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ご「異」見歓迎 これが初めて?中国史(5)

 
いろいろな本に載っている「はじめて」を集めてみました。
 いや、これは違う。本当はこっちが最初や!というような「ご異見」をメールや掲示板で教えていただければ幸いです。

6 『科挙』著:宮崎市定(中公新書)
項目 内容 出典中の記載 備考
官僚採用試験 ヨーロッパではようやくゲルマン民族大移動の混乱がおさまりかけた6世紀後半に、中国では、早くも官僚選抜に試験制度が導入された。  官吏の良し悪しは政治上に影響すること重大であるから〜万人のなかから公平に人物を採用する試験制度こそ最良〜この科挙制度の成立したのが〜587(P2) ※1
日本人の
「進士」
日本人で「進士」の称号を受けたもは、服部宇之吉博士が1909年に受けたのが最初。  日本では唐代に阿倍仲麻呂がはたして進士になったか疑わしいのを除き、ただ服部博士だけが科挙制崩壊直後に進士となった(P6) ※2
殿試  試験官と合格者との間に師弟関係が生じ、それが朋党の争いにつながっていったため、宋の太祖は、自分が試験官となる試験を最後に付け加え、合格者は最終的に、すべて天子の弟子という形にした。  太祖はみずから試験官となって試験を行ない、恩を売って〜官僚の大団結を計ろうとした。これが殿試の起源(P120) ※3


※1 科挙制度を創設したのは、隋の文帝で、従来貴族がもっていた官吏になれるという特権を取り上げ、試験に及第した者のみを有資格者として官僚予備軍を貯えておき、必要に応じ官吏の欠員を補充するという制度を樹立した。

 なお、同著には、「民主主義の最も進んだイギリスにおいて官吏任用に試験を用いるに至ったのは、1870年以後のことであり、アメリカはさらにおくれて1883年のことであった」とあります。

※2 科挙は1904年を最後に廃止された。しかし、科挙通過者を示す進士の称号は、その後も大学卒業者や海外留学帰朝者に与えられることがあった。
 服部博士も、清朝に大学の教官として招かれ、帰朝の際にその功に対して進士の称号が贈られた。もちろん、本来の意味の「進士」ではありません。

※3 太祖が初めて殿試を行ったのは、開宝8年(975)。

7 『科挙の話』著:村上哲見(講談社学術文庫)   

項目 内容 出典中の記載 備考
恩情合格  宋代に、「特奏名」と称して、繰り返し受験した高齢者に特別及第の資格を与えることがあった。   開宝3年(970)に〜15回以上受験した者106人を、勅命をもって特別に及第させたのが、その最初の例(P14)  ※1
人材養成  中国では、国立学校が実質的に教育機関として機能することはまれであったが、王安石三舎の法を実施し、大改革を加えた。  全国の州学から推薦された者をまず外舎に入学させ〜最終試験の成績がよければ科挙と関係なく任官させるというもので、科挙が人材を選抜するだけのシステムであるのに対し、これは人材養成のシステムといいうる画期的なもの(P69) ※2
天子の臨試  女帝武則天は、科挙を宮殿で実施させ、天子として初めて臨席した。  『資治通鑑』に「武太后、天授元年(690)二月辛酉、貢士を洛城殿に策す(策問を課した)。貢士の殿試は此より始まる」とある(P78) ※3
カンニング  科挙においてカンニングは初期から存在したと思われるが、正史に記載されたものとしては、855年の例が最初。  正史に記載されたカンニング事件の最初のもの『旧唐書・宣宗本紀』〜(大中9年、855)三月、宏詞の挙人を試み、題目を漏泄して御史台の劾する所と為る〜その登科せし十人は並(な)べて落下せしむ。(P220) ※4


※1 進士に合格するのは大変な難関で、五十代くらいは当たり前。中には、官吏隠退の年齢とされる70歳を過ぎてようやく及第する例もあったようです。
 ・義(せんぎ)という人が合格後自嘲してつくった詩(『登科後解嘲』)の中で「年齢を尋ねられたので 50年前は23歳でしたと答えてやった」という一節があります。

 よく、「当年とって40歳」というところを洒落で「十年取って、30歳」と言ったりしますが、何か似てますね。

※2 『宋の新文化』(編:佐伯富。中公文庫)によると、太学の定員を増し、上舎(大学院)100人、内舎(学部)200人、外舎(予科)600人に分け、試験により順次進級させた。学生は全員寄宿舎に入れ、学問や操行を指導訓育するという非常に進歩的なシステムだったようです。 

※3 宮崎前掲著には、「則天武后のような女天子が人気とりのために、みずから試験を行なうようなこともあった」とあり、村上同著でも「文事を好んだ武后が、当時は考功員外郎が主宰した試験を宮殿で実施させて御覧になったというだけのこと」としています。

 殿試が制度化したのは上述のとおり宋代だとして、どうも則天武后に対する評価は低いようなのですが、『追跡・則天武后』(著:今泉恂之介。新潮選書)によると「皇帝による面接試験「殿試」も武后の時代に始まった。〜高宗武后の二人が洛陽城内で受験者と直接、問答をした。〜皇帝の意見に対する反論も許された」とあります。
 今泉同著では、科挙で軍事部門を創設したのも武后としています。

※4 村上同著でも、『冊府元亀・貢挙部』という記録に天宝10年(751)のこととして「挙人の私(ひそ)かに文策を懐にする有り」という記述があることを紹介しています。
 また、カンニングで印象強烈なのが、襦袢のような下着にびっしり四書五経を70万字余りも書き込んだというもの。宮崎前掲書には写真が載ってますし、京都の藤井有隣館では実物が展示されています。
 「まさにランニングシャツではなくカンニングシャツだと駄じゃれをいいたくなる」という、宮崎大先生のめまいがするようなナイスギャグとともに忘れることができません。