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ご「異」見歓迎 これが初めて?中国史(6)

 
いろいろな本に載っている「はじめて」を集めてみました。
 いや、これは違う。本当はこっちが最初や!というような「ご異見」をメールや掲示板で教えていただければ幸いです。

8 『漢字と中国人』著:大島正二(岩波新書)

 「漢字の起源から現在の簡体字まで、中国人は漢字に対してどのように取りくみ、用いてきたのか。漢字の形、音、意味の問題を中心に、豊富なエピソードを交え日本に与えた影響にも言及しながら描きだす漢字文化史」に関する好著です。

項目 内容 出典中の記載 備考
漢字の創設者  漢字の創造者は、『易経』では、聖人としか記載されていない。
 具体的な氏名としては、一般に蒼頡(そうけつ。倉頡とも表記される)とされている。
 黄帝の史官〜に蒼頡〜という人物がいた。この人が鳥獣の足跡を見て〜初めて文字を造った、というのである。これは、許慎の著わした『説文解字』の「叙」に見える話である。(P7) ※1
公用文字   戦国時代は、文字も国ごとに異なっていたが、天下を統一した始皇帝が宰相の李斯(りし)に命じ、統一させた。  小篆という文字は、中国で漢字が誕生して以来、人為的に手を加えて成った最初の公用文字である。(P10) ※2
字様書  唐代の顔師古(581〜645)は、太宗の命により五経の誤りを正す『顔氏定本』を633年に作成したが、同時に『顔氏字様』を作成し、楷書の字体についても標準を示した。  顔師古は〜定本が拠るべき文字の基準を決めるために、楷書の異体字の数々を別紙に書きだし〜た。これが、いわゆる「字様書」(文字の筆画の標準を示す書)の始まりである。(P17) ※3
俗字、通字  顔元孫(660?〜732?)は、楷書のそれぞれについて、
(1)形が崩れているが、私的契約書等では用いてよい<俗>体、
(2)長い間慣用されている文字で、判決文等公文書でも用いてよい<通>体、
(3)確かな典拠があり、科挙の答案等では必ず用いるべき<正>体を示した『干禄字書』を編んだ。
 『干禄字書』は、一千六百五十八字の楷書〜を収め、それらの用途に応じて、<俗><通><正>の三体を区別して示している。(P18)
注6 正・通・俗の三体を用途別に明確に分けて示したのは、この『干禄字書』が初めてである。(P229)
※4
識字テキスト  中国では、古代より学校や塾において漢字を学習するためのテキストが必要とされた。  漢字の習得には〜指導書つまり識字テキストが必要となり〜文献によれば、その起源は周王朝にまでさかのぼる〜周の宣王〜の書記官であった史籀(しちゅう)という人が著わした『史籀篇』がそれであると伝えられている(P29) ※5
漢字  現段階でさかのぼれる最古の漢字は、甲骨文字と考えられる。  今日に伝わる漢字として最も古く確かなものは、殷の都のあとといわれる殷墟の地〜から発見された<甲骨文>〜である。(P30) ※6
義書  漢字も時代の変遷により理解が困難となるため、義(意味)によって分類された辞典である義書『爾雅』が編まれた。  義書は、遅くとも紀元前後の頃〜までに成ったと推測される『爾雅』十九篇に始まる。(P36)

 『爾雅』は、転義を説明した最初の書である。(P88)
※ 転義(引伸義)は、派生義と仮借義に分けられる 
※7
語源書  後漢末から三国魏にかけての頃、劉熙声訓と呼ばれる方法によって、その事物がその名称を得た理由の探究を目指す語源書『釈名』を著した。  『釈名』は〜語源学の性格を具えた最初の書である。(P51) ※8
方言書  中国ではかなり古い時代からことばの地域差が認識されており、後漢の応劭『風俗通義』によると周・秦の時代には方言の調査・収集を司る官吏を設け、毎年農閑期に各地に遣わしていた。
 その資料は漢代までに散逸したが、前漢成帝の代に個人で方言語彙の調査・収集を全国規模で実行した人物が現れた。
 広大な中国で話されていた地域方言を、面接調査によって記録した書が著わされた。この種類の書物としては、おそらく世界で最も古いものであろう。一般に、揚雄が著わしたとされる『方言』〜がそれである。(P69) ※9
字書  後漢の大学者許慎が、漢字を部首により分類・配列して漢字の構造そのものが示す意味(本義)を説明する字書『説文解字』を著した。  『説文解字』は本義を説いた最初の字書(P89) ※10
部首  許慎は、漢字全体を造字の基本となる漢字である「文」と、文を二つ以上組み合わせて造られた「字」に分類した。
 そして、さらに漢字を、義符(意味を表す「文」)が共通するグループに分類する部首法を創案した。
 許慎は〜系統的に整理・配列する方法を創案した。それが部首法である。(P99) ※11
日本で編纂された字書  空海(774〜835)は、南朝梁、陳に仕えた顧野王が著した字書『玉篇』にならって、『篆隷萬象名義』を著した。  空海が著した〜この書は日本で編纂された字書のなかで現存最古のもの(P120)  
日本における漢和字書  900年頃、昌住は、和訓による注も記した『新撰字鏡』12巻を編んだ。  この書は〜わが国における現存最古の大規模な漢和字書といわれている。(P120)  
アクセントによる配列  遼国の僧行均は、『説文解字』における部首を類似したものをまとめるなどして、約半分に整理し、一方、楷書体の字形から新たにいくつかの部首を建てた。
 さらに、そうした部首を「四声」の順に4巻に分け、各部内の字も、平・上・去・入の順に並べた字書『龍龕手鑑』(りゅうがんしゅかん)を編んだ。
 同じ部首法によりながらも、もっぱら漢字検索の便利さを図る字書が編まれるようになった。
〜部首字を高低アクセントを示す「四声」の別によって4巻に分けた
〜大きな変革である(P125〜)
 
筆画数による配列  明代の1615年、梅膺祚(ばいようそ)は、筆画数によって配列する字書『字彙』を著した。
 特別の知識も暗記も必要とせず、ただ機械的に画数を数えることにより検索できるこの方法は、人びとに歓迎されて定着した。
 今日の漢和辞典の筆画数による配列の方法は『字彙』に始まる。(P131)  
詩集  『詩経』は、紀元前10世紀の末頃から紀元前6世紀の始めまでの歌謡を収めたものといわれる。  中国最古の詩集に〜『詩経』がある。(P136)  
表音法  表音文字をもたない古代中国人は、漢字の音を表すのに、漢字を二字用いて音を表す「反切」(はんせつ)という方法を発明した。  反切という表音法の創案によって、方法的にはあらゆる漢字の音を示すことが可能になった。(P141) ※12
反切の研究  反切の起源は諸説あるが、最初に述べたのは顔之推による「漢末の孫叔然は、反切の知識をもっていた」(『顔氏家訓』)といわれている。  反切について最初に述べたのは、知られるかぎりでは顔之推『顔氏家訓』である。(P141) ※13
四声論  声調とは語の意味を区別する機能をもつ高低アクセントであり、古代から中国語に備わった特徴だった。
 南北朝の頃に、平声・上声・去声・入声という四種類の声調があることが整理された。
 隋の劉善経『四声指帰』によると、四声説は初めに周顒(しゅうぎょう)が唱え、沈約(しんやく。441〜513)がそれを継承して『四声譜』を著わし、四声論を確立させた(P146) ※14
韻書  斉・梁の時代(5世紀から6世紀)に文人は、作詩するときの押韻、平仄の拠りどころとなる韻書を求めるようになった。  中国で最も古い韻書は〜『声類』十巻と〜『韻集』五巻〜といわれている。(P148) ※15
韻図  唐代に入って、漢字の音を韻母を横の段に、声母を縦の行にならべ、座標軸によって体系的に示す韻図が誕生した。  今日に伝わる韻図の最も古いものは『韻鏡』である。(P179) ※16
韻鏡』の日本伝来  『韻鏡』は、『切韻』(601年)の体系を収めようとした図表であり、南宋の時代の音韻体系とはずれが生じていたため中国では亡失したが、日本に伝えられ大いに重んじられた。  一般に伝えられているところに従えば、わが国で『韻鏡』を最初に読解したのは〜明了房信範(みょうりょうぼうしんぱん)で〜書き写したのは〜建長4年(1252)(P181) ※17
漢字ローマ字表記  漢字表音化の試みは、明代末のマテオ・リッチ利馬竇=りまとう)ら外国人宣教師が布教の必要上、中国語や漢字を学習する際にローマ字表記を行ったことに始まる。  イタリアのイエズス会士、マテオ・リッチ『程氏墨苑』に見える漢字とローマ字の対照が現存するものでは最も古い。それより前、リッチには『大西字母』の書があり、初めて漢字の音をローマ字で表したといわれる(P194)  
中国人による表音文字  盧戇章(ろこうしょう。1854〜1928)は、反切法が音節を声母と韻母に分けるのにならって、ローマ字の変形体ともいうべき55の独特の字母(表音文字=「切音新字」)を考案した。  中国人で漢字の改革をこころざし、漢字に代わる初めての表音文字をつくったのは〜盧戇章である
〜盧戇章は〜1892年、『一目了然初階』と題するテキストを刊行して「切音新字」を提唱した〜(P196)
 
中国語のラテン化(ローマ字化)運動  中国語のラテン化(ローマ字化)運動は、ラテン字母によるソ連の文盲一掃運動に刺激を受けた瞿秋白(くしゅうはく)が始めた。  1929年の10月、瞿秋白は〜『中国語ラテン化字母』で発表した。最も早いラテン化新文字の草案である。(P215)  
漢字の簡略化  中国では、『干禄字書』の例をひくまでもなく、古くから簡略字(俗字)が用いられてきたが、識字率向上の見地から漢字簡略化が主張されるようになった。  清朝末の1909年、陸費逵(りくひき)が「普通教育に俗字を採用せよ」という論文を発表した。これが漢字の簡略化運動のはじまりとされる。(P221) ※18


※1 蒼頡の風貌は、後漢の思想家、王充『論衡』では「眼が四つ」とされている。
 はるか後世の明代の『歴代古人像賛』(1475)や『三才図会』(1607)においても四つの眼をもつ肖像画が収められているとのことである。

 また、本書注1によると、『易経』「繋辞伝」では、古代の聖人伏羲(ふっき)による「八卦起源説」、黄河の龍馬が献じた「河図」と洛水の霊亀が献じた「洛書」がもとになったという「河図洛書起源説」が載せられているそうだ。

 本書注2によると、『四体書勢』『世本・作篇』といった文献には、漢字の創造者として沮誦(そしょう)という人物が蒼頡と併称されており、『三才図会』でも両者が並んで描かれているとのことである。


※2 李斯がつくったとされる文字を小篆(しょうてん)といい、周の史籀(しちゅう)のつくった大篆という文字を土台につくられた。

※3 顔師古は、『顔氏家訓』を著した顔之推の孫。

※4 『干禄字書』の撰者は、顔師古の弟の孫。「干禄」とは、「俸禄を求める」という意味。

※5 中国では古代より国家が漢字を重んじていたので、権力の中枢に近付くためには漢字を習得することが必須の条件となった。漢字の習得にはかなりの労力と時間を要するので、学校や塾での学習が不可欠で、その際の指導書として識字テキストが求められた。

※6 甲骨文がつくられたのは、紀元前14世紀から紀元前12世紀頃といわれている。

※7 『爾雅』の著者は周公孔子子貢といった説もあるが不明。成立年も詳細は不明。

※8 声訓とは、戦国時代末期におこったといわれる、「『土』(と)は『吐』(と)である。万物を吐いて生み出すからである」というように、或る文字の意味を解くのに、その文字と同音か似た音を持つ他の文字によって行う方法をいう。
 「名称と実体の関係に関する論を展開させた最初の人はヘラクレイトスといわれる」(本書P50)
 プラトンは、ヘラクレイトスの論を継承し、事物とその名称である単語の関係は自然で必然的であるとする自然説を展開した。
 プラトンと同じ頃、孟子(前372〜前289)も自然説の立場から命名の由来を説こうとした。

※9 揚雄は、前53年に生まれ、27年の歳月を費やして後17年に方言の書を著し、翌年世を去った。  

※10 許慎は、秦代には通俗文字にすぎなかった隷書が、漢代に至って小篆に代わって一般に通用する標準字体となったことに伴う、漢字の書体や解釈の乱れを正すことが『説文解字』を著した動機であるとしている。

※11 許慎のいう「文」と「字」の類別は、大略以下のとおり。
「文」 象形文字 蒼頡が文字を造ったときの、「日」、「月」など物の形を象った文字
指事文字 「上」、「下」など抽象的な概念を示す文字

 そして、「文」をベースとして、
「字」 形声文字 「江」のように、意味を表す「義符」(「サンズイ」)と、音を表す「声符」(「工」)との組み合わせで成る文字
会意文字 「信」のように、二つの「文」(「人」という義符と、「言」という義符)を合体させ、新しい概念を示す文字

に分類し、「江」、「河」、「流」等、「サンズイ」を義符とする文字群を「水」部に帰属する文字として整理・配列するのが部首法である。

※12 「反切」という概念は、私には難解であるので、誤りがあったらご指摘願いたい。

 古代中国の人びとは、日本の片仮名、平仮名のように表音文字をもたなかったので、類似の音をもつ字で示す「読若法」(Aという漢字は、Bという漢字の若(ごと)く読む)や、同一音の字で示す直音法(Aという漢字の音は、B)に依っていたが、限界があった。
 そこで、中国の音節構造を、頭子音、介母音、主母音、末尾音、そして声調の5要素に細分し、これをさらに、頭子音を「声母」、それ以外の要素を「韻母」として二分した。反切は、こうした音節二分法を前提とする。
 
 反切とは、易しい漢字の2文字A、Bを用いて、Cという漢字の音を表す方法である。
 具体的には、第一の文字A(反切上字)によってCの声母を表し、第二の文字B(反切下字)でCの韻母を表す。
 言い換えれば、Xという声母、Yという韻母をもつCという漢字の音を表すのに、Xという声母をもつ漢字AとYという韻母をもつ漢字Bを並べて表すものである。
 反切は一般に「C AB反(又は切)」という形で、具体的には「東 徳紅切」といった形で表される。CとAは声母が同じで韻母が異なる、修辞法上で「双声」と呼ばれる関係で、また、CとBは、韻母が同じで声母が異なる「畳韻」という関係にあたる。

 最後の反か切かは、時代によって異なる(南北朝以前はすべて「反」)くらいで、発音においてはあまり意味がなさそうである。

 上記の「東 徳紅切」は、「徳」、「紅」という漢字の音を知っていて初めて意味をなす(「東」という漢字の音がわかる)ものだと思う。そこに一定の限界があるのではなかろうか。
 例えば、「徳」という漢字の音を表すのに、「東」という漢字を使ったりはしないのだろうか?(出来の悪い辞書が、「A」の語義を引くと「Bである」とあり、「B」の語義を引くと「Aである」といった循環説明をしているような例はないのか?)
 浅学のせいか、どうも、まだ完全には納得しきれない。

※13 明末清初の顧炎武は、反切は漢代以前に既にあったと説いているそうだ。また、反切は中国固有のものか、インドの悉曇学(しったんがく。古代インド文字の発音等に関する学問)や西域に由来するものか、説が分かれている。

※14 例えば、”ma”という音節は、高く平らな調子で発音されると「母」、昇り調子だと「麻」、降って昇る調子だと「馬」、降り調子では「罵(る)」を意味する。 
 梁の武帝蕭衍。しょうえん)は当時の第一級の文人としても知られるが、『梁書』等に、蕭衍も四声を理解できないでいた、とある。

※15 いわゆる平仄(ひょうそく)とは、四声の別、平声(ひょうしょう)と仄声(そくせい。平声以外の他声、すなわち上・去・入)のこと。
 『詩経』の頃から既に双声、畳韻といった押韻がみられるが、厳密な規則性はなかった。 

※16 韻図の起源はインド悉曇学における音節表と考えられているが、正確な作成時期や作者等は不詳である。
 顔真卿『韻海鏡源』(774年)に韻図の一種と推察される資料が収められていたと伝えられているので、少なくとも774年までに、韻図の原型はあったと考えられる。
 『韻鏡』は、南宋の張鱗之に伝えられ、彼が序文をつけ三度刊行した。初刊は1161年、第3刊は1203年である。

※17 『韻鏡』は、おそらく13世紀の初め頃(鎌倉時代)に入宋した僧侶によって、日本にもたらされ、その後、悉曇学に明るい信範(1223〜1296頃)により読解、書写されたと考えられている。

※18 魯迅が「漢字が滅びなければ、中国は必ず滅びる」と断言し、毛沢東が「漢字を将来的に廃止する」ことを考えたのは、中国の教育水準を高めるために「漢字」の存在が障害となると考えたからであった。
 しかし、「大衆一般は、漢字のラテン文字化よりも、むしろ漢字そのものの知識を身につけることを強く望んだことから、簡略化した漢字(『簡体字』)による識字教育にきりかえられ」1956年には「漢字簡化方案」の正式公布に至った。
 一方、現在では文字は簡略であれば学びやすいという主張に疑問を示し、「繁体字」の復活を主張する動きもあるようだ。