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失言

 つい、うっかり口がすべる。気をつけてたつもりでも、よくあることですね。吐き出した言葉に消しゴムをかけることはできません。
 悔やんでも追っつかない、そんな失言を集めてみました。


(1) 漢の少帝恭

呂后

 呂太后は、漢の高祖劉邦の奥さん。高祖の死後、実権を握っていったのは皆さんご存じのとおりです。

 呂太后は、高祖の愛人戚夫人との闘争に勝利し、実子を恵帝として立てることに成功しました。

 ところが、恵帝は在位七年で亡くなってしまったのです。恵帝と皇后の間には子がなかったため、呂太后は、側室に生ませた子を奪い、太子に立てていました。   その子が即位し、政務は呂太后が握ったのです。ところが、そのせっかくの少帝恭を、呂太后は幽閉したあげくに殺してしまいました。

 
帝、位に在ること七年にして崩ず。
子なし。
呂太后、他人の子を取りて、もって太子となす。
ここに至りて位に即く。
太后、朝に臨み制を称す。
四年、太后、少帝を廃してこれを幽殺し、恒山王義を立てて帝となす。

         

 実は、呂太后は実子すりかえの際、口封じのため実母を殺していたのです。少帝は物心つくに従い、この忌まわしい事実を知ってしまいました。
 そして、思わずこう言ってしまったために、命を落としてしまったのでした。

 「よくも我が母をころしたな。わたしはまだ幼いが、成人したら目にものみせてやる」

 呂太后が少帝恭を殺し、少帝弘を立てたのは、BC184年といわれています。

 さて、これによく似たお話をひとつ。

 時代はくだって、南宋の時代。4代寧宗の皇太子は早逝したため、皇族の貴和という人物が世継ぎとされていました。彼は宰相の史弥遠(しびえん)が政治を壟断しているのをかねがね憎んでいました。

 そして、不用意にも「今に見ておれ(異日、容(ゆる)すべからず)」と側近にもらしてしまったのです。それは、たちまち史弥遠の耳に入りました。

 1224年寧宗が死ぬと、史弥遠はかねてより目をつけていた貴誠という人物を新帝(理宗)として擁立しました。貴和は済王に流されたあと、毒殺されてしまったとのことです。


(2)  後漢の質帝

 後漢は帝の4代和帝以後は(しょう)安帝少帝懿順帝冲帝質帝桓帝霊帝少帝弁献帝と続いて滅亡しますが、いずれも幼くして即位しています。11代桓帝の15歳が最年長だとか。

 さて、順帝の皇后が梁氏で、弟の梁冀(りょうき)が大将軍に任命されました。順帝は30歳で死に、皇太子が冲帝となりましたが、わずか2歳の幼児に政務が執れる筈はありません。梁太后が摂政となり、ますます外戚梁氏一族が専横を極めます。

 冲帝は何と翌年に死んでしまいました。次の質帝もわずか8歳でした。しかし、彼は幼いながら聡明な少年でした。皇帝をないがしろにする梁一族を憎む心が、梁冀を見た時に、思わず次のような言葉を吐かせてしまったのです。

 「あれが、跋扈(ばっこ)将軍か・・・」

 「跋」とは「越える」、「扈」とは「竹かご」。梁冀の皇帝を皇帝とも思わぬ放恣なふるまい、気ままなのさばりぶりを、竹かごを飛び出して逃げてしまう魚にたとえたのです。
 かいらいに甘んじる人物なら、命を永らえたかもしれませんが、「跋扈将軍」という的確極まる表現には、反骨精神と知性が感じられます。それは、つまり梁冀にとっては「危険」だということです。

 梁冀が近臣に命じ、毒を盛って質帝を殺したのは146年のことといわれています。


(3) 燕の太子丹

 さて、上記二例は、失言の本人が殺された事例ですが、不用意な一言は他人の命を奪うこともあります。

 燕の太子丹は『始皇帝暗殺』で、最近有名になったかもしれませんね。
 燕は、今や王政(始皇帝)率いる秦に真っ向から立ち向かう国力はありません。降伏しないとすれば、後は一か八かのテロ行為しかないのです。

 丹は国士の田光先生を紹介され、国事(つまり、始皇帝暗殺)を依頼しますが、自分は既に老いているので・・・ということで荊軻(けいか)を推薦されます。
 ここまではよかった。でも、最後の一言が余計だった。「他言無用」と念を押してしまったのです。
 田光先生が荊軻に国事を承諾させた後のせりふをみてみましょう。

 「今、太子、光に告げて曰く、
『言う所の者は、国の大事なり。
願わくば、先生、泄(もら)すなかれ』と。
是れ太子、光を疑えるなり。
夫れ行いを為して人をしてこれを疑わしむるは、節侠に非ざるなり」と。
      『史記』:「刺客列伝」

      

 行動して人に疑われるようでは、節義ある任侠の徒とはいえない。念を押されてしまった田光先生は、自刎して「口外しようにもできませんよ」と自らの命を代償として身の証しをたてたのです。なお、荊軻の暗殺失敗はBC227年といわれています。


 これと似たような話を『人物 中国の歴史』:「第1巻 大黄河の夜明け」で読みました。

 伍子胥は、楚の平王の臣伍奢(ごしゃ)の次男。奸臣費無忌(ひむき)の陰謀により、父と兄伍尚を殺され、宋から鄭、そして呉へ逃げました。
 呉・楚国境の関所で役人に怪しまれ、川べりに追い詰められました。追っ手はすぐ後ろまで迫っています。
 舟を浮かべていた漁師が、伍子胥を乗せて渡してくれました。伍子胥が「これは百金の値打ちがある」と剣を礼に差し出そうとしたところ、そのおやじはどうこたえたでしょうか。

追う者、後に在り。
江に至る。
江上に一漁夫あり、船に乗る。
伍胥の急を知り、乃ち伍胥を渡す。
伍胥、既に渡れば、其の剣を解きて曰く、
「此の剣、直(値)百金なり。
以って父に与えん」と。
父曰く、「楚国の法、伍胥を得る者は、粟五万石を賜い、爵は執圭なり。
豈に徒(ただ)に百金の剣のみならんや」と。
       『史記』:「伍子胥列伝」

   
 ここまでは私も知っていました。
 「楚のお布令(ふれ)じゃ、あんたを突き出せば五万石の扶持をもらい、家老の爵位を授かるんだ。百金ばかしの礼が欲しくて救ってやったんじゃないよ」

 何ときっぷのいいおやじさんでしょう。でも、『人物〜』の常石茂氏は、この先の話を書いていました。

 漁夫は、食事まで出してくれました。伍子胥は、彼が、自分が伍子胥であることを知りながら助けてくれた隠棲の壮士であることを悟りました。
 ところが、追われる身の不安から、つい、要らざる一言を言ってしまったのです。

「余人に気(け)どられぬよう、先ほどの鉢は隠しておいてください」

 妙に陰翳のある微笑を浮かべ、漁夫はこっくりしました。その翳が気になって振り返った時には、漁夫は自らの船を覆し、揚子江の藻屑と消えていったのでした。


☆韓生

 この事例は、上記の例に比べるとドラマチックさに欠けるかもしれませんが、口を滑らせる側、怒る側それぞれが本音丸出しで、何か好きなんです。

 韓生は、項羽の臣。項羽が、劉邦と鴻門の会で謁見し、その後咸陽に入って虐殺、略奪をほしいままにしたのは、BC206年のことです。

 財宝も美女も奪い尽くし、項羽は咸陽から引き揚げようとしました。韓生は、咸陽という要害の地を離れるべきでないと進言します。
 しかし、項羽は、宮殿は焼き払ってしまったし、里心もついていたのです。

  「せっかく栄達しても故郷に帰らねば、綾錦の着物を着て、暗闇の夜に歩くようなものではないか」

 韓生は、思わず呆れてこうつぶやいてしまいました。

 「楚の人間は、冠をかぶったサルだと世間では言うが、いやはや、まったくその通りだな」

羽、秦の残破せるを見、かつ東帰を思う。
曰く、「富貴にして故郷に帰らざるは、繍を衣(き)て夜行くがごときのみ」。
韓生曰く、「人言う。
楚人は沐猴(もくこう)にして冠す。
果して然り」。


 これが、項羽の耳に入ったからたまりません。あわれ、韓生は釜茹での刑に処せられてしまいました。
 なお、『十八史略』『漢書』:「項籍伝」では上記の通りですが、『史記』:「項羽本紀」では、韓生でなく単に「説客」となっています。


 話は変わりますが、私の職場に、「尾瀬のM」というあだ名の課長がいます。なぜか、というと尾瀬は「湿原」で有名。つまり、「失言」のMということだそうです。
 もっとも、これはM課長自身で言い出したことなので、ギャグの一種と考えればいいのでしょう。

 「自虐的なギャグ」というさっぶ〜い親父ギャグをとばすことも可能です。

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