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2003年7月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 7月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。


(250) 『怪しい科学者の実験ガイド』(著:ジョーイ・グリ−ン、訳:後藤安彦。ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 根っからの文系人間なのだが、肩のこらない実験本とかはけっこう好きである。しかし、この本はちょっと書きぶりが大仰な感じを受ける。

 たとえば、「ペットボトルの中の風船」という実験で「用意するもの」に「電気ドリル」が挙げられている。たかが、ペットボトルの底に小さな穴をあけるだけなのだ。
 アメリカでは、お手軽にキリで穴をあけるなんて習慣がなく、どこの家庭でも電気ドリルくらいは常備されているのだろうか。

 訴訟社会のアメリカで書かれたせいか、「必ず大人が責任をもって付き添うようにしてください」、「いかなる損害が生じても〜責任は負いかねます」と冒頭に明記してあるし、火を扱うところでは必ず「大人にそばで見てもらいながら」という一文が添えられている。

 まあ、それはそれとして、ドライアイスやアルコールで宇宙線の観測装置がつくれる(本書P37「宇宙線探知装置」)なら、いつかやってみたいなあと思った。

★★☆



(251) 『ソ連が満州に侵攻した夏』(著:半藤一利。文春文庫)

 満州ものも何冊目かなのだが、居留民切り捨ての段ではいつもやりきれない気持ちでいっぱいになる。
 この本では、居留民側の視点よりも、主にソ連を中心とする国際情勢の思惑や、日本軍部の動きを中心に描かれている。

 米、英は日本を降伏させるためソ連の参戦を求めた。しかし、ソ連はドイツ、日本の二方面に敵を迎えたくないので日ソ中立(不可侵)条約を結んだ。
 その後、ソ連はドイツを破ったものの、壊滅的打撃を受けた。
 この失費を取り戻すためには日本に対して参戦し、分け前にあずかる資格を得なければならない。
 一方、アメリカは原爆実験に成功した今、日本を降伏に追い込むのにソ連の参戦は不要だと考え始めた。

 こうした国際間のソロバン勘定の中で、日ソ不可侵条約は弊履のように打ち捨てられる。
 しかし日本軍部は、もはや実体のない日ソ不可侵条約に可憐なほどの思いを寄せ、ソ連に停戦交渉の仲介をしてもらおうとラブコ−ルを続けていた。

 ナチスドイツがユダヤ人に対して行ったことは許されるものではない。しかし、そのドイツも「降伏の四カ月も前から水上艦艇の全部を」自国民を「ソ連軍の蹂躙から守るため」に確保し、「東部から西部に運んだドイツ人同胞は二百万人を超えている」そうだ。
 「敗戦を覚悟した国家が、軍が、全力をあげて最初にすべきことは、攻撃戦域にある、または被占領地域にある非戦闘員の安全を図ること」だという大原則を守ったものといえる。

 ひるがえって日本はどうか。
 軍部や満鉄幹部の家族ばかりが引き揚げ列車を独占し、一般市民は見捨てられた、というのはよく知られたことである。
 列車ばかりではない。関東軍は早々と何百kmも離れた通化に退却した。国境付近の開拓農民たちは、丸裸の状態で、ソ連侵攻軍の前に投げ出されたのだ。

 敗戦間際の根こそぎ動員で、開拓団には屈強な青壮年はいなかった。さらに、軍の庇護も、身を守る武器もなく、何より、何故このように襲われているのかという情報すらもなく逃げ惑う開拓団にソ軍だけでなく、現地人も武装匪賊となって襲いかかる。

「三江省〜日高見開拓団。八月十八日、全員四十一名が〜服毒自殺。
吉林省〜八道河子開拓団協同組合。(八月)二十一日〜各戸毎に幼児を毒殺し〜成人は全員一戸に集合縊死。
吉林省〜来民開拓団。暴徒の襲撃に遭い、全員二七三名、婦人子供までが竹槍・棍棒を振い、煉瓦を投げて抵抗し、ことごとくが殺されまたは自殺した・・・」
 延々と続く『満蒙終戦史』に列挙された記録を読むのがつらい。

★★★


(252) 『コータンの廃墟』(著:オーレル・スタイン、訳:松田寿男。中公文庫BIBLIO)

 全訳でなく、「第1回の旅行記から最も興味に富む部分を訳出」したとある。そのせいか、いきなりタクラマカン砂漠の真中にいて、コータン(又はホータン、于闐)遺跡発掘を開始するところから始まる。

 で、あとは延々と砂をかき分け、文書を掘り出す描写が続く。正確に言えばそればかりではないのだが、ともかく砂、砂、砂という印象を受ける。 終章もあっけない。率直に言ってしまえば私には退屈な本だった。

★★


(253) 『 "It(それ)"と呼ばれた子 (完結編)さよなら"It"』 (著:デイヴ・ペルザー、訳:田栗美奈子。ヴィレッジブックス)

 「カリフォルニア州史上最悪の児童虐待」を受けた筆者の自伝の完結編。

 筆者は空軍に入り、消防士になり実父と暮らそうと決意した。苦労して高校卒業の資格を取り、空軍に入る。消防士を目指すが、配属先は食料供給班、つまりコック。
 やけをおこしかけたこともあるが、努力を続け、ついに空中給油班に配属される。念願の「飛行機乗り」になれたのだ。

 パッツィという女性と知り合い、結婚し、子どもも生まれる。しかし、金銭的にルーズな彼女と折り合いがつけられず、結婚は破局を迎える。

 実父は、彼に消防士のバッジだけを残して亡くなった。リストラに会うかも、と早手回しに空軍をやめ、虐待を受けた体験の講演や出版を事業化するが、代表者に金を持ち逃げされる。彼は、空軍のキャリアも家庭生活も失ったのだ。

 最後、彼の自伝出版を担当した女性編集者マーシャと愛し合うようになり、幸せな家庭を築いたので救われた気持ちになった。

 彼は強い。どんな状況にあっても、あきらめずにベストを尽くし続けた。
 自分が父や母のようにならないように、自分が虐待を受けたことを言い訳にしないように厳しく自戒し続けた。そんな立派な人間ばかりではないだろう。

 「人間は何か決定的な変化が起こらない限り、十中八九、自分が育てられたとおりのやり方でわが子を育てるようになる」と本書にある。

 以前読んだ『今どきの教育を考えるヒント』(著:清水義範)でも、「親がアルコール依存症だった子は、そうではなかった子よりも、それにならないように心がけ、酒を遠ざけて生きたりしそうなものである。なのに、現実はそうではないのだ。アルコール依存症の親の子は、アルコール依存症になることが多い」とあった。
 人は、愛されないと、愛することができないようだ。

 私の親父が残してくれた言葉がある。
 軍隊時代、上官によるいびりを経験しての言葉のようだ。

 「人には二種類しかない。人にいじめられたから、自分もいじめようと思う人間と、自分はいじめないでおこうと思う人間だ」

 悪の循環は、どこかで断ち切らねばならない。

★★★


(254) 『ビートルズを知らなかった紅衛兵』(著:唐亜明。岩波同時代ライブラリー)

 分厚い本だ。356Pもある。子ども時代からの思い出が淡々と綴られていく。
 「急須にオシッコを入れ、テーブルの上に置いた。護衛は汗びっしょりになって帰ってきて〜『誰がお茶をいれてくれたのかな』と嬉しそうに〜ゴクゴク飲んだ。
〜二杯目で味が違うと気づいた」

 「初めの頃は、はさみで猫のひげを切り〜三階から落とした。
〜電気のプラグを棒に巻きつけて、猫の身体を突っつく。ところが、猫の皮は電気を通さない。
〜猫の鼻めがけて突いてみた。〜悲鳴を発する猫。私たちも〜笑いころげた。さらに電気を流す。猫はばたばたとあがき始め、口からあわをふいて、死んでしまった。
 それでも飽き足らず〜新しく捕まえてきた猫を棒でなぐり殺し、皮をはいで柔らかく煮て食べた。なかなか美味い」

 「お隣さんは〜自分の家の猫を捨てるに忍びず、私に助けを求めに来た。私は〜道路の向こう側のゴミ箱に捨ててやろうと思った。しかし〜トロリーバスがやってくるのが目に入り、思いきって猫をトロリーバスの下においた。車輪は猫を直接にはひかなかったが、腹をかすったので、腸が飛び出てきた。
〜隣の子は〜猫に抱きついて、号泣したが、私は大手を振って帰ってきた」

 「武漢では兄と長江大橋を遊覧した。〜橋の高さは百メートル近くもあるだろうか。
私が思いっきり痰を『ぺっ』と吐きだすと、その痰はあっという間に落下し、『ベタッ』と下の人の体にくっついた」など、どうかと思う文章も多いが。

 筆者の父唐平鋳は、1937年、留学先の日本から帰国し紅軍に志願する。途中で野戦部隊から降格させられ新聞編集にまわされたが、ジャーナリストの才能があったようで、『人民日報』総編集長にまで出世する。
 しかし、文化大革命のおり1967年1月に「反革命」として指弾され、いったんは釈放されるが、翌年9月に再び逮捕される。

 著者をはじめ家族は紅衛兵や軍隊等で、父が有力者であるうちは恵まれた生活をしていたが、父の失脚とともに家を追い出され、周囲からも冷遇される。

 そんな中、筆者は下放先の黒龍江省から北京に一時帰省し、林彪事件を知る。1975年5月、父がようやく釈放される。

 翌年1月、周恩来首相が死去。告別式のテレビ中継を見ていた筆者一家は、江青が帽子をかぶったまま遺体に礼をしたのを見て憤激で歯ぎしりする。

 天安門事件を経て、9月に毛沢東主席が死去、10月には四人組が逮捕される。しかし、父が党中央軍事委員会から「全面的に名誉回復」の決定を得るには1980年まで待たねばならなかった。
 1984年11月、20年間も病気に苦しめられた母は父に看取られながら息を引きとり、後を追うように翌年7月に父もこの世を去っている。
 父親の残した遺言が印象深い。

「この美しい世界を離れる時、私は深い情愛でわが偉大な党、偉大な祖国、偉大な人民を思う。私と生死、艱難を共にしてくれた戦友、家族、同志、友人たちへの想いで一杯である。〜
私の全生涯をかけて奮闘してきた革命事業を、どれほどいとしく思うことか。〜
最後の党費として一千元を党組織に納める」

 「ビートルズを知らなかった紅衛兵」というのは、情報を閉ざされ、当然謳歌すべき娯楽も知らずに、ただただ毛沢東ばかりにすべてを捧げていた当時の紅衛兵を自嘲し批判的にとらえているものだと思っていた。

 しかし、筆者は「世界中の青年たちがビートルズの歌を口ずさみ、ベトナム戦争反対を高らかに叫び、学生運動の赤い旗を振っていた頃、中国の青年は、雄壮な文化大革命の渦の中で格闘していた。同じ世界で生活していたのに、異なる歌をうたっていた〜
私は自分を錬磨した偉大な毛沢東時代に、深い懐旧の念を抱く」とあるように、当時のひたむきな熱情をある種の懐かしさをも含んで思い返しているようである。

★★☆


(255) 『中国の「野人」』(著:周正、訳:田村達弥。中公文庫)

 古くから中国各地に伝わる謎の生物「野人」(「大脚怪」、「人熊」とも。いわゆる「雪男」、「イエティ」、「ビッグフット」、「サスカッチ」のような、全身が長い毛で覆われた直立歩行の生物)に関する調査記録を集めたもの。

 本書第2章では、「古文献に現れた『野人』」として、『山海経』『楚辞』『本草綱目』『爾雅』等々における「野人」を紹介している。

 そして、第3章では湖北省神農架、第4章では秦嶺山脈近辺、弟5章は崑崙山脈近辺、第6章はチベット、第7章は、その他黒龍江省、貴州省、雲南省、湖南省等各地における探検及び地元への聞き取り調査の結果が記されている。

 「野人」の特徴として、人に出会うと「笑う」という表現が多かった。もちろん、これは「微笑みかける」というようなものではなく、よくチンパンジーが興奮した時に唇をめくり上げたりするが、そうした歯を見せる表情を指しているのだろう。

 「野人」というといかにも凶暴なイメージを受けるが、ほほえましいものも多い。

 「1979年5月4日〜赤毛の雌の『野人』が道端に立って、笑いながら子供たちに手招きをしていた

 「1960年のこと〜全身に茶褐色の長い毛が生えた怪物が〜脚を持ち上げて、窓から室内に差し入れている
〜足に大きな傷口が開いていて、血が流れている〜僧が〜縫い合わせてやると、やっとその場を離れて行った。それから一週間以上も経ったある日、老僧は部屋の前にたきぎが積まれているのを見つけた。毎日増えていき、しまいには部屋のドアが開かなくなるほどであった。
その後、ある遊牧民が言うには『小野人』がたきぎを持って来るのを見たというのである」
(←『ごんぎつね』野人版のような話だ)

 「1978年3月〜火を起こして〜眠りについた。
〜全身毛むくじゃらのものが火の中にたきぎを入れている〜たき火の火勢が強くなってきたので『野人』は盤寿福らがやけどするのを心配して、彼らのからだを火から遠ざけるようにそっと押し転がすのであった。
〜『野人』は二、三十分後に、改めて拾い集めたたきぎを抱えて戻って来ると、彼ら三人の世話をするように動き回り、空が明るくなる頃になってやっとどこかへ立ち去って行った」
(←かいがいしく世話する慈母のような野人だ)

 これに比べると、
「1942年の春〜射殺された『野人』は軍用鍋で煮られて、その場にいたほとんどの人がその肉を食べた

「1947年のことですが〜『紅毛野人』が八頭も飛び出し〜小さいのが一頭だけ捕らえられ〜兵隊たちは、『野人』が薬になると聞くと、切り刻んで、各隊に配ってしまいました」などとあり、どっちが野人かわからない。

 「野人」は目撃者の証言こそ多いが、写真や実物(骨なども含め)の証拠はない。足跡の石膏模型、毛髪、糞便、巣に限られているらしい。
 本書には、1980年に日本の女流登山家田部井淳子さんが足跡を発見したとあった。

 惜しいとこまではいったようだ。上にも書いたが、捕まえたんだが食べちゃったとか、
「1972年〜射撃に優れた江白が狙撃銃で一頭に狙いを定めてうつと〜雪面に倒れて死んでしまった。
〜誰もこんな動物を見たことがなく、その場に放置したまま引き揚げてしまった」とか、射殺したが、その時は暗くてよく観察できず、持ち帰ろうにも雪が続いて入山できず数日後に探しに行ったがオオカミなどに食い荒らされていたとか、縛り上げたんだが翌朝には逃げられていたとか、とある。

 また、「わが国の一般大衆について言えば、カメラはまだ一種の『贅沢品』で〜常にカメラを携帯して、時に応じて撮影するなどということはとてもできるものではない」そうだ。

 決定的な証拠がない理由の一つに、筆者は「彼らは〜身を隠すことに長けた本能によって生きのびてきた」としている。
 だからといって、肖蒂岩氏のように「何度かの星間大戦争を経て、ある『宇宙人』が別の『宇宙人』、すなわち今の『野人』を地球に追放した〜『野人』の『雲隠れ』こそ祖先の『宇宙人』から伝えられたものである」とまで主張するのは行き過ぎだろう。

 雌の野人が人間の男性をさらい、やがて二人の間に小「野人」が生まれる。男がすきをねらって逃げると、雌野人は憤激のあまり、小「野人」の足を引き裂いて殺してしまったという話が1964年のチベット、1969年のチベット、年代不詳の湖南省で起こった話として採取されている。
 筆者は「外界との接触や情報交換が極めて少ないか、場合によってはまったくない」のに「彼らの『野人』に対する描写は〜期せずして一致している」ことを、彼らの話が真実である根拠の一つにしている。
 しかし、人間と雌「野人」の間で子供が生まれるというのは・・・。

★★☆


(256) 『プノンペンどくだみ荘物語』(著:クーロン黒沢、マンガ:浜口乃理子。徳間文庫)

 あまり有名でないライターがアジア関係の文章を書く。
 登場人物はお上品な勤め人でなく、ダメダメ&破滅型。
 そこに「売れ筋」の女性漫画家がイラストを入れる・・・・って、カモ(鴨志田穣)や金角(ゲッツ板谷)とサイバラ(西原理恵子)コンビもののパクリじゃねえか。

 しかも、しょせんパクリ、便乗もので、ライターも漫画家も本家には及ばない。ずいぶんとヌルイ本になってます・・・てな書評を俺に書けってゆうのか、このやろう!などと思いながら(←「誰もあんたに書評書いて、なんて言ってないがな!」と自分で自分にツッコミを入れつつ)書店で手にとった。

 ところが、まじでその通りなんで笑ってしまった。

★★


(257) 『満州難民 祖国はありや』(著:坂本龍彦。岩波同時代ライブラリー)

 本書は、筆者から鈴木ヒロノさんという方への語りかけで始まる。

 彼女は東京オリンピックの年に満州からひとりで帰国した。中国語しかできない23歳の娘が、シベリア抑留から帰国した実父だけを頼りに福島県の農村に。
 しかし、父は再婚し、若い義母の間に子供が3人。彼女の安住の地はなかった。

 関東軍とタイアップし「満州移民計画」の実現に乗り出した加藤完治は、昭和11年の座談会でこう語っているそうだ。

「(満州移民を)まずどしどし入れる〜その希望を達するためには、妨げる者はいくらでも殺すという決心をしてもらいたい
〜戦争をしても移民をすることは当然なことだ〜そこに戦争の意味がある〜」

 そして、大本営朝枝参謀は、昭和20年8月26日にどんな見解を示したか。

「〜大陸方面に於ては在留邦人及武装解除後の軍人はソ連の庇護下に土着せしめて生活を営む如くソ連に依頼する〜」
「〜満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」

 耳を洗いたくなる話がある。

 「ある慰労会の席上で元満州国開拓総局の局長〜が、酒の入った勢いで一席ぶち始めた。
〜満州国の首都新京駅で特別列車を仕立てて、総勢800人に及ぶ軍人、政府役人の家族が朝鮮の安全地帯に向けて南下した。
〜高級ウィスキーを関東軍上級将校に差し入れて、まず自分の家族をその列車に乗せて優先避難させたという〜」

 1987年に草地関東軍参謀は朝日新聞記者にこう語っている。

「軍は作戦を最優先しなければならない。敵に気付かれず、ひそかに撤退するのも任務なのだ。〜多少の犠牲はやむを得ない。それが戦争なのだ。〜」

 まさに「居留民を見捨てての関東軍の隠密の撤退は『作戦』という名で正当化されている」のだ。

 寺山修司に「マッチ擦るつかの間 海に霧深し 身すつるほどの 祖国はありや」という歌があるそうだ。

 満州難民は国から捨てられた棄民だ。そして、残留孤児は、(国から見捨てられた)親に捨てられた子供だ。
 さらに文化大革命時には、残留孤児を救ってくれた養父母たちの多くはスパイの嫌疑をかけられ、さまざな弾圧を受けた。

 そうした養父母を捨ててまで日本に帰国したヒロノさんたちに、「祖国」は見付かったのであろうか。


★★★


(258) 『秘境西域八年の潜行 抄』(著:西川一三。中公文庫BIBLIO)

 以前に『チベット潜行十年』(著:木村肥佐生。中公文庫)を読んだ。
 木村氏とほぼ同時期に、やはり調査密命をおびて西域にラマ僧として潜入した記録である。

 「赤い夕陽の沙丘を歩む 垢にまみれし若人が 蒙古姿にやつしはすれど 隠しきれない眼の光」てな調子の「歌」が章の始めに掲げられていたり、どうも文章が講談調というか美文調というか。

 「抄」とあるように、本書は内蒙古篇とか、チベット前篇、同後篇などにわかれているのだが、続いているのか、と思ったら次篇では登場人物も時代も変わっていて、ついとまどってしまうこともあった。

 もとは中公文庫3巻に分かれていたのを1巻にまとめたのでやむを得ないのだろうが、巻末の奥山直司氏の解説に、「西康篇は、当時の東チベット(カム)の状況を述べた貴重な報告である。カムバの故郷としてしられるこの地」とあるので「読みたいなあ」と思ったが、載ってないし。

 終章で、彼はインドの警察に正体がばれ、捕まる。

 「木村君が私のことを、すべて密告したことを悟った。
〜木村君も事前に相談してくれればよかったのに、と思ったが、観念のほどを決めるほかはなかった」とある。
 いわば、「売られた」のに、あまり恨む様子はない。

 木村氏の本を読み返してみた。
 
「西川氏は〜ビルマ方面に行きたいようなことをいっていたが、半面、日本に帰りたい様子でもあった。
〜私は〜カルカッタ警視庁に本国送還を希望、自首した。
〜私の取調べがおわり、本国送還が確実になった時、私は西川氏のことを話した。すぐ刑事が飛び、西川氏が連行された。
〜私は彼に悪いことをしたと思った。しかし、私は二人揃って帰国し、無事な顔を肉親や関係者に見せるのが、何より大事であると考えていた」とある。

 本書の末尾では、日本に送還され、「神戸駅前の一杯のみ屋で木村君と互いに別れの盃を酌みかわした」とある。あっさりしたものだ。
 西川氏も、日本に帰るきっかけができて、ある意味ほっとしたのかもしれない。

★★☆


(259) 『冬のモンゴル』(著:磯野富士子。中公文庫)

♪ふ〜ゆの〜モンゴル〜 男ってやつは〜♪・・・・・・失礼しました。

 本書は昭和19年11月から翌年3月まで、モンゴルの法慣習研究を志す夫の磯野誠一氏とともに、現地でモンゴルの婦人に関する研究や民間伝承収集を行った筆者の日記である。

 民主主義、男女平等の時代ではないし、「明日」すら保証されない戦時下だが、真摯に研究を続ける。

 そんな「時代」を感じさせる文章が随所にある。

 「婦人の生涯の各段階を辿り、さらに婦人の受け持つ仕事の内容をできるだけ詳細に記録し〜伝承、民謡の類もできるだけ採集したい。
〜考えて行けば暗い部屋も耀いて見えるばかりの抱負で胸が一杯になるのだけれど〜召集令状一本くれば、すべては一瞬にして断ち切られてしま」う。

 「『モンゴルの人たちの風俗や習慣を調べに来たのよ』と言うと、『調べてどうするの?』と突っ込まれる。
〜日本人の中でも、こんな時代にこんな苦労をしながら、モンゴル人がお嫁さんを貰う時に出す家畜の数〜などということを夢中に調査している気が知れない、と思う人の方が多いだろう」

 「勉強をしたい心と、それをやり続ける才能を持ちながらも、周囲の理解を得られないために、雑用をする機械のようになってしまう女の人たちが多いことは、社会にとっても大きな損失だとしか思われない」

 夫の帰りが遅いので心配していたら散髪してきており「高等学校時代の写真でしか見たことのない丸刈頭の夫は、何だか急に私より小さくなってしまったような頼りなさを感じる。『ほら、遺髪だよ!』とちり紙に包んだものを机の上に投げ出した」

 慎ましやかな知性というのは、筆者のような存在をいうのではないだろうか。

★★★


(260) 『くっすん大黒』 (著:町田康。文春文庫)

 「くっすん大黒」と「河原のアパラ」の2作。どちらも、酔っぱらいの独り言のような文体である。
 主人公も変なやつなのだが、そいつがまた変な奴とめぐり逢う。

 「くっすん」の方は、「引きこもり」中年が嫁はんに逃げられ、部屋にころがっている変な大黒様の人形を「捨ててこます」と決意するも巡査に不審尋問されたりする。
 アルバイトで洋品店に行くと、店員の吉田というおばはんも、常連客のチャアミイというおばはんも「医者へ行け、医者へ」とつぶやきたくなる変なやつ。

 「磔刑のタコ」を代表作とする上田と言う男を取材するバイトをするが、主人公はすることがなくて、海辺でつかまえた亀を焚き火にくべて、爆発させたりする。

 「河原」の方の主人公は立ち食いうどん店に勤めているのだが、同僚の天田はま子という変なおばはんが猿を店に連れて来て、天井にぶら下がったその猿をちょっとモップで小突いたら、あっけなく下のうどんを茹でる大釜に墜落した。

 難を避けるため、それまでのアパートを引き払った主人公は、ガスも引かれていない下宿に越したため、三食ともフライドチキン店とかに行かねばならないのであった。
 ただ、主人公は頭の中に「おおブレネリ」が流れつづけており、つい口をついて出て、たまらなくなって大声で歌ってしまっていたのであった、やほほ
だから、なんなんだ、と言われると困ってしまうのだが。 

★★☆


(261) 『新・アジア赤貧旅行』(著:下川裕治。徳間文庫)

 著者下川氏は1954年生まれ。私よりも年上なのだ。

「やはり年なのかとも思う。アジアのとろとろした飲み方が体に合ってきたのは、年齢がかなり影響している気がする」とある。
 そりゃ、はたち前と今じゃ、一緒にはならんよ。がきの頃は肉、それもどっちかというとハムとかハンバーグが最上だったけど、この頃は煮(た)いた魚や野菜の味がわかるようになってきたんだ、俺たちは。

 沖縄での店の名前の話がおもしろい。

「沖縄では看板の前で固まることが多い。那覇の真和志大通りで
『ゆびわ屋』という宝石店の看板が目に入ってきたときは天を仰ぎたくなった。〜『スナック母子家庭』も打ち返すことができない剛速球である」

 郵便制度もないアフガニスタンで、普通の電話は見当たらないのに、携帯電話を大事そうに持っている人がいた、とあった。
 電話線敷設という膨大なインフラストラクチャーを要する一般電話より中継アンテナだけで使える携帯電話の方が完全に有利だ、とも書かれていた。
 言われてみれば納得なのだが、「アジアの発展は、先進国が10年かかったことを2年でクリアーしてしまうようなスピード感をもっている」というのは、やはりアジアを見続けていた筆者でないとなかなか言えない台詞なのかなって気がする。 

★★☆



(262)  『笑うアジア』 (編:下川裕治。双葉文庫)

 本書は編者である下川氏の「文庫版のためのまえがき」によると「『格安航空券&ツアーガイド』(現在は『格安航空券&ホテルガイド』)という雑誌にかかわる元気なライターたちに執筆を依頼した」エッセイで構成される。

 感想を、今流行りの防虫スプレーのCM風にいうならば「つまらん!お前らの文章はつまらん!」といったところだろうか。書評を放棄したような文章ですみません。


★★


(263) 『ベトナム怪人紀行』 (著:ゲッツ板谷・写真:鴨志田穣・絵:西原理恵子。角川文庫)

 巻頭のサイバラによる「主な登場人物」のとこで「板谷宏一 もう何年も字を書いているが今ひとつパッとしない」とあるが、まさにその通り。
 だって、そこで「西原理恵子 この本で10Pほどまんがかいてます」とあったので、わたしゃ、2Pずつのサイバラのマンガが描いてあるとこ、5箇所ページを繰りながら探したもの。

 まあ、これはしゃあないかもしれん。あの手練れの清水義範氏ですら「理科」、「社会科」シリーズで挿し絵ならぬ、サイバラの挿し文章化してるのだから。

 思うに、板谷は、素直に文章を書いていれば、存在そのものが充分おもしろいのだ。それなのに、写真につけるキャプションにしても、文章にしてもやたら「〜のように感じた」という描写、比喩を加え、それがことごとくすべってしまっている。

 本書全体で、そうした比喩は数え上げたら膨大な数に及ぶと思うが、ふん、ふんと肯けたのがP166の「顔が勝新の放出してる瞬間になっとる・・・」という1か所くらいやからなあ・・・。
 しかも、本書では「双子の従業員達。なぜか殺人事件が起こるような気がした」、「右がサイさんの孫。この子は短命のような気がした」、「ムークンをかぶる兄ちゃん。が、近い将来、マヌケな交通事故に巻き込まれて死ぬような気がした・・・」など後味の悪いキャプションが多いし。

 生意気なこと言うが、ほんと「削る」こと覚えればいいのに、と真剣に思う。

★★


(264) 『毛沢東を超えたかった女』 (著:松野仁貞。新潮社)

 単行本の「帯」には、「中国を代表する大女優の栄光と転落の軌跡」とある。

 劉暁慶
(リウ・シャオチン)という女優をご存知だろうか。お暇なら後で、うちのサイトの「西太后と溥儀の部屋」というコーナーをご覧いただきたい。
 「西太后」、「続・西太后」、「最後の宦官 李蓮英と西太后」、この3本の映画で西太后を演じたのが劉暁慶である。顔は、島崎和歌子に似ている。

 私は中国の女優といえば、「中国の百恵ちゃん」こと鞏俐(コン・リー)だと思っていた。
 本書によると、この3本の映画と、「芙蓉鎮」により劉暁慶こそが「男性も及ばぬ圧倒的な存在感で、実質的には『影皇(インホワン)』(映画界の皇帝)として、二十年間にわたって中国映画界に君臨し続け」たそうである。
(劉暁慶は90年の「大太監李蓮英」を最後にテレビ界に転進し、鞏俐は、その間隙をぬって、映画監督張藝謀(チャン・イーモウ)の寵愛によってのし上がったのだ、とも書いてある)

 76年の毛沢東死去とともに文革時代は終わり、ケ小平による「改革解放」時代が幕を開けた。「先富起来」(豊かになる条件を備えた者から、まず豊かになろう)をまさに体現したのが劉暁慶である。

 「走穴(ツオウシュエ)」というのは「1980年代初め頃から、中国映画界で密かな流行語となった言葉で、俳優・女優たちが、副業として各地のイベントや舞台に出演することを意味している」そうだ。
 吉本興業の芸人がよく言うところの「余興」とか「営業」というやつであろう。

 劉暁慶は、80年代初めには国民的な「大明星」(大スター)となっていたが、収入は北京映画撮影所から支払われる月額50元の給料だけだった。
 何本映画に出ようと、そして、その映画がいくら興行収入をあげようと、数々の映画賞を受賞しようと同額であった。

 そんなおり、「4日間で25回舞台に立ってくれ。1回の出演で150元払う」という話がもちかけられた。
 初めはためらっていたが、たった4日で6年分以上の収入が得られる誘惑には抗せず、引き受けた。
 3750元の現金を手にした劉暁慶。1日8回、1ヶ月で150回という、「走穴」最多記録をうちたて、また、ただ「走穴」に呼ばれるだけでなく、仲介役の「走頭」を通さない方が確実に実入りが多いとわかるや、自分で売り込むようになり、さらに、他の俳優たちに斡旋するブローカー役も自らこなすようになるまで、それほど時間はいらなかった。

 返還前の香港の「太太団(タイタイトウワン)」(香港屈指の富豪を夫に持ち、贅沢の限りを尽くし、株や不動産投資などのマネーゲームに興ずる有閑マダムたちの集まり)と知り合うようになり、劉暁慶は不動産売買に手を染めた。
 いよいよ本格的な「下海経商(シアハイチンシャン)」(本職を離れて商売をすること)に乗り出し、様々な手口で荒稼ぎするようになる。

 劉暁慶は、93年に江蘇省前八段村の農民たちに「劉暁慶ブランド」の化粧品生産をもちかけ、工場建設資金として40万元を借り入れる。

 近在の農民4000人が、完成した工場で、農作業も放り出して化粧品生産に従事した。約25万瓶の化粧品を納品した農民たちは、約束された54万元強の報酬を心待ちにしていた。しかし、報酬どころか、40万元の返済すらなされなかった。
 農民たちは法的手段に訴え、96年に全面的に勝訴した。
 農民たちは「共産党万歳、法律万歳」と歓喜したが、彼女は劉暁慶化粧品有限公司の名義を変更し、当初から別の人物が代表者であったように書類を偽造。

 (この辺の理屈が理解できないのだが)もはや自分とは無関係だからと言って、差し押さえ物件の封印を破棄、大量の化粧品などを全て、処分、隠匿してしまい、98年には「劉暁慶化粧品有限公司には強制執行すべき財産はない」という驚くべき決定を得たのであった。

 また、94年には四川省の貿易を担当する四川成都進出口公司に松茸輸出の話をもちかけ、買い付け資金として50万元を前払いさせる。
 ところが、納品期限を過ぎても劉暁慶からの連絡はない。松茸は一本も準備されていないことを知った公司は当然前払い金の返還を要求するが、彼女はそれを無視。
 公司が訴訟し、財産を差し押さえた。

 これも無視しようとした劉暁慶だったが、弁護士の必死の説得により、所有する不動産の中から二束三文のものを申し訳程度に提供。ところが、大スターの所有していたマンションだから、ということでファンの人気を呼び値が吊り上がった。
 蓋を開けてみたら、99年に強制執行、競売を実行されたというのに、債務を弁済して、さらに91万元儲かるという結果となった。

 彼女は、米経済誌「フォーブス」による99年「中国の億万長者ベスト50」に、女性としては唯一ランクインした。
 しかし、これに掲載された50人のうち、まともに納税しているのがわずか4人だけということが判明し、貧富の差の拡大や実態に伴わない深刻な税収不足に頭を抱えていた当時の朱鎔基首相の怒りに火がついた。

 劉暁慶のランクは45位だが、国内外の知名度は飛び抜けていた。
 2002年7月、彼女は脱税容疑により逮捕された。
 翌日、中国の国営通信社(新華社)は、この逮捕を大々的に報じた。事件そのものが国民に知らされない方が多い中国で、このようにリアルタイムで報道されるのは例外中の例外である。
 その意図は、劉暁慶逮捕報道からわずか2か月ほどで総額151億元もの「駆け込み納税現象」が起こったという事実を見れば明らかであろう。

 彼女は金に対する欲望がむき出しで、きわめて悪質だが、決して巧妙ではない。
 最初から全く契約を守る気がなく、稚拙なほどめちゃくちゃなやり口。その要因を考えるうえで、一番興味深いのはやはり、彼女の子供時代から下積みの頃の話である。

 劉暁慶は、1951年、四川省に生まれる。母親は彼女を妊娠中に離婚した。こうした精神的ストレス、貧困による栄養失調などが原因か、彼女は未熟児で生まれ、肌は浅黒く、「黄毛(ホワンマオ)」と呼ばれる赤茶けた髪の毛で、毛の量も極端に少なかったそうだ。

 彼女には守ってくれる父親も、周りから愛される健康的な体格も、黒々とした髪の毛もなかった。

 「醜小鴨(チョウシャオヤ)」(醜いアヒルの子)と呼ばれ、周囲から蔑まれた。いじめ、逆境に歯をくいしばって耐えるうちに「人所具有(レンスオチュイヨウ)我都具有(ウオドウユイヨウ)」(人の持っているものは全て手に入れる。人の持っていないものも、私は手に入れてみせる)という強烈な性格が育まれた。

 彼女は成長して後、下放先から人民解放軍に入れてもらえるよう、密かに宿舎を脱走し、軍の責任者に直訴し、目の前で歌や踊り、「揚琴」などを必死に実演してみせて、71年に正式入隊を勝ち取る。
 その後、映画女優として有利な北京に戸籍を移すため、79年に王立(ワン・リ)という人物と結婚する。正式な離婚は82年だが、実質的な結婚生活はわずかに4日間だったそうだ。

 その後、香港の映画監督李翰祥(リ・ハンシャン)により西太后役に抜擢され、世界的に有名になったのは前述のとおりだ。

 どうだろう。子どもの頃のエピソードなどをみれば、唇をかみしめている幼い劉暁慶の顔が目に浮かぶようである。
 また、チャンスをつかむためには一か八かの大博打にも出るし、人を利用し、用済みになれば切り捨てることにもためらいがない。

 本書に「スクリーンの西太后は、劉暁慶が演じているという違和感を感じさせなかった。
〜劉暁慶の中に宿っている『西太后的なもの』が、劉暁慶を西太后役に同化させた」とあるが、まさに、彼女は西太后を現代に具現化したような人生を送ったといえるのではないだろうか。

★★★

 


(265) 『プロレス 至近距離の真実』 (著:ミスター高橋。講談社+α文庫)

 「文庫版まえがき」には「『流血』は、読者に与えるインパクトがあまりにも大きかった。
〜これ(本書)はまだ私が新日本プロレスに在籍していた時期に書いたものなので、ぎりぎりの部分で一線を守って書いたのは確かだ。しかし、そのぶん私のプロレスに対する愛情は伝わりやすいと思う」とある。

 確かに、悪役レスラーの思わぬ一面などが紹介されていて、本書はプロレス版「ちょっといい話」という感じだ。

 ホーガンvs猪木の「舌べろり」事件で坂口は一番猪木を心配していたが、翌日坂口が「人間不信」と大書した紙を置いて、しばらく失踪した。
 本書は、「『人間不信』・・・私は、そのひとことで、すべての意味がわかった気がした。だが、その意味だけはここに書くことができない」とある。

 また、猪木がアンドレをギブアップさせた試合で、試合後「『高橋、ありがとう』と猪木さんが右手を差し出してきた。
〜私は、このときにやっと本当の喜びと安堵感に包まれた。それは〜マッチメイカーとしての喜びだった」とある。

 「その意味」とは何か、「マッチメイカーとしての喜び」とは何か、ということは『流血の魔術 最強の演技』に書かれている。

 また、私が『流血』で想起したスティーブ・ウィリアムス事件だが、本書には
 「私がカウント2を数えても、猪木さんが跳ね返す気配がない。
〜カウント5は十分に数えられるほどの間をおいて、ようやく猪木さんがウィリアムスの巨体の下から肩を上げた。場内がシラケたのはいうまでもない」とある。
 本書が書かれた時点では自分を悪者にするしかなかったのか。


★★☆


 

(266) 『魯山人陶説』 (著:北大路魯山人・編:平野雅章。中公文庫)

 魯山人がやきものについて縦横に語る。

 「いかに美しい釉薬が塗布されても、いかに力ある模様が付されても、土の仕事が不充分では面白くない」

 「先ず、胎土の仕事から、最後の焼き上げを了えて完器となるまでの仕事
〜それまでを一人で成し果たすのでなくば、これを自作とは言い難い」
 この辺は、そうかな、と思う。

 魯山人は断言する。

「伊万里、有田なるものは〜深みのない、味のない、余韻のない、干からびたものにしか過ぎない。
〜それと反対に九谷となると、初めからガアーンと芸術的に吾人の眼に迫って来る」

「慶長以前を可とし、以後を無価値とし〜慶長以後に見られる貧弱な美的価値と、それ以前の作と見られる思想的高踏なる芸術陶器の両面がある」

「日本のものは瓦一つにも頭の下がるものがあるが、中国には心から頭の下がるものはない」 

 この辺は、何でここまで断言できるのかと思う。よくわかんないが、承服し難い。


★★☆


 今月も、まずまず充実していたかな?