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★人心掌握★

 人の心をつかむ。
 「人」といっても家臣である場合や、民衆全般である場合などがありますが、いくつかの似通ったパターンはあるようです。


 
(1)  曹操

 有名な官渡の戦い(200年)に勝利した際、袁紹の残した文書をすべて「わしは一字も見ていない」と言って、全軍の見ている前で焼き捨てたそうです。

 無論それは、圧倒的不利と噂された中、密かに内通する文書を送った者もいたかも知れないが、そんなことは不問とするという度量の大きさを示したもの。
曹操


          
公、紹の書を収むる中に、許下及び軍中の人の書を得たり。
皆、これを焚く。
    『魏書』:「武帝紀」


公云う、
「紹の強きに当たりては、孤(われ)すら、なお自ら保つこと能わず。而るにいわんや衆人をや」。
    (同前・注)

         

 袁紹は強いから、俺自身不安だったんだ。お前たちが動揺するのも無理ないさ・・・なんて、せりふもニクイですね。
 でも、曹操のことだからきっと、「ばれるか・・」と動揺している部下を心服させることができると計算の上のことなんでしょう。

 さて、曹操は、後述する劉秀の故事に学んだのか、それとも、不安定な人心を収攬しようとすれば英雄は自ずと同じ結論に至るのでしょうか。
(注 「私的中国史調査会」の高崎真哉さんによると、「曹操の行為は、劉秀の行為を真似たものと一般には見なされているようです」とのことです)


(2)  斉の桓公

 BC681年、斉に敗れた魯の荘公は、領土割譲を強いられる屈辱的な講和会議の場である柯(か)の地に臨みました。

 席上、突如桓公につかみかかったのは、魯の将軍曹沫(そうかい。又はそうばつ)。
 匕首を突きつけ、講和条件たる「遂」の割譲を白紙に戻すことを約束させます。

斉の桓公、魯と柯に会して盟(ちか)うことを許す。
桓公、荘公と既に壇上に盟う。
曹沫、匕首を執りて、斉の桓公を劫(おびや)かす〜
曹沫曰く、
「斉は強く、魯は弱し。
而(しか)も大国の魯を侵すこと、亦た以(すで)に甚だし
・・・君、其れこれを図れ」と。
桓公、すなわち尽く魯の侵しし地を帰すことを許す。
     『史記』:「刺客列伝」

          

 連戦連敗でありながら信任し続けてくれた荘公の知遇に報いるために取った非常手段とはいうものの、理不尽極まりない。

 当然、「脅迫による約束など無効だ」と憤る桓公。
 それを制したのが、名宰相管仲
 そう、脅迫による盟約でも守ったということで、諸侯の信頼をかちとり、2年後の会盟で覇者と認められるに至るのです。

 桓公、というより管仲は、わずかな土地に固執するより諸侯の「こころ」をつかむ方が大事であるとわかっていたんですね。

桓公怒り、其の約に倍(そむ)かんと欲す。
管仲曰く、
「不可なり。
夫れ小利を貪りて以て自ら快しとせば、信を諸侯に棄て、天下の援けを失わん。これを与えるに如かず」と。
是に於いて桓公、乃ち遂に魯の侵しし地を割く。
曹沫の三たび戦いて亡いし所の地も、尽く復た魯に予(あた)う。
         (同前)

          


 
(3) 劉邦

 漢の高祖、劉邦といえば人心掌握のエピソードには事欠きません。
 日本でいうなら、「人蕩(たら)し」と呼ばれた豊臣秀吉ってとこ?

 項羽と競って関中入り(BC206年)した時の、秦王子嬰への寛大な措置、「法三章」の布告、美女・財宝に手をつけなかった高潔さなどは、王となる日に備え世評を意識した部分がないとはいえません(特に、略奪禁止は家臣に諌められてのこと)。
劉邦



 その辺、きっちり見抜いていたのは、さすが范増

范増、項羽に説きて曰く、
「沛公の山東に居りし時は、財貨に貪にして、美姫を好めり。
今、関を入りては、財物も取る所なく、婦女も幸する所なし。
此れ其の志、小に在らざるなり」。 
     
 『史記』:「項羽本紀」

         

 となると、敗走中の馬車から「お前らがいると遅くなる」と子供を何度も蹴落とした(注1)というのも、家族より同乗の家臣を重視するのだというポーズにも思えてくる。

漢王、道に逢いて、孝恵・魯元を得、乃ち載せて行く。
楚の騎、漢王を追う。
漢王、急なり。
孝恵・魯元を車下に推し墜す。
          (同前)

                                  

 このエピソード、敗走する乱陣の中で子供を救い出してくれた趙雲の前で、「お前のために将軍が危ない目にあった」と子供を放り投げた劉備の話に似ていると思いませんか?

(注1) BC205年に、劉邦が楚都の彭城を攻め、項羽に大敗して命からがら逃げ出したときの逸話。

 それでは、ベスト1の発表を。


☆劉秀(後漢の光武帝)☆

 24年5月、劉秀は、八卦見皇帝王郎を破りました。
 王郎は、一介の占い師でしたが、王莽に亡ぼされた漢の成帝の落胤と称し、王莽の悪政に疲れ果てた民衆の救世主待望ムードに乗り、河北で強大な勢力を誇っていたのです。

 劉秀は、王郎の宮殿に保管されていた大量の文書を皆の見ている前で「一字たりとも読まなんだぞ」と宣言し、全て焼き払いました。
光武帝


 ねっ、(1)の曹操とそっくりでしょ。

吏民の郎と交わるの書数千章を得。
秀、諸将を会してこれを焼きて、曰く、
「反側子をして自ら安んぜしめん」。

        

 また、劉秀は、降伏した銅馬軍などの反対勢力を元の組織のまま、自軍に編入しました。

 反乱をおそれ、降伏した兵士を殺すのは、秦の白起や、また項羽の例を挙げるまでもなく常套手段。
 いつ殺されるかと不安にふるえる投降将兵たち。

 しかし、劉秀は、軽装で馬にまたがり、彼らを視察してまわりました。
「異心があるなら、ほれ、わしを暗殺するのは簡単じゃ。しかしな、わしはお前らを信じておるぞ」という無言の意思表示にほかなりません。

 はたして、「劉秀殿は、自分を投げ出し、わしらを信頼しようとなされている。この方のためなら、死力を尽くしお仕えしよう」と、将兵たちの心服を得ることができたのです。

自ら軽騎に乗りて、諸部を案行す。
降者相語りて曰く、
「蕭王、赤心を推して、人の腹中に置く。
いずくんぞ死をいたさざるを得んや」。

         


 これは余談ですが、先日増井経夫氏の「『智嚢(ちのう)』中国人の知恵」(朝日選書)を読みました。
 『智嚢』とは、明代末期に馮夢竜(ひょうむりゅう)が編んだ逸話集です。
 そこにこんな話が載っていました。

 南朝の宋の桂陽王劉休範が反乱を起こし、蕭道成(しょうどうせい。後の斉の高帝)がこれを征伐したとき、宮中では休範が都の近くまで進撃したとの流言が飛び、賊軍の砦まで行ってよしみを通じるため名刺を出そうとしたものが千人以上に及んだ。
(ところが、賊軍の砦と思いきや、実際は休範を破った道成の陣だったのである)
 道成は名刺を焼き捨て、「休範はもう死んだ。お前らの名刺はみな焼いたから安心せよ」といった。
 これは、光武帝の智を手本にしたのである、と。

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