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★離間策★

 「離間」とは広辞苑によると「相互の仲をさくこと、仲たがいさせること」とあります。
 ここで取り上げるのは、敵陣営の力を削ぐために相手方の内部分裂を引き起こす計略に限定し、自己の利益のために味方陣営内のライバルを失脚させる離間策は別項目(「ライバルを除く」)で取り上げます。


(1) 斉の田単→燕の恵王←→楽毅

 恵王の父昭王といえば「死馬の骨」、「まず隗よりはじめよ」(→「カルトクイズ」の動物クイズコーナーをご参照ください)、つまり人材招致に熱心であったことで有名です。

 名将楽毅は、その昭王のもとへやって来た「千里の駒」です。
 将軍に任ぜられた楽毅は、斉を攻めるやたちまち首都を陥れ、半年余りで七十余城を陥落させました。BC284年のことです。

 あと即墨と「きょ」の二城を残すのみで、斉存亡の危機を迎えた田単が目をつけたのが、昭王の死後即位した恵王が太子時代から楽毅と不仲である点。

 さっそく燕に間者を送り「楽毅は新王とうまくいかないので帰国しようとしない。斉が恐れているのは、燕の将軍が交代して即墨を陥れることだ」とふれまわらせたのです。
 恵王は手もなく引っ掛かり、別の者を将軍に任命して楽毅を召喚しました。

恵王、太子たりしとき、すでに毅に快からず。
田単すなわち反間を縦(はな)って曰く、
「毅、新王と隙あり、あえて帰らず。
〜斉人ただ他将の来って、即墨の残せられんことを恐る」。
恵王はたして毅を疑う。
すなわち騎劫をして代わって将たらしめ、而して毅を召す。

         
 楽毅は、召喚に応じず趙に亡命(BC279年)し、結局斉はすべての城を奪還するのですが、興味深いのはその過程です。
 『史記』:「田単列伝」には、こうあります。

 田単は、「わしは燕の軍が、つかまえた斉の兵士の鼻を削ぎ、最前列に置いてわれらと戦わせないかと心配している。そうなれば即墨は負けてしまう」という噂をまきました。
 燕はそれを真に受け、言葉どおりにしました。
 即墨の城内に立て篭もる人々は、自国の者が鼻を削がれているのを見て、燕への敵意を熱くたぎらせたのです。

 田単は、さらに反間を放って、今度は「心配しているのは、燕が城外の祖先の墓をあばくことだ。考えただけで心がくじける」とふれまわらせました。
 燕は、またもや言葉どおりに斉の墓地を掘り返し、父祖の亡骸を焼いたのです。
 即墨の城民は、城壁の上からそれを目にして血涙を流し、すぐにでも武器を手にして燕の奴等を殺したいと心はひとつに燃え上がりました。

 どうですか、これ。三回が三回とも、「こうさせたい」ということを、「こうされると困るのだ」という形で情報を流し、燕がまた情報分析能力のなさゆえにコロコロとひっかかる

 さて、吉本新喜劇の伝統的なギャグのひとつに、こんなのがあります。

 桑原和男扮するおばあちゃんなんかが、逃げてきた男を押し入れにかくまい、追手が来た時、押し入れの前に両手を広げて立ちはだかり、聞かれもしないうちから
 「あんたらが捜している男は、ここには隠れてまへんで!」と叫ぶ。

 追手が、「はは〜ん。ここに隠れているんやな」と言うと、「あら!何でわかりましたん?」
 そこで、隠れていた男も思わず押し入れから出てきて、「そら、わかるわい!」とツッコミを入れる。

 なんか、わたくし、この辺の燕に対して、このギャグを連想してしまいます。

 燕は、いわば、桑原和男を押しのけて「ここにおるんやな!」と押し入れに突っ込んで空っぽの壁にぶつかるってとこだから、吉本新喜劇とは違うけど(それは違うでしょう)、さすがに三回も続くと「ええかげんにしなさい!」とツッコミを入れたくなります。


(2) 賈詡(曹操)→馬超←→韓遂

馬超

 曹操211年、漢中を占拠した張魯を討伐するため「鐘よう」を派遣しました。
 馬超は、韓遂らとともに、この遠征軍に対し兵を起こしたのです。
 強悍な馬超、韓遂の連合軍に手を焼いた曹操は、賈詡の計略を採用しました。

 韓遂が曹操との会見を希望したとき、軍事のことは一切語らず、ただ都における昔の思い出を語り合い、手をうって親しく笑い楽しんだのが手始めでした。

 帰ってきた韓遂に、馬超が会見の内容を尋ねましたが「いくさにからむ話は何もしていない」。
 これでは、馬超も「何か隠しているな」と疑わざるを得ません。

 次に、曹操は韓遂に書状を送りましたが、わざと、消したり、書き直した箇所を多く入れておきました。
 もちろん、これも、その書状を見た馬超が、韓遂が見られては困る密約の箇所をごまかしたんだと誤解させるためです。

 以上は、『三国志』魏書:武帝紀の記述ですが、『三国演義』ではさらに念のいった描写になっています。

 敵味方に分かれていながら軍事の話をしない筈がない。曹操ともあろうものが下書きを送ってくる筈がない。

 ともに力を合わせ逆賊曹操を討とうとしているのに何故二心を持たれるのかとなじる馬超に対し、わしの心底が信用できぬというなら、明日、陣前で曹操と言葉を交わすようにするから、その隙に突き殺せばよいではないか、と応える韓遂。
 ところが、曹操の方が一枚上でした。

 対談を望む韓遂に対し、曹洪を遣わし、あと数歩の処まで近づくと耳元で「昨夜丞相(曹操)が申されましたことを決して違約なされませんように」とささやかせたのです。
 物陰で様子をうかがっていた馬超がこれを耳にして怒るまいことか。やりをしごいて、まっしぐらに韓遂めがけて突きかかりました。
 かくして、曹操はまんまと両雄の分断に成功したのです。


(3) 秦檜→岳飛←→韓世忠・張俊

 宋代の秦檜(しんかい)は、二重スパイとして悪評の高い人物です。
 北宋当時の彼は御史台長官でした。
 金が宋の二帝を拉致し、傀儡政権として張邦昌を擁立しようとしたとき、敢然と征服者金に抗議した硬骨漢で、怒りをかって金に連行されたのです。
 ところが、金では王族である将軍撻辣(だつらつ又は、だらん)に重用されました。

 彼は、1130年に南宋に「脱走してきた」と言って帰国したのですが、燕京から抗州まで二千里以上も逃げおおせられるものではない(わざと逃がされたのではないか)と疑う人は多かったようです。
 彼は、以後、親金派、講和派の代表としてその権力を振るいますが、それは南宋をおもってのことではなく、すべて金の手先としてのものだった、と十八史略では断言しています。

檜、北にありしとき、撻辣に依り、為に任用せらる。
〜自ら「逃れ帰る」と言うも、朝士多くこれを疑えり。
〜その言みな撻辣の意なり。

         

 さて、やられっぱなしだった南宋も反撃を開始しました。
 1134年、大挙南下してきた金軍を、韓世忠岳飛らの奮戦によりみごと撃退したのです。
 金内部の不協和音(皇帝太宗の死、王族の権力争い、蒙古の脅威等)もあって、いったん金軍は引き揚げていきました。

 ところが、人間の性(さが)とは哀しいもの。
 国の危機には力を合わせた諸将も、危難が去ったとみるや妬みや反目がはじまります。

 越の范蠡(はんれい)が「苦労は分かち合えても、栄華はともにできない」(「患難を共にすべくも、安楽を共にすべからず」)と言ったのは越王句践(こうせん)の人相を引き合いに出してのものでしたが、けだしこれは普遍的な名言と申せましょう。

 岳飛がその軍功により宣撫使に抜擢されると、韓世忠、張俊ら歴戦の将軍としてその職に任命されていた者たちは、一武将にすぎない若造がわしらと同列に・・と苦々しく感じたのです。

岳飛、湖北・京西の宣撫使となる。
時に淮東の宣撫使韓世忠、江東の宣撫使張俊、みな久しくすでに功を立つ。
しかるに飛、列将をもって抜起さる。
世忠・俊、不平なり。

           

 1140年、またも金は大軍を擁して南進しました。
 秦檜を送り込んで講和工作を進めていた撻辣が権力争いに破れ、主戦派が力を握ったのです。

 南宋は今回も善戦し、とくに岳飛は、金の主力部隊を撃破し、あわや敵将宗弼(そうひつ)を捕らえるかというところまで追い込みました。
 さらに金の本拠地すら攻め滅ぼさんと意気あがる岳飛。

 ところが秦檜は、高宗に奏上し、岳飛を後方に召還してしまいました。
 このまま勝たれると困るのです。

 秦檜は、内部分裂をさらに広げるために巧妙な手をうちました。
 軍の巨頭たる韓世忠、張俊を中央の文官たる枢密院の長官に、そして岳飛を枢密院の「副」長官に任命したのです。

           韓世忠・張俊を枢密使となす。岳飛副使たり。

 今度は、自分の武功は両名以上と自負している岳飛の方が、差をつけられて不満を抱く番です。
 かくして、相互の溝は修復しがたいほど広がってしまいました。

 後に岳飛は秦檜の手により謀反の冤罪をかぶせられ、1141年処刑されました。
 岳飛死すの報を聞き、金の地では要人たちがこぞって躍り上がり、乾杯して祝いあったといいます。
 もし秦檜の離間策が功を奏さず、岳飛・韓世忠・張俊が完全に一枚岩だったとしたら、とても処刑は断行できなかったでしょう。


 いよいよベスト1の発表・・・の前にひとこと。

 (3)の秦檜の例は、「敵方」の力を削ぐとまでは言えないかもしれません。
 秦檜は売国奴ではなく、現実を見据えて最善の策を取ったのだとして評価することも可能です。

 また、上記の人事についても、文民優位が宋の伝統。数人の有力武将が直接武力を掌握することは軍閥の発生にほかならず、彼らの兵権を実質的に取り上げ、中央軍に改編したのは軍閥解体であり、水際立ったシビリアンコントロールだとも言えないことはありません。

 それから、先ほど少し出てきた范蠡が呉王の夫差伍子胥の仲を裂いたことも取り上げたいところです。
 名高い美女西施を送って骨抜きにし、また奸臣「伯ひ」に賄賂を贈り、讒言させたやつですね。

 それと、ほんとの話だったらベスト1にしてもいいのが、妲己は、周公旦が有蘇氏の評判の美女が生んだ娘を赤ん坊のうちに引き取り、殷の紂王の好みに合わせて特訓した生まれながらのスパイであるという説。
 炮烙の刑、酒池肉林なども紂王の暴虐さを増し、王と臣下、人民を離反させるために妲己がそそのかしたというのです。

 陳舜臣氏の『小説十八史略』で展開されている説で、この本では、紂王の死後、妲己が周公旦の前に引き出されてきます。
 女に訓練は施したが、任務までは明示しなかった。
 何とか命を救えないものかと考えていた旦は、「これでいいのですね。あたし、りっぱに勤めたでしょう」と妲己に言われ、この密謀が漏れては・・と首を斬ったとか。
 もちろん史書には、そんなことまでは書かれていません。それで、ここでも選から外しました。

 しかし、宮城谷昌光氏の『王家の風日』でも「ところで妲己の父である蘇忿生は、とうに周に通じていたため、のち本領安堵されたばかりか、周王朝の枢要である司寇(警察の長官)に任命された。かれにいったいどれほどの勲功があったというのであろう」と含みのある表現がされています。

 妲己こそが殷を倒した功労者、娘が立派に使命を果たしたがゆえの処遇と言わんばかりですね。

 さて、たいへん長らくお待たせしました。
 やっぱ、これかな。有名だしな、というベスト1は・・・


☆陳平(劉邦)→項羽←→范増

 BC205年、楚漢の攻防で、斉に出撃中の項羽の留守をつき、劉邦は首都彭城を攻略しました。
 しかし、急遽舞い戻った項羽に手もなく撃退され、漢軍の死骸で河の流れがせき止められたといいます。
 それ以来戦況がパッとしない劉邦は謀臣陳平の「項羽は確かに猛将だが、参謀は范増しかいない。亜父(范増)さえ切り離せば」という策略を採用します。

 『十八史略』では、金を惜しまず間者を送り、デマを飛ばして、疑われた范増は辞表を叩き付けて帰国途中に病死した、としかありません。

王、平に黄金四万斤を与え、その出入りを問わず。
平、多く反間を縦(はな)つ。
羽、大いに亜父を疑う。
骸骨を請いて帰る。
疽、背に発して死す。

           

 具体的な手口として、『史記』:「項羽本紀」の一節を見てみましょう。

項王の使者、来る。
太牢の具を為(つく)り、挙げてこれを進めんと欲す。
使者を見るや、詳(佯=いつわ)り驚愕して曰く、
「吾、亜父の使者と以為(おも)いしに、及ち反って項王の使者なり」と。
更に持ちて去り、悪食を以って項王の使者に食わしむ。

           

 太牢の具とは、牛・豚・羊の三種を揃えた最高級の料理とか。

 その料理をすすめようとして、わざと、「なんだ、范増殿ではなく項羽からの使者か」と今気付いたようなふりをして、粗末な食事に替えさせました。
 子供だましのような気もしますが、何せ食い物の恨みはおそろしい。
(ほんとにおそろしい事例がいくつかあります。「食い物の怨み」をご参照を)
 使者の報告に基づき、項羽は范増の内通を疑い、閑職にまわしました。

 司馬遼太郎氏は、『項羽と劉邦』の中で范増にこうつぶやかせています。

「范増は弁解しようとはおもわなかった。
(信のみが、あの小僧とわしとを繋いできたのだ。その糸をかれが断ちきった以上、もはや居るべきではない)」

 離間策とは、人と人の間のこころの絆をズタズタにするための謀略です。
 上記の范増のつぶやきのように、なんとも心が寒々としてきますね。

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