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命令貫徹

 「して見せて、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ」
 これ、日本流の命令貫徹方法ですよね。

 では、中国では命令を貫徹させるため、どのような方法を取るのでしょうか。
 古今の知恵を探ってみましょう。


(1) 趙匡胤

趙匡胤

 さて、まず第一に登場してもらうのは、宋の太祖趙匡胤
 といっても、まだ後周時代のことで、しかも、かのエピソード豊富な大人物にしてはちょっとせこめの逸話なので前座・・ってとこですか。

 956年、後周の太祖郭威は、趙匡胤に南唐侵攻を命じました。
 南唐軍を壊滅に追い込む大激戦中、匡胤は敵に背を向け生き延びようとしている兵を見つけると、刀を振るって士気を鼓舞しているように見せつつ、その刀の先でそうした兵の陣笠に目印をつけておいたのです。
 何のためにそんなことを?

 戦い済んだ翌日、匡胤はしらみつぶしに陣笠を調べ上げ、傷のついた兵をことごとく斬罪に処しました。


 これ以後、匡胤のもとでは死力を尽くして戦わない将兵はいなくなったとか。

将士力を致さざる者あれば、匡胤、陽(いつわ)りて督戦をなし、剣をもってその皮笠をきる。
明日遍くその笠を閲するに、剣跡ある者数十人、みなこれを斬る。
これによりて部兵あえて死を尽くさざるなし。

          


 怖じ気づき、敗走しようとする兵をその場で斬って捨てて何とかくいとめようとする例は、よくあります。
 しかし、その場しのぎではなく、将来までみすえてレベルアップを図るところは、さすが趙匡胤ですね。


(2) 孫武

 『史記』:「孫子・呉起列伝」には、斉の人、孫武が呉王闔廬(こうりょ。BC515年に刺客専諸を使って呉王を殺して即位。BC496年に越王句践に敗れ没)に目通りした際のことが書かれています。

 兵の調練の仕方を見せてくれ、女たちでやってみせることができるかと闔廬に課題を出された孫武。
 宮中の美女180人を庭に出し、二隊に分け、戟を持たせ、王の寵妃二人をそれぞれの隊長にしました。

 「前!と言ったら自分の胸を、左!と言ったら左手を、右!と言ったら右手を注目するのじゃ。後!と言ったら後を向け。わかったな!」

 何度も説明し、斧やまさかりの刑具をならべ、軍令に従わぬ場合は、軍法により処分すると伝えました。

 そして、太鼓を打ち鳴らして「右!」と言ったが、女たちは笑うばかり。
 宮女たちは、何か新しいお遊びとでも思っていたのでしょうね。

 「取り決めが明白を欠き、軍律の説明不充分であったとすれば、大将たるわしのとがである」
 そう言って、孫武は再度命令、軍律の説明を何度も繰り返す。しかし、女たちは互いに笑いさざめき、からっきし話なんざ聞いてやしない。

 再度、孫武は太鼓を叩き「左!」と言いました。またもや、どっと笑った女たち。
 孫武は、どうしたか。

 「もはや明白になっておるのに、法にしたがわぬのは役目のものの罪である」

 そして、左右二隊の隊長の首を打たせようとしました。
 あわてたのは、呉王。

 「わ、わかった!将軍の兵を用いる腕前は。予は、この二人がおらぬと食事もうまくないのじゃ」
 「それがし、もはや命を受けて大将となりましたうえは『将たるもの軍にあれば、君命も受けざる所あり』と申すものであります」

 かくして、二人の首を斬り、兵(美女たち)に見せてまわりました。
 それから、太鼓をうち、前後左右に命令をくだしたところ、立ち居ふるまいすべて法にかない、一切声を立てるものすらなかったとか。

 さて、ここのところは鄭問氏のコミック『東周英雄伝』(モーニングKCデラックス)第2巻「中国兵聖」に余すところなく描かれております。


(3) 商鞅

 これまでの二つは、命令のうちでも軍令とよぶべき部分でした。
 さて、今度は法令とよぶべき内容で、貫徹しなければならない相手も、上下関係の厳しい軍隊組織内ではなく、一般人民であります。

 秦の孝公は、いつまでも夷狄扱いされる現状を打破せんと富国強兵の策を求め広く布告を出しました。
 これに応じたのが衛の人、公孫鞅(のち、商の地に封ぜられ、商鞅と称せられる)。
 法令の改革はなりましたが、肝心なのは、その公布方法。
 だって、どんなに素晴らしい法制度であっても、人民が遵守しないことには何の効果もあげられませんからね。

 鞅は約7メートルの細い柱を都の南門に立てました。
 そして、これを北門に移し替えた者には十金を与えると布告したのです。
 人々は真意を疑い、誰も手をつけようとしません。

 賞金が5倍に増やされたところで、ひとりの男が半信半疑で移し替えたところ、直ちにその男に五十金が与えられ、その上で新法令が公布されました。

三丈の木を国都の市の南門に立てて民を募り、よく北門にうつす者あらば、十金を予(あた)えん、と。
民これを怪しんであえてうつすなし。
また曰く、よくうつす者には五十金を予えん、と。
一人あり、これをうつす。
すなわち五十金を予う。
すなわち令を下す。

          

 しかも、皇太子が法を犯した際、「人民が法を守らないのは、上の者がこれを犯すからだ」と傅(侍従長)の公子虔(けん)を鼻削ぎに、教育係の公孫賈を入れ墨の刑に処しました。

 以後、秦の民は残らず法に服するようになったそうです。

太子、法を犯す。
鞅曰く、
「法の行われざる、上よりこれを犯すなり」。
君の嗣は刑を施すべからず。
その傅公子虔を刑し、その師公孫賈を黥す。
秦ひとみな令に趨く。

          

 秦の孝公が商鞅を用いて変法(法制度等の大改革)を行ったのはBC359年といわれています。
 BC340年に魏軍を破り、商の地に封ぜられた頃が商鞅の絶頂期だったのでしょう。
 BC338年に孝公が没すると、太子らに恨みをかっていた彼は、車裂きの刑に処せられてしまいました。

さて、それではドラマチックで非情なベスト1の発表です。


☆冒頓単于

 冒頓単于(ぼくとつぜんう)は、北方の遊牧騎馬民族匈奴の首長の子でした。

 色に目がくらみ、太子を廃して寵妃の子を後継者にすげ替える。
 枚挙に暇のない事例ですが、冒頓の父頭曼単于も閼(あつ)氏の子を後継者とし、しかも廃した冒頓を宿敵月氏国の人質として送り、さらにその月氏国に奇襲をかけました。
 人質は殺してくれとばかりの行動であり、邪魔者を消しにかかったというのと同じです。

 必死の思いで、戦さのどさくさにまぎれ逃げ帰ってきた冒頓。
 平静な顔をしていても、心の奥では当然父親に対する復讐の炎を冷たく燃やしていたことでしょう。

 冒頓は「鳴鏑」をつくりました。射ると音の鳴るかぶら矢であります。

 「わしが鳴鏑で射たものを、お前達はそのとおり射るのじゃ。命に反した者は斬る!」
 そう部下に厳命した冒頓。

 それ以来、狩猟に出て彼が鳴鏑で兎を射るとその兎を、狐を射るとその狐を部下達は一斉に狙いました。
 射なければ首が飛ぶのです。

 ある日、彼は自分の愛馬に矢を向けました。
 つねづね左右に自慢していた名馬です。
 何人かの部下が射るのをためらいました。冒頓は、その場で彼らの首をはねました。

 そして、またある日。何と、冒頓は突然自分の妻に鳴鏑を放ちました。
 ほとんどの側近は彼に続きましたが、やはり、「ここまでは・・・」と弓をおろしてしまう部下がいました。
 彼らが処刑されたことは言うまでもありません。

 ついに、運命の日が来ました。
 ある日、父の狩猟に随行した冒頓の鳴鏑は、父に向かって放たれました。
 次の瞬間、群臣から迷わず射られた無数の矢で針ねずみになった頭曼単于の体が地に転がり、冒頓「単于」の時代が幕を開けたのです。

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