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違約

  約束を違える。信義的には許されないことですが、こうした行為が歴史上に様々なドラマを生んできたのも事実です。


(1) 領土

 領土を与える約束でつりながら、子供だましの口実でごまかそうとする。その典型的な例が、楚の懐王を哀れなくらい弄んだ縦横家の張儀です。

 斉と楚の両国を相手にしては分の悪い秦。張儀は楚の懐王に「斉と断交すれば商於の地六百里を献上します」と持ちかけました。

 賢臣の諌めもきかず、懐王は斉と国交を断ちました。しかし、約束の土地を受け取るため使者を遣わしても張儀は会おうとしません。

 ようやく会ったときのせりふが、また小面憎い。
 「はい、ここからここまでで六里です」
 「六百里の筈だ。六里などとは話が違う」
 「何をおっしゃる。わたくしめのような小身者が六百里など、そもそも贈れよう筈がないではないですか」

張儀、楚の斉に絶てるを知るや、すなわち出でて使者を見て曰く、「某従(よ)り某に至るまで広従六里」。使者曰く、「臣六百里と聞く。六里と聞かず」。儀曰く、「儀はもとよりもって小人なり。いずくんぞ六百里を得ん」。『戦国策』 



(2) 食糧

 食糧を乞うておきながら、逆にそれを悪用する。そんな例もいくつかあります。

湯王  『中国文化の成立』(編:水野清一。中公文庫)では、『孟子』「滕文公」に記された、殷の湯王葛伯を討ったときのいきさつを紹介しています。

 葛国の長である葛伯は、湯王に「なぜ祖先の祭祀をおこなわないのか」と問われ「犠牲(いけにえ)に供する動物がないのです」とこたえました。
 そこで、湯王は、多くの牛や羊を贈りました。しかし、葛伯はその牛や羊を残らず食べてしまったのに、依然として祭祀をしません。
 再度問うと、今度は「お供えする穀物がないのです」と言い訳を。

 湯王は、自分の国である亳の農民を遣わし、葛国の祭田の耕作をさせました。
 ところが、何と葛伯は、殷から耕作者のために食糧を運んできた老人や子供たちを襲わせ、食糧ばかりか彼らの命まで奪ったのです。

 似たような話は後の時代にも。
 
 BC651年、晋の献公が没しました。後継者争いの中で、奚斉(けいせい)、卓子と次々に献公の子が命を落としました。
 晋の重臣たちは、残る重耳夷吾いずれが即位するかを秦の穆公に一任することにしたのです。
 穆公は、公子(ちゅう)を重耳のもとに遣わし、帰国をすすめましたが、重耳は、父の命にそむいて出奔し、死に際して喪に服することもできぬ不孝者ゆえ、ということで即位を辞退しました。
 次に縶が夷吾に同様の申し出をしたところ、夷吾は黄河以東の五城を献上することを約して助力を頼みました。

 ところが、夷吾は晋恵公として即位した後、秦に領土割譲はなかったことにしてくれという断りの使者を送ったのです。
 また、擁立協力の見返りとして汾陽の地を与えることを約束していた里克、負葵(ふき)を与えるよう約していた邳鄭(ひてい)を殺し、重耳派とみられていた重臣たちの一掃を図りました。土地を与えるのを惜しんだという側面も当然あったでしょう。

 その後、晋はかつてない飢饉に見舞われました。恵公は厚顔にも、穆公に救援を求めたのです。「民百姓に罪はない」と腹立ちを抑え、穆公は晋に大量の食糧を送りました。
 翌年、今度は秦が凶作に。救援を求めた秦に対し、恵公は食糧ではなく、兵をおくったのでした。
(恵公の場合は、領土と食糧のダブルパンチですから、たちが悪いですね)  


(3) 帰国 

 斉の14代襄公(前697〜686在位)は、かなりとんでもない王です。
 文姜という名の妹と通じ、文姜が魯の桓公(前714〜694在位)に嫁いだ後も関係を続け、それに気付いた桓公を殺すなどやりたい放題。

 公子無知は、襄公の父である釐公(きこう)の甥(襄公の従兄弟)で、釐公からは我が子同様に愛されていました。しかし、襄公の世になってからは、扶持や衣服を格下げするなどすっかり冷遇されていたため、不平をかこっていました。

 さて、襄公は大夫の連称管至父の二人に葵丘という辺境の守備を命じました。ちょうど瓜の実る季節であったので、来年瓜がなったら守備を交替させようと約束しました。
 ところが、期限が来てもなしのつぶて。交替を請う使者に対しても、乱痴気騒ぎにかまけて約束を反故にしようとしたため、二人は憤激して、かねて襄公を深く怨んでいた無知と結んで、反乱を起こしました。
 結局、襄公は約束違反がたたって、命を落とすことになったのです。

 


☆和睦☆ 

項羽  さて、歴史を大きく変えた約束違反をひとつ。

 項羽劉邦の楚漢攻防戦は、当初、楚優勢のまま推移し、劉邦は、紀信の犠牲によってからくも滎陽(けいよう)を脱出するなど綱渡りの日々が続きました。

 しかし、関中という補給源をバックに蕭何が兵站をがっちり固めてきたことがようやく効いてきたのです。
 梁の彭越、斉の韓信など多方面から攻撃を受け、さしもの項羽も、鴻溝から西を漢領、東を楚領とすることで休戦協定を結ぶことにしました。

 人質となっていた太公呂后も返されたので、劉邦は協定どおり帰国しようとしたのですが、「こちらが優勢で、相手が疲弊しているこの好機を逃すのは、自らの災いの種となる虎を育ててやるようなものです」と待ったをかけたのが、張良陳平の両参謀。


 
漢王もまた西に帰らんと欲す。張良・陳平曰く、「漢、天下の大半を有(たも)つ。楚の兵饑疲(きひ)す。今釈(ゆる)して撃たずんば、これ虎を養いて自ら患(うれい)を遺(のこ)すなり」。王、これに従う。『十八史略』

 
漢軍は、約を違えて、空き腹を抱え帰心にはやる楚軍を追撃しました。そして、天下が劉邦に帰したことは皆さんご存知のとおりです。

 

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