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★宦官(ええもん編)★
主に、皇帝以外の男子禁制である後宮で雑事を行うためナニをちょん切った「男」たち。宦官って、日本には存在しなかったせいか、どうもイメージはよくないですね。
三田村泰助氏の『宦官』によると、宦官は中国の特産ではなく、エジプト、ギリシャ、ローマ、トルコから東は朝鮮まで存在していたそうです。
逆に、「宦官の存在しなかったのは、世界の文明国のうちでは日本だけであった」とも書かれています。
宦官といえば、賄賂を貪り、陰謀をめぐらすイメージですが、「ええもん」もいてます。では、宦官(ええもん編)のご紹介を。
(1) 高力士
まずは、有名な高力士を。高力士(684〜762)は、唐朝第六代の玄宗皇帝に仕えた宦官です。
彼は、玄宗の対抗勢力であった太平公主一党の掃討に大功がありました。
内侍省(宦官をつかさどる役所)の職務を所掌し、それまで、黄色の官服を着せられ、わずかな扶持米と、門番やメッセンジャーボーイの雑務しか与えられなかった宦官の地位を向上させた最初の人物といわれています。
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開元元年、高力士、右監門将軍となり、内侍省の事に知(ち)たり。
初め太宗、制を定むるや、内侍省に三品の官を置かず。
黄衣廩食(こういりんしょく)、門を守り命を伝えしのみ。
ここに至りて三品将軍に除(叙)せらるる者ようやく多く、宦官増して三千人に至る。
内侍の盛んなることここに始まる。 |
もっとも、彼は別に廉潔の士とはいえないでしょう。金儲けもしたし、権力争いもしています。
また、楊貴妃を玄宗に手引きする女衒めいた働きもしたでしょうし、仏堂で彼女を縊り殺す幕引き役もしたようです。
すなわち、737年に最愛の武恵妃を失った玄宗に、玄宗の十八子李i(りぼう)の妃楊玉環を勧めました。いったん出家させて夫との関係を絶ってから後宮に入れ、「息子の妻を奪う」という印象を薄める画策をしたのも彼でしょう。
また、安禄山の乱で蜀へ落ちのびる途中の馬嵬(ばかい)という場所で、憤激した兵士たちに楊貴妃の処刑を迫られた玄宗に命じられて、彼女に手を下したとされています。
じゃ少しも「ええもん」やないやないかって?そうですね。やっぱり、最後のシーンが印象的なのかな。
玄宗引退後、後ろ盾を失った彼は、李輔国(彼も宦官)との権力闘争に敗れ、湖南に流されました。李輔国の死後恩赦を受け、彼は玄宗のもとへ急ぎました。二年も玄宗のそばを離れていたのです。
ところが、郎州という所へ来た時、彼は、玄宗上皇が死んだことを知りました。
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上皇の崩ぜしを聞き、号慟(ごうどう)し、血を嘔(は)いて卒(しゅっ)す。
『資治通鑑』 |
死に至るまで忠誠を尽くしたってのがいいじゃないですか。
(2) 蔡倫
後漢時代、宦官の手によって世界文化史上特筆すべき大発明がなされたといわれています。それは、「紙」の発明です。
それまでは、木簡や竹簡に書かれていました。かさばって携帯性や一覧性に欠けるのはいうまでもありません。重要な地図や文書は帛(きぬ)に書かれたこともありましたが、高価すぎました。
この紙を発明したといわれているのが蔡倫(?〜121)です。
西嶋定生氏の『秦漢帝国』では、蔡倫が樹皮、麻頭(あさくず)、古布、魚網をまぜて紙をつくり、105年に後漢の和帝に献上し、以後、この紙は「蔡侯紙」といわれたとあります。また、最近の学説では、紙そのものは既に存在していたが、蔡倫はその簡易な製作方法を発見したのだとも書かれています。
その辺のことを岡本隆三氏の『中国史の謎と怪異』で、もう少し詳しく見てみましょう。蔡倫が紙を発明したというのは、『後漢書』宦官列伝に出ているとのことです。
しかし、1933年、考古学者黄文弼(こうぶんひつ)がロプノール地区で前漢時代の古紙1片を発見して以来、1957年には、西安市郊外の「は」(サンズイ+覇)橋の古墓から、前漢武帝期以前と推測される、積み重なった古紙88片も発見されました。
また、1973〜74年には、甘粛居延考古隊が、漢の居延遺跡から2片の麻紙を発見しました。
紙を「植物繊維を人工的に処理した薄い膜状の物質」と定義するなら、前漢時代に既に存在していたのは間違いがなさそうです。
しかし、前漢時代の紙は、ざらざらしていて字を書くのに適していなかったのか、文字が記載された形跡はありません。
蔡倫は、官僚です。114年には竜亭侯にも封ぜられています。
彼は、一職人のように、自分の手で実際に紙を発明したのではないのかもしれません。しかし、先人の経験を活かし、自分の職権(尚方令という、皇室工場の責任者)もフルに活用して、「紙」を実用に耐える、字が書けるレベルまで質・量ともに高め普及させる功績があったと考えられます。
やはり、私たちが本を手にすることができるのも、ひいては蔡倫のおかげといってよさそうですね。
(3) 鄭和
明の太祖、洪武帝朱元璋が1398年に死去し、皇太子朱標はそれより先に病没していたため孫が即位しました。建文帝です。
燕王に封ぜられていた太祖の四男が1399年に「靖難」のスローガンを掲げ反旗を翻し、南京を陥落させて1402年に即位しました。
この成祖永楽帝は、海外積極策をとり、モンゴルへの遠征を繰り返しました。
宮崎正勝氏の『鄭和の南海大遠征』によると、永楽帝は、自ら北方へ親征する一方、宦官を世界の各地域に派遣しています。李興をインドシナ半島のシャムへ、李達を西域諸国へ、チベットへは著明なラマ僧を招聘するため侯顕を、東北地方(岩手・・・じゃなくて満州地方ね)にはイシハ(亦・矢・口+含)を派遣したそうです。
そして南海地方へ派遣されたのが、鄭和なのです。
鄭和は漢人ではなく、色目人(中国在住外国人)でした。1371年に雲南省にイスラム教徒の子として生まれたそうです。もとの姓は馬(ムハンマドの音をとったもので、イスラム教徒に一般的な姓)で、1404年に、靖難の変での功績を認められ永楽帝から「鄭」の姓を授けられました。
彼が大艦隊を率いて南海へ遠征したのは1405年のこと。その後、1407年、1409年、1413年、1417年、1421年、そして1430年と、鄭和の遠征は全7回に及びます。
文献によると、鄭和が率いた艦隊は総勢27,000人以上であったといわれています。同じく、艦隊の中心となる巨艦の大きさは長さ約152m、幅は約62m。排水量は約3100トン(8000トンという説も)と推定され、総艦数は大小合わせ200以上だったともいわれています。
鄭和の艦隊を、いわゆる大航海時代といわれるヨーロッパの艦隊と比べてみましょう。
スペイン王の派遣した、1492年のコロンブス第1回航海の艦隊はわずか3隻、乗組員120人であり、旗艦サンタマリア号は250トンでした。同じようにポルトガル王が派遣したヴァスコ・ダ・ガマの艦隊は4隻、170人。旗艦サン・ガブリエル号は120トンに過ぎません。
こうしてみると、鄭和の艦隊のスケールが隔絶していることがわかります。そのため、「白髪三千丈」式に大きさが誇張されていたのでは、と疑問視されてきました。
しかし、1957年に南京の明代の造船所跡とみられる遺跡から全長11mの巨大な木造船の舵棒が発見されました。
陳舜臣氏は『中国の歴史』で、「巨大な舵によって、『明史』の記述に数字の粉飾がないことが証明された」と書いています。
(もっとも、平底船ではなく、竜骨を備えた尖底の船なら、全長40m程度の船でも11mくらいの舵を装備する、という意見もあるそうです)
第1回遠征は、マラッカ、セイロンなどを経てインド西海岸のカリカットまで。なお、インドの「カリカット」で、私は思わずカルカッタのことか?と思いましたが、カルカッタは東海岸側ですね。
第2回、第3回の航海は、いずれも、帰国した同じ年に出発するとんぼ返りの慌しい航海で、目的地も同じカリカットでした。第4回遠征ではアフリカ東海岸に達し、初めてキリンを中国に持ちかえったといわれています。
「旅の恥は、かき捨て」ではなく、同じようなルートで7回もの航海を重ね、ジャワ、スマトラ、タイなど各地に鄭和を祀る「三宝廟」が残されていることは、彼が信義に厚い人物であったことを彷彿とさせます。
鄭和は、最後の航海途中でカリカットで病死したとも、第7回航海を終えた翌年ころに死んだともいわれ、その真相ははっきりしていません。
しかし、スケールの大きい、海の「男」(←ナニはないけど)であったのは間違いがないようです。
さて、それでは、ベスト1の発表とまいりましょう。
☆司馬遷☆
武田泰淳氏の『司馬遷〜史記の世界〜』は、「司馬遷は生き恥さらした男である」という言葉で始まります。
そして、「士人として普通なら生きながらえる筈のない場合に、この男は生き残った〜腐刑と言い宮刑と言う、耳にするだにけがらわしい、性格まで変わるとされた刑罰を受けた後、日中夜中身にしみるやるせなさを、噛みしめるようにして、生き続けたのである。そして執念深く「史記」を書いていた」と続けます。
宮刑のいきさつを、加地伸行氏の『史記〜司馬遷の世界〜』(しかし、この著書は、タイトルといい、あとがきのほとんどを武田氏の前著批判にあてていることといい、非常に意識してますね)
で、みてみましょう。
司馬遷は、天漢二年(BC99年)、49歳の時に、匈奴に投降した李陵を弁護したことが武帝の怒りにふれ、死刑を宣告されます。
彼が任安という友人にあてた手紙で「家貧しく、財貨を以て罪を贖(あがな)うこともできず」と書いてあります。当時は、金を出せば罪が減じられ、命は助かったのです。しかし、それは司馬遷に調達できるような金額ではありませんでした。
『漢書』武帝紀では、天漢四年、武帝は「死罪人が五十万銭を出せば死一等を減ずる」という令を出したとあるそうです。
刑を宣告された二年当時の金額が五十万銭より高かったのかどうか、また、秩禄六百石の太史公という職が金額でいくらもらっていたかはわかりません。
しかし、後漢時代の記録で類推すると、年四万二千銭にしかならないとのこと。父は既になく、有力な親戚もいない司馬遷には、金による贖罪は無理だったのです。
死なないためには、歴史書を書き続けるためには、宮刑の道を選ばざるを得なかったのでした。しかし、私は『史記』を手にするたびに、よくぞ深い屈辱を耐え忍んで書きあげてくれたものだと、感謝の念をとどめることができません。
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