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ご「異」見歓迎 これが初めて?中国史(9)

 
いろいろな本に載っている「はじめて」を集めてみました。
 いや、これは違う。本当はこっちが最初や!というような「ご異見」をメールや掲示板で教えていただければ幸いです。

11 『大唐帝国』著:宮崎市定(中公文庫)

項目 内容 出典中の記載 備考
隷民  前漢時代に、人民全体に「士」の地位が与えられたが、同時に納税義務も課せられた。
 後漢時代になると、納税することができず、本籍地から逃亡し都市で日雇い人夫になるか、荘園に入り隷農となる人民が続出した。
 本来りっぱな自由民であったが、一家ともに荘園所有者に隷属する結果となった。
ここに自由民でもない、奴隷でもない、その中間に位する賎民階級の発生をみたのである。これが唐代の法制に規定された「部曲」なる隷民の起源である(P37) 注1
列女伝  後漢になって、中国はいわゆる「不景気」な時代になった。
 不景気で暮らしにくい時代ほど、家族の団結の必要性が強調され、親に対しては子が、夫に対しては妻が献身的に奉仕することを要求され、無数の孝子伝や列女伝が編纂された。 
列女伝もまた孝子伝と同じように、前漢末の劉向からはじまる(P40) 注2
「遊牧民族」の反乱  何進が召集した地方の諸将のうち、羗族の軍隊をもち、さらに匈奴軍隊を指揮する呂布を新たに配下に加えた董卓が最も強盛だった。
 董卓は、弘農王を廃し弟を立て、後にはその天子を擁し長安に遷都した。
董卓の乱は漢に帰服した長城外の遊牧民族が自己の力量を自覚して、反中国的態度をあきらかにした第一歩といえる(P52) 注3

道教
 はじめ張道陵なる者が、漢中で黄巾の張角と相似たる新宗教をはじめ、五斗米道と称せられた。
 孫の張魯のとき、地方長官を追って宗教王国を建設した。
これが後世中国全体に広く行われるようになった道教の起源と考えられる(P69) 注4
現実の「禅譲」  禅譲とは、中国上古の伝説におけるのように、天子の位を世襲せず有徳の人に世襲させる制度をいう。
 有史時代では前漢末の王莽が似たようなことをやっただけだったが、曹丕が魏王の位につくと、漢、魏の革命が禅譲の形で実施された。
はじめて伝説上の禅譲を現実の政治の上に復活してみせたのは曹丕が最初(P79) 注5
異民族による征服  匈奴の漢(前趙)の軍隊は、八王の乱で内部崩壊した西晋の宮城を占領し、懐帝を捕らえて漢都の平陽に送り、殺した。次の愍帝(びんてい)も即位して4年目の冬、漢将の劉曜に攻められて同じく平陽に送られ殺された。
 祖逖(そてき)らは中原を回復しようと挙兵するも成功せず、中国文化発祥の地黄河流域一帯は異民族に占領されることになった。 
永嘉の乱は中国史上、はじめて中国が異民族に征服され、一時中国文化が地におちて蹂躪された異変である(P133) 注6
仏教弾圧  北魏の太武帝のとき、道士の寇謙之(こうけんし)が大臣崔浩の紹介で帝に取り入った。
 崔浩は帝に仏教弾圧を進言し、帝は僧侶を誅し、経像を焼き捨てる詔を出した。
これが中国における仏教の法難の最初の例である(P219) 注7
科挙  隋の文帝は、貴族の既得権益を擁護する制度に堕落していた九品官人法を廃し、中央政府で行う試験合格者に高等官となる資格を与えた。 これがその後千三百余年にわたって行われた科挙の起源である(P309) 注8
女帝  唐の高宗はあまり賢くないうえに病身で、武皇后がかわって決裁を行うようになった。
 武皇后はライバルを次々に排除し、さらに僧法明が偽作した『大雲経』を口実に睿宗を廃し帝位につき、国名を周と改めた。
中国において女性が皇帝となったのは空前絶後、ただこの一例のみである(P350) 注9
経書印刷  馮道は、経書の印刷を始めたが、それが文官官僚の造成に寄与した点は大きく、つぎの宋代の文官全盛の時代を開く準備を整えた功労者ともいえる。 馮道は中国において最初に経書を印刷した出版人として知られる(P412) 注10
磁器  中国が外貨を獲得するための独占的商品は、従来はほぼ絹に限られていたが、やがて茶が加わり、さらに第三の輸出品として陶器があらわれた。 世界において最初に完成された磁器、中国の青磁(P418) 注11


注1 なお、「この経路は、ローマ時代にあらわれたコロナトスとまったく同じ」とされている。

注2
 古代の孝子は「が畑を耕していると、ゾウが手伝ってくれた」などおおらかな話が多かったが、後漢以後には、「二十四孝」にいう郭巨の釜掘りや孟宗の筍など、いたましい貧乏話になる。
 
列女伝も、劉向のそれはほがらかな話が多いが、後漢書の列所伝は、蔡文姫をはじめとする悲劇が続くそうだ。
 私は、落語「二十四孝」で「唐(もろこし。中国全般をさす)のばばあてえものは、どうしてそう食い意地がはってんだい?鯉が食いてえ、筍が食いてえなんて」と聞いて「ほんまやなあ」と思った記憶がある。

注3 『三国志演義』前半での山場のひとつ。この時(189年)擁立されたのが、後漢最後の天子、献帝

注4 
『道教の神々』(著:窪徳忠。講談社学術文庫)では、多くの辞書などで道教は老子を教祖とし、五斗米道をひらいた張道陵を開祖と説明しているが、太平道も五斗米道と同じく、道教教団の前身もしくは萌芽とよべるとしている。
 
さらに、太平道は、黄巾の乱の張角が再組織したため、彼が始めたとみる説もあるが、山東省の于吉(うきつ。干吉とも)が神より『太平清領書』を授けられ、概ね2世紀前半頃に宗教集団を組織したとしている。
 
なお、五斗米道の開祖張道陵の本名は張陵。177年頃に死んだといわれている。
 また、孫の張魯曹操に攻められ降伏したのは215年のことである。

注5 
曹操が没し、曹丕が魏王を嗣ぎ、さらに後漢の献帝から禅譲を受け帝位に即いたのは220年(魏国の文帝)。

注6 
西晋の懐帝が殺されたのは313年。劉曜が長安を囲み愍帝が降った(西晋滅亡)は316年。史上この戦乱を懐帝の年号により「永嘉の乱」と称する。

注7 
崔浩は強烈な中華思想の持ち主で、鮮卑族である北魏太武帝を中国の伝統に近づける手段として宗教を利用した。そして、こむずかしい儒教では異民族君主が気に入ってくれる筈もなく、不老長生といった現世利益のある道教に限ると現実的に判断したといわれる。
 そこで、仏教はインド伝来の異国の宗教であるからもともと嫌っていたし、道教のライバルとなるということで弾圧を進言した。この排仏は446年、いわゆる「三武一宗の法難」(北魏太武帝、北周武帝、唐武宗、後周世宗による仏教排斥運動)の嚆矢である。

 
なお、帝の信任あつかった崔浩も、450年の、いわゆる国史事件(帝は崔浩に北魏の歴史『国記』を編ませたが、拓跋族未開の時代のことを辛辣に記したことが摘発された)により一族もろとも誅された。

注8 
科挙の起源は、この587年であり、科挙が煬帝の大業年間からはじまったと称するのは誤りであるとされている。

注9 
武則天が帝位に即いたのは690年。
 なお、本書では「僧の懐義なる者が武后の寵を受け〜ついで僧法明が大雲経というものを偽作して奉った。その中に武后は救世主、弥勒仏の下生した者で、唐にかわって天下の主になるべきだとのべてあった」とある。
 
なお、『則天武后』(著:外山軍治。中公新書)や『則天武后』(著:澤田瑞穂。集英社)によると、懐義が、東魏国寺の僧法明ら洛陽の僧侶集団9人と共謀し、女帝出現の予告らしきものを仏典から探し出してきたとある。
 
中国では、過去に女帝の例はなく、さらに政治に女性が容喙することを戒めていたため、儒家経典や史書に典拠を求めることができなかった。
 そこで、有名な、仏教の弥勒仏下生(みろくぶつげしょう。釈迦入滅後、弥勒仏が人間界に転生し一切の衆生を救うという説。ただし、弥勒仏は菩薩であり女性とは限定されない)と、北涼時代の『大雲経』(仏陀が浄光天女に「女身をもって、王位につき、天下をおさめよ」と予言する一節がある)とをミックスさせた。
 『大雲経』自体は、北涼時代に曇無讖(どんむしん)が訳出した『大方等無想経』、同じく竺仏念が訳出した『大雲無想経』などがあり、偽経ではない。
 しかし、懐義らは、曇無讖の旧訳のまま、新しい「疏」(注解)を加え、新訳のように見せかけたため偽撰といわれる。

注10 
『馮道』(著:砺波護。中公文庫)巻末年表によると、後唐明宗の代932年、国子監から九経を印刷して売り出すことを始め、後周太祖の代953年に印刷が完了したとある。

注11 
本書には、「中国の青磁は、初め呉越国王や周の世宗の奨励によって完成されたと伝える」とある。
 原始青瓷や、呉越国王銭氏の庇護等については、陶磁器ゼミ(3)の「3.商・周・春秋時代の陶磁器」注4、「4.戦国・漢時代の陶磁器」注8、注9、陶磁器ゼミ(4)の「4.唐・五代の陶磁器」注3などをご参照ください。