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ご「異」見歓迎 これが初めて?中国史(3)

 いろいろな本に載っている「はじめて」を集めてみました。
 いや、これは違う。本当はこっちが最初や!というような「ご異見」をメールや掲示板で教えていただければ幸いです。


 『中国史』著:宮崎市定(岩波全書)・・・の続きです。
項目 内容 出典中の記載 備考
農民叛乱  英宗の時代、江西の農民ケ茂七が叛乱を起こした(1448〜49)。
 
 近頃中国史上に頻発する叛乱〜実は農民叛乱など称すべきものでなく〜ケ茂七の叛乱だけは〜正真正銘の農民叛乱と規定してよさそうである。(P473) ※11
隠者  明代の祝允明(号:枝山)は、官吏生活に嫌気がさし、任期半ばで蘇州に帰り、以後
家譜碑銘の類を売文し、一生をおくった。
 この種の隠者は前代においてはその比を見ない。おそらく明代に始まった新しい生活様式なのであろう。(P481) ※12
海上勢力  海を領土とし、船隊を国家とする海上勢力は、西洋史上には数多いが、中国史上では、東晋末の孫恩が最初で、次が鄭成功である。  海上勢力は〜嘗て東晋の末期孫恩なる者が海上に勢力を張り〜劉裕に平定された例があるだけである。(P506) ※13
台湾  康熙帝の代、清朝は雲南を平らげた勢いに乗じ、オランダ海軍の力も借りて、鄭氏海軍を破り、台湾を制圧した(1683年)。  台湾が中国の領土に入ったのは此が最初である。(P510) ※14
外蒙古  康熙帝は、外蒙古をズンガル部の侵寇から保護することにより、完全に支配下に置いた。  康熙帝は外蒙古を〜完全に服従を誓わせることが出来た。これは実に中国の歴史始まって以来、最初の事態〜(P511) ※15
開国  北京条約(1860年)により、南京条約による開港からさらに進んで、開国をせざるを得なくなった。  北京条約の意義は極めて重大〜中国の天子は外国公使を引見し、対等の礼で交際せざるを得なくなった。これは従来の中国的体制においては考えられぬことであった。(P539) ※16


※11 『中国史』では、「中国史上に頻発する叛乱〜の多くが農民叛乱と銘を打たれている〜論者の多くは中国の社会を農業社会と前提し、農業社会に起る叛乱は農民叛乱だと、安易に結論するものの如くである。」としています。

 また、『中国の大盗賊』(著:高島俊男。講談社現代新書)では、毛沢東が1939年に党員教育のために作った『中国革命と中国共産党』の中で「秦の陳勝呉広項羽劉邦からはじまり、漢の新市・平林・赤眉・銅馬および黄巾、隋の李密竇建徳、唐の王仙芝黄巣、宋の宋江方臘、元の朱元璋、明の李自成を経て清の太平天国にいたる大小数百回の起義は、すべて農民の反抗運動であり、農民の革命戦争であった」と書いた、とあります。

 これに対し、高島氏は、叛乱を起こした人間の大多数は農村地区から出ているであろうが、農村地区の人間イコール農民ではなく、農村のあぶれ者、食いつめ者であって、決してふつうの農民ではない。
 また、流民化した農民は、もはや農業をやめ、盗賊が仕事なのだから、ますます農民ではない。 
 さらに、叛乱を起こす者の中には「耕作者にひとしく田を」といったスローガンを掲げる者もいるが、現実には農村から収奪するなど農民を苦しめるのが通例であり、出身の点でも利益代表の点でも「農民」起義と呼ぶのは実態に合わないとしています。

 では、ケ茂七の乱はどうだったかというと、ケ茂七は、現役の小作人
 要求内容も、年貢米をそれまで、小作人側が地主へ持参し、しかも、その際、謝礼として薪や鶏・鴨等を納める習慣があったのをあらため、年貢米のみを地主が取りに来るようにせよ、というもの。
 出身も、利益代表もりっぱな農民起義といえるでしょう。

「この「ケ茂七の乱」は〜佃戸(でんこ。小作農)が邪教的組織にたよらず、知識人の参加もなく、小作料についての明確な要求をかかげて立ち上がった、明代の、というよりは、中国史上の最初の例だといわれている。」『モンゴルと大明帝国』(著:愛宕松男、寺田隆信。講談社学術文庫)

※12 『中国史』にいう「この種の隠者は〜」とは、どんな種の隠者なんでしょう。
 文中に「家譜碑銘の類を依頼されると〜応世の文、世俗とお付合いの文章と称して、依頼者の注文の通りに書いてやった〜こういう場合は自己の主張を曲げても恥にならないのであった」とあります。
 自らの主張を曲げたくないために隠者の道を選ぶストイックさと無縁という点が、新しいのでしょうか?

 なお、『中国の隠者』(著:井波律子。文春新書)では、隠者のルーツをの後継者指名を拒絶した許由にもとめています。
 また、清代の袁枚(えんばい。1716〜1797)を、精神的だけでなく物質的にも豊かさを追求し、しかもその贅沢な生活を維持する費用を売文、すなわち筆一本で賄ったとして「文人袁枚のこうした生活形態はまさに前代未聞のものにほかならない」としています。  

※13  孫恩の乱に関する記述を、『魏晋南北朝』(著:川勝義雄。講談社)から要約します。

 孫恩は、五斗米道を信奉する道教信者たる孫泰の子。399年、東晋政府の徴兵令に反発した揚子江下流デルタ地帯の民衆を扇動し、地方官庁を襲撃しました。
 一時は首都建康さえおびやかす勢いで、401年には水軍を率い京口を急襲したが、劉裕に撃退され、402年、ついに追いつめられ海に身を投じました。
 孫恩の死後も、彼の妹の夫である盧循(ろじゅん)を教主として教団活動と敵対行為を続け、410年には、水軍で大挙し建康に攻めのぼりましたが、再び劉裕に撃破され、翌年、盧循はハノイまで落ちのびた末に死んだとのことです。
 同書には、「この反乱は、海浜地域を根拠地としたこと、その水軍と造船技術がすぐれていたことにおいて特異な性格をもっている」とあります。
 
 孫恩の教団というと、足手まといになる赤ん坊を、信者の母が「おめでとう。お前は先に天国に上るのよ」といって水中に投げ込んだという話を読んで、何や○ームのポ○みたいやなあ、と思った記憶があります。

※14 「1661年4月、鄭成功は〜台湾からオランダ勢力を一掃した。ここで台湾の主権は鄭成功の手にうつった〜かつて鄭芝竜の幕下であった施瑯(せろう)が清軍を率い〜鄭成功の孫の克そう(土+爽)らは〜清軍に降った。ときに1683年である。このようにして、台湾ははじめて清朝の領土になったのであった。」『明と清』(著:三田村泰助。河出文庫)

※15 「かつて元の夏の都であった上都(ドロン・ノール)で、康熙帝はカルカの3ハン以下の全部衆を引見したが、このときかれらは、忠誠を誓って〜臣属した。こうして、外モンゴリアははじめて清の支配下にはいった〜清朝の支配圏は〜遠くジュンガル地方にまで及んだ〜有史以来の一大転換といえよう」『明と清』

※16 「アロー戦争後になると、さすがの中国も、いやいやながらイギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどを中国の対等国と事実のうえにおいて認めないわけにいかなくなった。だから1861年になると、中国史上はじめて、対等国との国交をとりあつかう役所、総理衙門(がもん)をつくったのである。」『中国の近代』(著:市古宙三。河出文庫)