで宰相までのぼりつめました。
 後に須賈が秦への使者としてやって来た時に、往時の意趣返しを遂げるというものです。

 彼のそのときの復讐のやりくち、また、将軍白起の功をねたみ足を引っ張った(BC260年に長平で趙の軍を大破するなど快進撃中の白起の軍を、王に巧みに進言して退却させた)ことなどもあって、私はどうも范雎は好きになれません。

 それはさておき、范雎も晩年にはだいぶ将来に翳りがみえてきました。
 名将白起を死に追いやったことで「(外敵が多いというのに)良い将軍がいなくなってしまった」と昭襄王の不興をかいました。

 王、朝に臨んで嘆じて曰く、「内に良将なく、外に強敵多し」。雎懼(おそ)れる。

          
 また、魏から逃れ秦入りするときに恩義を受けた鄭安平を白起の後任に推挙したのですが、趙に敗れ降参してしまう。また、同じく推挙した王稽も内通のとがで処刑されてしまいます。

 秦の法では、このような場合、推挙した者にも同罪とされます。王の特別の計らいで不問とされますが、内心針のむしろに座らされている気持ちだったことでしょう。
 そんな彼の心の隙間に巧みに入り込んだのが蔡沢という論客。
 『史記』「范雎・蔡沢列伝」では、ながながと商鞅、白起、呉起大夫種の四人の例をひき、災いを避けるために引退し、後進(つまり、自分のことですな)に道を譲れと説得する様子が描かれています。

 この辺、『十八史略』では、エッセンスとしてこう表現されています。
 「春夏秋冬、各季節にしても、役目が終われば次と交代するものだ」こういわれた范雎は、病と称して職を辞し、蔡沢が後任となった。

 蔡沢曰く、「四時の序、功を成す者は去る」。雎、病と称す。沢これに代わる。

          

 なお、范「雎」の字ですが、『資治通鑑』や『十八史略』などでは、「目」へん(「へん」と「つくり」のへん)で「はんすい」と読むことが多いようです。


(2) 張良

 張良は、漢の高祖劉邦の参謀長、神算鬼謀の大軍師であります。
 
 病気がちで、一人で部隊を引き連れ戦ったことはなく、いつも参謀として劉邦の側にいました。

 張良は多病にして、未だ嘗て特(ひと)り将たらざるなり。
 常に画策の臣と為りて、時時漢王に従う。
                                 『史記』「留侯世家」

          

 張良は、重要なターニングポイントごとに実に適切な進言をしますが、その明察ぶりは、まさに神業といってもいいくらいです。
 その具体的な内容については、また別の項目で取り上げたいと思います。

 さて、張良の献策よろしきを得て、劉邦はみごと天下を統一します。
 BC201年の正月、功臣に領地を授けることになりました。
 戦場での功績こそないですが、「本陣のとばりの中で計略をめぐらし、勝利を決定づけたのは張良だ」として、劉邦自ら斉の三万戸を選びました。

 ところが、張良は、「それがし下ひ(地名)より身を起こし、上様と留でお目にかかりました。これ、天の配剤であります。陛下には私の計を採用していただき、幸いにも時おり的中いたしました。留の地をいただければ充分で、三万戸などとんでもございません」といいました。

 漢の六年、正月、功臣を封ず。良、未だ嘗て戦闘の功あらざるも、高帝曰く、「籌策(ちゅうさく)を帷帳(いちょう)の中に運(めぐ)らし、勝ちを千里の外に決せしは、子房の功なり」と。自ら斉の三万戸を択(えら)ぶ。
良曰く、「始め臣、下ひより起こり、上と留に会う。此れ天が臣を以て陛下に授けしなり。陛下、臣の計を用い、幸いにして時に中(あ)たる。臣願う、留に封ぜらるれば、足れり。敢えて三万戸に当たらず」と。  
         (同前)

          
 また、劉邦が太子孝恵を廃し、寵妃戚夫人の子如意を立てようとしたとき、呂后の兄呂沢の懇願をうけピンチを救いました。(このことは、同じ「ギネスブック」の「遺言」(3)もご参照ください)

 さて、押しも押されもせぬ大功臣張良はどう権勢をふるおうとしたかというと・・・

 「今、三寸の舌を以て、帝者の師となり、万戸に封ぜられ、列候に位(くらい)す。此れ布衣(ほい)の極み、良に於いて足れり。願わくば人間(じんかん)の事を棄て、赤松子(せきしょうし)に従いて遊ばんと欲するのみ」と。
 及ち穀を辟(しりぞ)け、道引して身を軽くするを学べり。
                               (同前)

          

 つまり、「頭脳労働だけで大名に取り立ててもらい、庶民としては頂点に達し、もう望むものはない。あとは、世俗を棄て、太古の仙人のような暮らしがしたいだけだ」といって、修行を始めちゃったようです。

 BC195年に劉邦が亡くなり、恩義を感じていた呂后が何とか張良の老後の面倒をみようとしたときに、こんな言葉を返したようです。
 「人生とは、白い馬が戸の隙間を駆け過ぎるように短いもの。何も自分から苦労を求めるつもりはありません」

 曰く、「人生まれて一世の間、白駒の隙(げき)を過ぐるが如し。何ぞ自ら苦しむこと此(かく)の如きに至らんや」と。
                 (同前)

          
 原文の意味は少し分かりにくいですが、私は、「わずかに開いた戸の隙間から外を見ていて、白い馬が家の前を疾走したとしたら、見えるのは、何か白いものが一瞬チラッ!と横切ったな、と感じるくらい。人生は、そのように短いのですから、私もわずかに残った老後を養ってもらうがために、また、義理だの、恩だの、権謀だのそんな俗世のしがらみに浸かり直すのはご免です」くらいに解釈しています。


(3) 裴度(はいたく)

 次に、少しマイナーで、かつ「引き際」というのとは少しニュアンスが異なるかもしれませんが、唐の時代の印象深い人物を挙げます。

 唐は、618年の李淵の即位に始まり、907年朱全忠哀帝を廃して後梁を興すまで約300年間続きました。
 安史の乱(755年〜763年)で大いに屋台骨は揺るぎましたが、唐の歴史全体でいうと、おおよそ三分の二くらいのところで「元和の治」といわれる中興の期間がありました。

 安史の乱に疲れた朝廷は、賊将達を手なずけるため節度使(辺境の守備にあたる軍司令官)に任命し、これがいわゆる「藩鎮」といわれる地方軍閥の跋扈を招いたのです。

 805年に即位した憲宗は、杜黄裳(とこうしょう)、武元衡(ぶげんこう)ら名宰相にも恵まれ、藩鎮制圧に乗り出します。
 その尖兵として活躍したのが、裴度
 帝は、彼を宰相に取り立て、「賊軍を破るには裴度一人いれば十分だ」といったとか。

 度を以て同平章事とす。上曰く、「われ度一人に倚(よ)りて賊を破るに足れり」

        
 裴度は、帝の信任に応えて奮戦し、816年呉元済を斬り淮西を帰順させるなど一定の成果を収めます。
 しかし、長年の懸案だった藩鎮問題がひとまず落着したのに安心したのか、憲宗の「元和の治」も雲行きが怪しくなり、酷税を取りたて帝に献上して歓心をかった「程い」という佞臣を寵遇するなど人物の登用にも公正を欠くように。
 ついに819年には大功臣の裴度も罷免されてしまいました。

( なお、この憲宗は晩年、不老長寿を願い金丹という仙薬を服用しすぎて性格が凶暴になってしまいました。ささいなことで左右の者を処刑するようになり、危機感を感じた陳弘志という宦官に毒殺される羽目に。820年のことでした)

 裴度は、罷免されても宰相職に恋々としてはいなかったようです。
 官界からきれいさっぱりと足を洗い、優美な名前を持つ別荘をかまえ、詩人達と酒を酌み交わし、詩を詠ずる日々を楽しみました。
 穆宗敬宗の時にも一度だけ朝廷に出仕し、文宗の世でも名誉宰相職につきました。
 こだわりなく、時勢のおもむくまま、身を委ねたのです。  

 度、憲宗の時に相を罷めてより後、世事に意なし。園池を治め、緑野堂・子午橋等の別墅(べっしょ)の勝(しょう)あり。詩人と觴詠(しょうえい)して自ら娯(たの)しむ。
 穆宗・敬宗の時、みなかつて一たび入りて政を輔(たす)く。
 上の世に至りて、またかつて平章軍国重事たり。時と浮沈するのみ。

         


 さて、人のアドバイスに従って引退した范雎、仙人修行を名目(?)に職を辞した張良、「押さば引け」というか「方円」水が器により自在に形を変えるが如くというか、地位にも、そして「引退」ということ自体にも固執しなかった裴度、三者三様のケースをご紹介しました。
 それでは、「引き際」の鮮やかさといったらこの人しかないでしょうというベスト1を発表いたします。


☆范蠡(はんれい)

 春秋時代、呉と越とが永く敵対したことから、「仲のきわめて悪いこと」を俗に「呉越」という、と『広辞苑』に載っています。
 だから、「呉越同舟」なんて成語が生まれたんですね。

(なお、「呉越同舟」は、『孫子』「九地篇」「夫(そ)れ呉人と越人との相悪(あいにく)むや、其の舟を同じくして済(わた)りて風に遇(あ)うに当たりては、其の相救うや左右の手の如し」(仲の悪い者同士も、一緒に困難な状況に投げ出されると自然に力を合わせる)が出典です。)

 さて、范蠡は越の名臣です。
 越とは、会稽(現在の浙江省(せっこうしょう)の紹興)に都を置く新興国ですが、允常(いんじょう)という王の代に勢いを得てきました。それは、范蠡が富国強兵につとめたからといわれています。

 呉はBC506年に楚を破り、また、BC496年には越が允常から句践(こうせん。「勾」践と書かれた書もあり)に代替わりしたどさくさに乗じ、攻め込みました。
 このピンチを決死隊を使った奇策(この戦術の詳細については、別項目で取り上げます)で救ったのも句践。逆に、呉王闔廬(こうりょ)に矢傷を負わせ、死に追いやりました。

 こうなると、今度は越の方に驕慢が生まれます。
 范蠡が必死で反対したのにもかかわらず、句践は呉に出兵し、BC494年、満を持した呉軍の精鋭により壊滅的大打撃を受けます。
 いっそのこと、死を選ぼうか、そんな句践にアドバイスを与えたのも范蠡。

 句践は、残兵を率い、会稽山に逃げ込み、呉王の夫差(ふさ。闔廬の子)に「私は、大王の臣下に、妻は妾にしてください」という恥も外聞もない命乞い。呉の将軍伍子胥(ごししょ)は反対しましたが、越から買収された宰相の「伯ひ」は句践を助けるよう説得し、夫差は聞き入れてしまいます。

 許された句践は、密かに獣の干しキモを嘗め、その苦さでこの苦き屈辱を忘れないようにしました。
 そして、内政はすべて大夫種に任せ、范蠡とともに呉への復讐に専念したのです。

 越王句践 、余兵をもって会稽山に棲み、臣となり、妻は妾とならんと謂う。子胥いう、「不可なり」。
 太宰伯ひ、越の賂(まいない)を受け、夫差に説きて越を赦(ゆる)さしむ。
 句践、国に反(かえ)り、胆を坐臥に懸け、すなわち胆を仰ぎこれを嘗めて曰く、「なんじ会稽の恥を忘れたるか」。
 国政を挙げて大夫種に属し、而して范蠡と兵を治め、呉を謀るを事とす。

          

 そうした忍従の年月の甲斐あって、BC482年、ついに越は呉に攻め込み大いに破ります。

 おっと、忘れていました。呉へ服従するポーズを取っていた頃、その証として范蠡は呉に人質として送られたこともありました。また、表向きは夫差への忠誠のしるしとして、実際は彼を色仕掛けで腑抜けにするため西施(せいし)という美女を送り込んだのも范蠡といわれています。

 まだ、あります。それから、越は毎年のように呉を攻め続け、ついに夫差が降伏したとき、自分が助命されたことを思い出し許そうとした句践に対し、きっぱり反対したのも范蠡でした。
 結局、夫差は自刃し、BC473年、呉は滅びました。

 読んでいただいてわかるように、越が呉を破るためのすべてをお膳立てしたのは、范蠡なのです。
 范蠡は、どんな報酬を要求したのでしょうか? 
 
 なんと彼は、あっさりと国を出て、大夫種に「句践の人相は、首が長く、口はカラスのようにとがっている。苦労は共にできても楽しみは人と分かち合えぬ人間だ。ぐずぐずしていては危ないですよ」と忠告したのです。

 種は拙劣にも(逃げもせず、忠誠も表さず)病と称して家にひきこもってしまったため、讒言にあい、死を賜ることになりました。
 
越すでに呉を滅ぼす。范蠡これを去る。大夫種に書を遺(おく)って曰く、「越王の人となり、長頚にして烏喙(うかい)なり。ともに艱難を共にすべくも、ともに安楽を共にすべからず。子なんぞ去らざる」。
 種、疾(やまい)と称して朝せず。或るひと、種を讒す、まさに乱を作(な)さんと。剣を賜りて死す。

         

 范蠡は持ち運びのできるような財宝だけ身につけ、水路にて斉に出奔しました。
 名も変え、息子たちと蓄財に励み、巨万の富を築いた英知を見込まれ、宰相就任を要請されました。
 しかし、范蠡は深いため息をついて、「私人としては大金持となり、公人としては宰相にのぼる。栄達すること頂点を極めたといえるが、あとは落ちるだけだ」として、財産を人に分け与え、特別重要な財宝のみ携えて、こっそり陶に移住したのです。

 范蠡、その軽宝珠玉を装い、私従と舟に江湖に乗じ、海に浮かんで斉に出で、姓名を変じて自ら鴟夷子皮(しいしひ)と謂う。
 父子、産を治めて、数千万に至る。
 斉人その賢を聞き、もって相となす。蠡、喟然(きぜん)として曰く、「家に居ては千金を致し、官に居ては卿相を致す。これ布衣の極なり。久しく尊名を受くるは不祥なり」。
 すなわち相の印を帰し、ことごとくその財を散じ、重宝を懐(いだ)き間行(かんこう)して陶に止(とど)まる。

          

 范蠡は、陶でもやはり巨万の富を築いたと史書(『史記』「越王句践世家」、同「貨殖列伝」『十八史略』等)にあります。


(余談その1)
 范蠡が越から逃げる際、かの美女西施を伴ったという伝説があると陳舜臣氏の『小説十八史略』や藤堂明保氏の『中国名言集』で紹介されています。

 陳氏が同著で「宮仕えしては上将軍、宰相と、その位人臣をきわめ、下野してからは巨億の財産家となり、そのうえ、西施のような美女を得たのだから、最高の人生といえる。そんな良いことばかりあるものか。と、疑い深い人が、范蠡は実在したのではなく、架空の人物であるという説をとなえている」と書いていますが、そうやっかみたくなるのも仕方ないほどの晩年といえますね。

(余談その2)
 呉の名将伍子胥は、宰相「伯ひ」の讒言にあい夫差より「属鏤(しょくる)」という名剣を下賜されました。この剣で死ねという意味です。BC484年、恨みをのんで彼は自殺しました。(「名せりふ」:「史記」もご参照を)

 後に越の大夫種も句践から剣を賜りました。どの史書にそう書いてあるのか私は知りませんが、伊藤肇氏の『十八史略の人物学』や安能務氏の『春秋戦国志』には、その剣が呉より持ち帰った「属鏤」だったと書かれています。

 また、范蠡が斉で使った変名ですが、伍子胥の亡骸が葬られずに、馬の革でつくった袋(鴟夷)に詰めこまれ揚子江に投げられたことを寓意したものといわれています。伍子胥との強い因縁を感じますね。

 夫差、その尸(しかばね)を取り、盛るに鴟夷をもってし、これを江に投ず。

        


(ほんまの余談)
 ず〜っと昔の正月番組「スター隠し芸大会」で、東軍キャプテン堺正章氏の番となり「引き際」というタイトルが出ました。
 毎年多彩な芸で好評を博してきたマチャアキでしたが、新芸の開発に限界を感じ、ついに引退するということで、緊迫した雰囲気のインタビューなどが流れます。
 詰め掛ける報道陣の前に堺氏が姿を現しました。

 前に置かれたテーブルには、ゆったりとクロスがかかり、その上には皿とワイングラスが。まだ料理も酒も入ってはいませんが、引退前の「最後の晩餐」でもイメージしているのでしょうか。
 と、堺氏やにわにテーブルクロスの端をつかんだかと思うと、一瞬の気合のもと、手にしたクロスをサッ!と引きました。
 次の瞬間、クロスはすべて堺氏の手元へ。そして、皿とグラスは、若干動いたものの割れもせず落ちもしないで卓上に健在です。

 そう、これは「引退」ではなく「引き際」という新ネタだったのでした。
 中国史とは何の関係もありませんが、「引き際」というと、これが忘れられません。

←前のページへ 次のページへ→

「ギネスブック」メニューに戻る
トップページに戻る