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ご「異」見歓迎 これが初めて?中国史(11)

 
いろいろな本に載っている「はじめて」を集めてみました。
 いや、これは違う。本当はこっちが最初や!というような「ご異見」をメールや掲示板で教えていただければ幸いです。

13 『道教』著:今枝二郎(NHK出版)

項目 内容 出典中の記載 備考
道教(という
語句)
 「道教」は『墨子』が初出。
 この「道教」は宗教としての固有名詞ではなく、「道に適った教え」という意味の普通名詞。
中国の古典に道教の語の見られる最初は〜『墨子』であろう(P4) 注1
宗教集団と
いう意味での「道教」
 『魏書』「釈老志」(北斉の魏収撰)で「三張の偽法」(=五斗米道)と「道教」が同一視されている。
 顧歓(420〜483)の「夷夏論」にも「道教」の語が見える。
 「道教」の語が固有名詞として宗教教団の意味で文献に最初に見られるのは、『魏書』。(P4) 注2
 『魏書』「釈老志」に北魏寇謙之のことが書かれているが、その中に「道教」という語も用いられている。  ここに「道教」が固有名詞として出現した(P48)
老子と道教の関わり  老子の学派は道家と呼ばれ、老子は道教の神として祀られているため、老子は道教の開祖と思われているが、老子は教祖として扱われるべき点はなく、五斗米道の段階で初めて接点がみられる。  後漢時代、五斗米道と称する道教の前身というべき教団で、『老子道徳経』を読誦することが課せられるが、それが道教と老子とを結びつける具体的な事例の初めの一つ(P17) 注3
 五斗米道における「祭酒」という役職は、『老子』都習(全員で習うこと)の世話を行なった。  「都習は『老子』が道教と結び付いた最初の事例として注目され」る(P32)

最初の道教教団
 最初の道教教団は、干吉(かんきつ)が創始した太平道と考えられている。  一般に道教教団の初めと考えられているのは、太平道である。(P22) 注4
白浪  日本では「白浪五人男」のように盗賊を「白波・白浪」と称するが、これは白波谷に起こった黄巾賊に由来する。   黄巾賊の集団について『後漢書』巻八「孝霊帝紀」には「中平(188)2月〜西河の白波谷より起こり〜」などとあり〜この白波が我が国で盗賊を「白波・白浪」と称し、平安文学から」江戸時代まで影響が及んでいる。(P26)  
最古の道教経典目録  劉宋の明帝の時代の陸修静(406〜477)は、471年に初めて道教経典を集成分類した。  泰始七年(471)勅令で献上した『三洞経書目録』は最古の道教目録である(P51)  
垂簾政治  唐代の武照武則天)は、675年、高宗に代わり政事の一切を自分で取り仕切った。  上元二年(675)3月、武照は、高宗が風疹で朝政をみることができないことから、政事の一切を自身で決裁することとした。〜天后が簾を御座所の後に垂れて、政事の大小は皆あらかじめこれを聞いた〜ので、このことがいわゆる垂簾政治(P76)  
観賞用としての牡丹   天宝三載(744)の頃、玄宗皇帝は楊貴妃らを引き連れ、興慶宮の沈香亭で牡丹の鑑賞をした。  牡丹を鑑賞の花としたのは、玄宗皇帝に始まるといわれている(P113) 注5
日本における陰陽道の文献  日本における最古の陰陽道文献は、天元6年(983)に成立したとされる『占事略決』である。  陰陽道は中国から流伝したもので、文献も当然中国から伝えられたものが多いが、日本で撰せられた文献もある。
 その中で特に知られており、かつ最も古いとされているのが、安倍晴明撰といわれている『占事略決』(P236)
 


注1 『墨子』(「非儒篇」下)には「儒者は以て道教と為す」とあり、儒教が道教として述べられている。
 また、後漢の牟融(ぼうゆう)撰といわれる「理惑論」(三国時代の説もある)にも「孔子は五経を以て道教と為す」(『弘明集』巻一)とある。(P4)

注2
 『魏書』「釈老志」には「道教を清く教え、三張の偽法、租米銭税、及び男女合気の述を除去せよ」とある。なお、「三張の偽法」とは、張陵張衡張魯のいわゆる五斗米道を指している。
 また、「夷夏論」では、「仏教は文にして博く、道教は質にして精(くわ)し」とあり、道教が仏教と対比される宗教の名称として用いられている。(P4、P5)

注3 元来老子は後世の道教教団とは別個に存在した、思想学派の中心で、実在か非実在かも、今も明らかでない特異な人物である。(P15)
 
注4 
太平道で著名なのは黄巾の乱の首領張角だが、干吉(かんきつ)が創始者といわれている。(P22)
 干吉を于吉(うきつ)とする文献もあるが、元代「道蔵」で「干吉」とされており、かつ同書では「干」と「于」とが書き分けられているため、「やはり干吉とする方がよい」。(P24)

注5 
『松窓雑録』(唐、李濬(りしゅん)撰)によると、玄宗皇帝と楊貴妃が興慶宮の沈香亭で牡丹を鑑賞している時、その情景を李白に命じて作詩させたのが「清平調詞」だといわれている。
李白はこの詩で楊貴妃の美しさを、漢代に不幸な最後を迎えた趙飛燕に喩えたため二人の不興をかい、長安から追放されたという。(P105)

 
なお、『中国の花物語』(著:飯倉良平。集英社新書)では、「木芍薬を俗に『牡丹』と呼ぶのは、漢代以後のこととされて」おり、「その花を観賞するために王宮や豪族の庭園で牡丹が栽培されはじめるのは、数百年後の隋代から唐代にかけてです」とある。
 また、『花が語る中国の心』(著:王敏。中公新書)では、「洛陽で牡丹花王コンテストが始まったのは則天武后の死後のことで、牡丹の品種改良を進めた」とある。