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七光り

 芸能人や政治家の世界で特に耳にすることの多い「七光り」という言葉ですが、中国の歴史上では、いろいろな光り方があるようです。

 そもそも、功労者の子弟は無試験で登用される「任子」の制度があり、漢の武帝が、ようやく天子による試験で選抜される「挙子」の制度を始めたのですから、 親の七光りなんてきっちり制度化されていたと言って良いのでしょう。

孝武皇帝、名は徹。
・・・賢良、方正、直言、極諌の士を挙げ、親(みずか)らこれを策問す。

          
 それから、七光りというとどうしても「実力もないのに・・」というイメージなので、衛青霍去病は、確かに衛皇后の弟、甥ですが実力者なので除外しました。


(1) 王一族(一日五候)←王皇太后

 漢の成帝は、BC32年に即位した後、母(王政君)の長兄王鳳を大将軍に取り立てました。
 その後、帝の母方の叔父、つまり王氏の兄弟を次々に登用。
 特に河平2年(BC27)、既に関内候の爵位を与えていた兄弟5人を一斉に列候に封じました。

孝成皇帝・・・母は王氏
・・・ここに至りて位に即き、王氏を尊びて皇太后となし、元舅の王鳳をもって、大司馬大将軍となし、尚書の事を領せしむ
・・・建始元年・・舅の王崇を封じて安成候となし、譚・商・立・根・逢時に爵関内候を賜う
・・・河平二年、ことごとく諸舅を封じて列候となす。

           

 これを世人は「一日五候」と驚き、呆れたとのことです。

 王皇太后は、気がねばかりしていた夫元帝も死に、心配の種だった息子も無事即位し、「さあ、これからは自分の思うように・・」と考えていたのでしょうね。
 なぜ気がねしていたか、というと夫の寵愛が薄いことを熟知していたからです。

 元帝の父は、数奇な運命をたどり、庶民生活の中から皇帝の座についた宣帝「ギネスブック」:「災い転じて・・」参照)です。
 元帝は皇太子時代、儒者をきらう現実主義者の宣帝に儒者の登用をすすめる発言をし、「わが家を乱る者は太子なり」と嘆かれてしまいます。

 しかも、側室の司馬氏を亡くし悲嘆のあまり病床につくなど、ことごとく骨太な宣帝の意に反し、あわや廃嫡されそうになりました。
 そこで、あわてた周囲の者が、いやがる皇太子に無理矢理押しつけたのが王禁という者の娘、王政君
 もともと愛されて結ばれたのではないのですから、王氏は元帝の機嫌を損じないようひたすら身を慎んでいたのです。

 王氏は、息子(後の成帝)のことも気がかりでした。
 酒と音楽にうつつを抜かし、あやうく廃嫡されそうになりましたが、お守り役の史丹が寝室まで押しかけ、号泣して翻意を乞うたため助かりました。

その後、酒楽を幸して燕楽す。
元帝の時太子となり、ほとんど廃せられんとす。
史丹、青蒲(せいほ)に伏し、涕泣して諌むるによりて止む。

           

 成帝も、自分が即位できたのは、史丹と母王氏のおかげと身にしみていたからこそ、ここまで、王一族が厚遇されたのでしょう。

 さて、王氏は、これだけ自分の身内が厚遇されただけに、かえって自分の兄弟のうち、早死にしたため一人だけ諸侯になれなかった王曼(おうまん)のことが不憫でならなかったことと思います。
 この曼の子が、かの王莽(おうもう)であり、いわばこの不公平な身びいきが後の簒奪劇を生んだとも言えるかもしれません。
 王莽については、また別稿(「世評工作」など)で触れる予定です。


(2) 何進←何皇后

 何進は、もと肉屋でしたが、妹が後宮に入り、貴人となり後漢の霊帝の寵愛を受けたのをきっかけに近習に取り立てられ、その後も昇進を続け、さらに180年に妹が皇后に立てられるに及び、大将軍、慎候と地位もエスカレートしていきました。

何進・・・異母女弟、選ばれて掖庭に入りて貴人となり、霊帝に寵あり。
進を郎中に拝し・・・光和三年、貴人立ちて皇后となる
・・・張角ら起こるや、進をもって大将軍となし・・・慎候に封ぜらる。 
     『後漢書』:「何進伝」

           

 七光りとして、彼をリストアップしたのは、やはりその情けなさ、決断力のなさ。
 宦官を一掃せよとの袁紹の進言にいったんは同意しながら、妹に反対されるとひとことも言えない。

ついに紹と籌策を定め、而してその計をもって太后に白す。
太后、聴かずして曰く、
「中官・・・廃すべからず・・・」
進、太后の意に違うを難(はばか)り・・」

                                        (同前)

           
 結局、ぐずぐずと結論を先送りにしたあげく、逆に宦官に暗殺される。189年のことでした。
 あ〜あ、七光りがなければとてもそんな地位に昇れるような実力はなかったのだから、いっそ光らなければ殺されなかっただろうに。


(3) 楊一族(楊国忠)←楊貴妃

 酒とバクチに身をもちくずしていたヤクザな男「楊しょう」が、楊貴妃の遠縁というだけで、宮中に出入りできるようになり、国忠という名前までもらいました。

「しょう」は貴妃の従祖兄なり。
禁中に出入りすることを得たり
・・・しょうに名を国忠と賜う。

         
 楊氏一族は、楊貴妃の三人の姉がそれぞれ公主と同じ待遇を受けたりして「楊氏五宅」といわれる栄華を貪ります。

 『小説十八史略』によると、楊一族は馬車を連ね都大路を我が物顔で疾走し、騎馬で通り合わせた広平公主(玄宗の娘)を落馬させ、しかも、妻(公主)をかばい楊一族の御者の鞭を背中に受けた程昌裔(ていしょうえい)を逆に処罰させたとか。
 もう、むちゃくちゃですな。

 その中でも国忠は別格。しぶとい李林甫(りりんぼ)にも競り勝ち、ついに宰相にまでのぼりつめます。
 しかし、栄華が大きければ、巻き起こす弊害も、また大きい。
 安禄山の乱で都を追われ、飢えと疲労でキレてしまった将兵たちに「これというのも、元凶は・・」と殺されてしまった(756年)のは、皆さんご存知のとおりです。

賊、ついに関に入る。
上、出奔して馬嵬に次す。
将士飢疲して、みな憤怒し、楊国忠らを殺し、及び上に逼りて、貴妃を縊殺し、然る後に発す。

           


それでは、私の選んだ「七光り」ベスト1を。


 董一族←董賢

 漢の哀帝は、BC1年に没するまで在位わずか六年でしたが、その間、上記(1)であげた王一族に代わり、母方の丁氏と、妻の一族傅氏が権勢を奮ったそうです。
 ところが、それ以外に栄華を誇ったのが、この董一族。
 で、なぜこれがベスト1?

 それは・・董賢が実力派官僚でも、帝の母親でも寵妃でもなく、ホモのお相手だから。
 さすがにこれは、当時でも例がないこと。

 帝は、董賢に二千戸の増封をしたり、丞相以上の大司馬に任命したり、ご乱心状態。
 死を賭して諫言した者もいたようですが
(「臣の門は市の如きも、臣の心は水の如し」の鄭崇、「千人の指さす所、病無くて死す」の王嘉。結局、二人とも投獄され死んでます。→陳舜臣『弥縫録』)、
 もう、どうにも止まらない。

 董一族は、言ってみりゃ「親の七光り」ならぬ「ホモの七光り」、もっと言えば「尻の七光り」(下品な表現ですみません)。
 お尻が七色に光る新種の虹ホタル一族というユニークさゆえに一位に推しました。
 なお、このサイトの「カルトクイズ」関連付けコーナー「断袖」もご参照ください。

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