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★見かけ倒れ★
「見かけ倒れ」、そうそう、大阪の道頓堀にある、派手な縞縞シャツ着て、メガネかけて、太鼓持って・・・(それは「くいだおれ」やろっ!て、ツッコミようもないほどのむちゃなボケはやめましょう)
外見はいいけど、内実が伴わない、そんな「かっこつけ」人間を捜してみました。
(1) 封常清(ほうじょうせい)
まず、最初は史書でなく、井上靖氏の『楊貴妃伝』から引用してみたいと思います。
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翌日、安西節度使封常清が、入朝し、直ちに華清宮へやって来た。
〜「臣をして、馬を走らせて東京に到らしめよ。
府庫を開いて、勇者を募り、河を渡り、日ならずして、雑胡の首を取り、小腋にかかえて、都に帰り、お望みとあらば陛下のお目の前に転がしてお目にかけよう」
〜封常清が安禄山軍を支えきれず、東京を棄て、陝州(せんしゅう)まで退いたという報が都にはいった時、玄宗は怒りで体を震わせた。
いとも簡単に安禄山の首級を挙げ、それを抱えて凱旋して来て、自分の前で転がしてみせるというようなことを言った封常清の言葉はまだ耳に残っていた。
それを信頼し、期待するところが大きかっただけに、封常清のだらしない敗退振りは許せなかったのである。
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と、まあこう書いてあります。
時は、もちろん755年の安禄山の乱の直後のこと。東京は、「とうきょう」ではなくて、洛陽のことです。
陳舜臣氏の『小説十八史略』では、もう少し封常清に同情的な著述となっています。つまり、
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(1) |
封常清は西域に転戦して武勲赫赫たる将軍だった。 |
| (2) |
封常清の連れた兵は市井の子弟で、実戦に慣れた安禄山の兵とは敵するべくもなかった。 |
| (3) |
封常清自身は洛陽にとどまろうとしたが、兵が勝手に逃げてしまいやむなく陝州(洛陽と長安のほぼ中間地点。
潼関(どうかん)の東)にいた高仙芝(こうせんし)と合流した。 |
| (4) |
高仙芝と協議のうえ、長安を守る要(かなめ)の潼関まで撤退することを決めた。
陝州から撤退する際、備蓄された物資を敵方に利用させないために官庫に火を放った。 |
| (5) |
監軍(いくさ目付け)の宦官辺令誠が、玄宗が起用を考えている哥舒翰(かじょかん)のために、同格の二人は粛清しておいた方が指揮命令系統がすっきりするだろうと気を利かせて(?)「封常清・高仙芝は、みだりに退却し、官庫を私(わたくし)した」と報告した。 |
いずれにしても、両名は皇帝の命令により処刑されます。
さきの『楊貴妃伝』では、封常清は、確かに、大言壮語したくせに実に情けない見かけ倒れ野郎にみえますね。
でも、『小説〜』では、逆に悲劇のヒーローのようです。
さて、どちらの姿が真実に近いのでしょうか。
(2) 王衍(おーえん)
王衍といって、すぐに思い出すのは空想的社会主義ってことですよね(←それは、オーウェンでしょ!って高校んときの倫社の授業のような強引なボケであります)
さて、気を取り直して王衍のお話続けます。
「竹林の七賢」をご存知ですか。『広辞苑』によりますと、「晋代に、世塵を避けて竹林に会し清談を事にしたといわれる隠士」とあります。
王衍は、七賢の一人王戎(おうじゅう)のいとこでした。
眉目秀麗だったようで、同じく七賢の一人山濤(さんとう)が「いったい、どんな婆さんだい、こんな貴公子を生んだのは」とくやしがったそうです。
(しかし、同時に「天下を誤らせるのは、あの手の奴だぜ」とも言ったようです)
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衍、神情明秀なり。
少(わか)き時、山濤これを見て曰く、
「何物の老嫗(ろうう)か、寧馨児(ねいけいじ)を生める。
然れども天下の蒼生を誤る者は、いまだ必ずしもこの人にあらずばあらず」
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天下の名士の親族という毛並みの良さ、風采も抜群、そして機知もあって官職は進むばかり。でも、上層部が浮世離れした議論をもてあそんで時をおくっていられるような、そんな平和な時代だったのでしょうか。
いえいえ、311年には石勒(せきろく)・劉曜率いる匈奴の大軍が晋の都洛陽に押し寄せて来たのです。
匈奴を統一し、304年に漢王、308年には漢皇帝を自称した劉淵(りゅうえん)の興した漢趙国の侵攻です。(310年に劉淵は死に、劉聡が位を継いでいました)
こうした国の大事にあたり、王衍は雄々しく立ち向かったのでしょうか。
それどころか、軍の総帥になるのも逃げまくり、ついに石勒の軍に捕らえられると、女々しい言い訳を繰り返しました。
「私は、若い頃より政治の事には関心がなく、人任せにしていたのです。今度のいくさのことも私の責任ではありません」
天下の名流と自他ともに任じ、軍政長官ともいうべき太尉の要職についている者の台詞とは思えません。
責任感のかけらも感じられぬ彼の言葉に呆れ果てた石勒は、こう言いました。
「わしもずいぶん天下を渡り歩いてきたが、こんな人間、初めてお目にかかったぞ。どうしたもんかなあ」
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衍自ら言う、
「少(わか)きより宦情(かんじょう)なく、世事に予(あずか)らず」。
勒曰く、
「われ天下を行(めぐ)ること多し。
いまだかつてこの輩の人を見ず。
なお存すべきか」。 |
石勒は、匈奴の一支族羯(けつ)の小部族に生まれ、奴隷や群盗を経て頭角を現し、後に後趙を建国した人物。彼からすると、王衍なんて人物は同じ人間とは思えなかったかも。
こんな奴を斬ると刀のけがれだと思われたのか、首をはねるのは可哀相だと同情されたのかよくわかりませんが、夜中に獄から連れ出され、土塀の下敷きにされて殺されたそうです。
夜、人をして墻(かき)を排してこれを殺さしむ。
(3) 秦舞陽
さて、次は「見かけ倒れ」といえば彼!と言われるほどポピュラーな秦舞陽を紹介します。
燕の太子丹は、秦の国に人質となっていましたが、逃れて帰国しました。
BC230年、秦は韓を滅ぼしました。なおも戦火は燕に迫ります。
燕にはまともに秦に立ち向かう国力のないことを承知している丹、対抗手段は秦王政の暗殺しかないと考えました。
田光という人物に刺客として推薦されたのが荊軻(けいか)。
丹は、助手として秦舞陽という者をつけました。十三の時に人を殺し、皆まともに見ることができず、目をそらしてしまうような男。
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燕国に勇士秦舞陽あり。
年十三にして人を殺す。
人、敢えて忤視(ごし)せず。
及ち秦舞陽をして副たらしむ。
『史記』:「刺客列伝」 |
丹は、さらにその後、なかなか腰をあげようとしない荊軻に業をにやし、 秦舞陽を単独先行させたいとまで言います。ついに刺客行に出発した二人。
さて、燕一番の荒くれ男と名高い秦舞陽。世間の評判通り、立派に荊軻を助け、ひいては主役を食ってしまうほどの活躍を見せたのでしょうか?
何と、彼は秦の王宮に通されるとびびってしまい、顔色を変え、恐れおののくばかり。
不審がられては、と荊軻は「田舎者ゆえ、天子様にお目にかかったこともなく、震えております。どうか大王、お許しください」とごまかさねばなりませんでした。
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秦舞陽、色を変じ、振るえ恐れる。
群臣、これを怪しむ。
荊軻、顧みて舞陽を笑い、前(すす)みて謝して曰く、
「北蕃蛮夷の鄙人(ひじん)、いまだ嘗(かつ)て天子に見(まみ)えず、故に振慴(しんしゅう)す。
願わくば大王、少しくこれを仮借し、使いを前におうるを得しめよ」
(同前) |
やむなく、荊軻は一人で決行しましたが、剣を持って追うも柱の周りを逃げ回られ(荊軻、秦王を逐(お)う。秦王、柱を環(めぐ)りて走(に)ぐ)、返り討ちに合います。
秦舞陽が逃げる政を羽交い締めにでもしていたら、結果は違っていたでしょうが・・・。BC227年、この暗殺失敗を理由に燕は秦に侵攻されます。
なお、この項に関しては、「カルトクイズ」:「待ち人は誰?」や「ビデオ紹介」:「始皇帝暗殺」試写会レポートの各コーナーもご参照ください。
それと、彼の名前ですが、徳間書店の『戦国策』(中国の思想第2巻)では、秦「武」陽となっていました。
さてさて、武将、文官、そして秦舞陽も武の人ですから、第1位は順番で「文」の人でいってみたいと思います。
☆殷浩(いんこう)☆
漢趙の皇帝劉聡は、晋の愍(びん)帝を殺してしまいました。317年に元帝が建康(南京)で即位しますが、これ以後を東晋、それ以前を西晋と呼んで区別します。
先ほど、西晋の王衍を紹介しました。
東晋も、パッとしません。東晋では、桓温という男が密かにキバを研いでいました。
347年、彼は成漢を滅ぼし蜀の地方を平定し、声望天下に轟きました。
臣下が力を握り過ぎるのは危険です。会稽王のc(いく)は、対抗馬として殷浩を重用することとしました。
殷浩は、才名天下に鳴り響いていました。しかし、桓温の能力を高く評価していた「ゆ翼」という人物は「こんな奴は物置にでも片づけておけ。天下大平の世になったら使い道を考えてやろう」といったそうです。
しかし、世の人は、「殷浩は管仲、諸葛亮の再来だ。彼の進退に国運がかかっている」とまで言い出す始末。
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殷浩の才名世に冠たり。
翼これを重んぜずして曰く、
「この輩高閣に束ねて、天下の大平を俟(ま)ちて、徐(おもむろ) にその任を議すべきのみ」。
時人、浩を管・葛に擬し、その出処を伺いて、以って興亡を卜(ぼく)す。
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さて、東晋は中原を回復しようと殷浩を総司令官として、連年北伐にあたらせましたが、今管仲・今孔明の筈の殷浩は何の戦果をあげることもできません。
さらに、後趙の遺臣姚襄(ようじょう)という大物亡命者を得たというのに、彼の人気を妬んで暗殺を図り、しかもことごとく失敗。そのうえ、全軍を率いて北進中に、その仕打ちを怒った姚襄の伏兵に襲われ大敗するていたらく。
桓温は、この責任を問い、殷浩の職も貴族の身分も奪ってしまいました。
かくして、殷浩は桓温の勢力を奪うどころか、逆に内外の全権を集中させてしまう結果を招いたのです。
失意の殷浩、しかし不平を顔には表しませんでした。
この辺、単にやせ我慢をしていたのか、世評とおりの大人物だったのか。
いや、日がな一日、指で空中に「ああ、何たるけしからぬことよ」と書いて気を紛らわしていたといいますから、内心はドロドロしてたんでしょうね。
そら書きしてたのも、紙に書いてこの措置に不平を抱いている証拠になってはまずいと考えたのではないか、と思うと哀れを誘います。
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浩、愁怨すといえども辞色に形(あらわ)さず。
つねに空に書して、咄咄(とつとつ)怪事の字を作る。
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さて、その後桓温は、腹心の者のすすめもあって、殷浩を副宰相格に戻してやろうと考え、その旨を書面で伝えました。
殷浩は、躍り上がるほど喜び、さっそくお礼の手紙を書きましたが、失礼な表現がなかったか気になって、書き直す。文箱を開けては書き直し、ちゃんと手紙が入っているか気になって、また文箱の封を解く。
そんなこんなで十何回も出し入れしたあげくに、混乱して空のまま送り付けてしまい、桓温の激怒を買い、すっかり見限られ、流謫(るたく)先で命を落したとのことです。
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これを久しくして、「ち超」、温に勧め、浩を令僕に処(お)らしめんとす。
書を以ってこれを告ぐ。
浩、欣然たり。
答書誤りあるを慮(おもんばか)り、開閉すること十数、ついに空函を達す。
温、大いに怒りてついに絶つ。
謫所に卒す。 |
西晋と東晋。前評判の高かった王衍と殷浩。実質を見抜いていた山濤と「ゆ翼」。そして完膚なきまでに化けの皮を剥いでしまった実力者石勒と桓温。不思議なほどの暗合だなあ、と思います。
でも、玄関のカギを締めたか、どうしても気になって駅近くになったのに引き返したり、はんこの押しもれとかないか一度封をした手紙を苦労して開けてみたりしたことのある私には、殷浩の行為、非常によく理解できます。
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