| 項目 |
内容 |
出典中の記載 |
備考 |
| 文明 |
文化一源論(人類文化の最も基本的な要素はある特定の一地域で発達し、それが世界各地に伝播し、文明を成立させた)に立ち、シリア周辺に発生した文明が西に伝わってヨーロッパの文明となり、東に向かってインド、中国の文明になったと考える。 |
人類の最古の文明は西アジアのシリア周辺に発生(P4) |
※1 |
| 年号 |
従来の紀年法は君主の即位年を基準としたが、漢の文帝や景帝は在位が長くなると、途中で元年に戻すなどしたので、非常に紛らわしかった。
武帝は、5回目の改元の際に、「元封元年」という年号を制定した。 |
武帝自身の発意による統一政策には、年号の制定がある。
(P177) |
※2 |
| 暦 |
漢の武帝は、太陰暦と太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを正朔を奉ずる、と言うようになった。 |
年号を創始した武帝は更に進んで暦を制定〜(P178) |
※3
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| 紙幣 |
四川省の富豪が私的に交子という現金預証を発行しはじめたが、不渡りが多発したため、北宋政府は民間の交子発行を禁じ、代わって交子の発行を始めた。 |
政府の責任において自ら交子を発行することを始めた(1023年)。これが世界における紙幣の始まり〜(P313) |
※4
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| 北伐 |
朱元璋は陳友諒、張士誠を連破し、長江中下流域を制圧。
徐達を総指揮官として、北伐の軍を起こし、元の首都、大都を攻略した(1368年)。 |
中世以降、南方に根拠をもって北伐に成功した例は明を以て初めとし〜(P445) |
※5
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| 朝貢貿易 |
四方の異民族は物資を中国に求めざるを得ないから与えるに吝かではないが、外国君主は、貿易を許可する中国皇帝に感謝して朝貢国となり、恭順に臣下の礼を執るべきであると明の太祖(朱元璋)は考えた。
朝貢貿易は宋代に淵源すると見られるが、当時はまだ、はっきりとした国是とはなっていなかった。 |
朝貢貿易制度は〜明代になってからの発明(P449) |
※6
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| 首都北京 |
明の永楽帝は南京を占領し都としたが、元の残存勢力を制圧するために北京を首都とした(1421年)。 |
これ以後、北京の中国の首都たる地位が確立し〜(P459) |
※7
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| 北方民族に親征 |
永楽帝は韃靼(だったん。東蒙古)の本雅失里(ベンヤシリ)をオノン河の戦いに破る。続いて、西蒙古の瓦刺(オイラート)部をツーラ河畔で撃破。
東蒙古の阿魯台(アルタイ)征討のため、2回遠征した。 |
中国の天子で再三、自ら蒙古の砂漠を越えて、北方民族と戦ったのは、永楽帝ただ一人である。(P460) |
※8
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| 内閣制 |
永楽帝は文学に優れた者を招き、天子の顧問とともに皇子、皇孫の教育に当たらせた。皇太子(後の仁宗)の家庭教師をした三楊(楊士奇、楊栄、楊溥)が仁宗即位後重んじられたのが内閣制の始まりである。
さらに、9歳の英宗即位にあたって、三楊は摂政たる張太后の絶大な委任をうけ、内閣制度が確立した。 |
仁宗が即位すると〜最も親密なる天子の顧問として用いられた。これが内閣制の濫觴である。(P466) |
※9
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| 北方民族の捕虜となった天子 |
金軍は、逃亡する暇も与えず開封を制圧、北宋の徽宗、欽宗の二帝を軍営に呼び寄せ、人質にし、さらに金の内地へ連行した。
正統の天子が北方民族の捕虜となったのは、これが最初で、次が土木の変における明の英宗である。 |
一統の天子が北方民族の捕虜となるような異常事態は北宋末の徽宗以来初めてのことである。(P472) |
※10
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