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『夏姫春秋』
たしか、私が初めて宮城谷氏の作品を手にしたのがこの作品でした。
今あらためて読み返してみると歴史上の逸話が豊富すぎて、とりあえずそれを整理してから「名せりふ」に移ろうと思いました。
ページ数は、講談社文庫上・下巻によっています。
夏姫(かき)は、鄭の公女(君主蘭の娘)。子夷は兄。
ところが子夷は、10歳を過ぎたばかりの妹の寝所に忍んできたのです。
そうした兄妹の不倫をかぎつけたのが公族出の大臣子宋。彼もまた夏姫に通じます。
そして、子宋は「卿も食されよ」と首相の子家に勧めます。
良からぬ評判が広まるのを嫌った蘭は、夏姫を陳の御叔(公族少西氏の当主子夏の息子)に嫁がせます。
夏姫は、長男徴舒を産みますが、御叔は痩せ衰えて死んでしまいます。
夫を失い、続いて兄の子夷も子宋、子家の手にかかって命を落とします。(鄭の霊公の暗殺はBC605年のこと。そのいきさつについては、ギネスブック「食い物の怨み」をご参照下さい)
後ろ盾を失った夏姫は、息子や家宰の苦境を救うため大臣の儀行父と孔寧に身を任せます。
さらに、夏姫は陳公平国の側室となり、あたかも君主とその寵臣計三名の共有物のようになりました。
ある日徴舒は、三人のきわどい冗談を漏れ聞いてしまい、屈辱に耐えかね陳公を殺してしまいました。(BC599年。この辺のやり取りについては、ギネスブック「傾国の美女」をご参照願います)
大臣二名は、楚に亡命します。当時の楚王は、「鳴かず飛ばず」などの逸話で有名な壮王(カルトクイズ「故事成語」をご参照下さい)
です。
壮王は、陳を攻め併合してしまいました。息子(徴舒)は車裂きで殺され(BC598年)、夏姫自身も捕われます。
そして、楚の賢臣巫臣(ふしん)と運命的な出会いをします。
巫臣は、祝官女巫を掌管し「神と対話できる」者として、王から要事を諮問される要職にありました。
巫臣は、「夏姫を幸せにできる男は、この世で、自分しかいない」という思いから、楚王が夏姫を後宮に入れようとしたとき「凶でございます」ととどめ、公子子反にも半ばおどかしであきらめさせました。
しかし、王の「夏姫を襄老に与える」の決定はどうすることもできませんでした。襄老は連尹(れんいん。弓矢の管理職)で、正室を喪った老人です。
不思議な運命は続きました。
襄老は、楚と晋との大会戦(BC597年)の中で敵将の矢に射られ、遺骸は敵軍に連れ去られました。襄老の子、黒要は家督を相続するとともに、夏姫も自分のものにしてしまったのです。
巫臣はじっと機会を待っていました。
まず、夏姫を鄭に出国(BC591年)させました。襄老の遺骸を返還するという申し出があったのです。
そして、巫臣は斉への外交使節を依頼された際に、鄭で彼女と合流しました。巫臣と夏姫は、鄭、斉を経て晋に亡命(BC589年)します。
裏切りに激怒した子反は、楚に残された巫臣の臣下や、黒要を腹いせで殺しました。
巫臣は、晋で与えられた辺境の邑を再興し、外交手段により子反らへの復讐も果たし、夏姫と幸せに暮らしたとのことです。
(No1)
「責任とは、べつのことばでいえば、寛恕と決断です」
「おもいやりと決めることか」
「要は、自分が生き、他人が生きていることを、べつべつに考えないことです」
→下巻P34
☆ひとこと☆
子南(夏姫の息子徴舒)が家臣の季暢(きちょう)に諭されています。
子南は悩んでいます。母が君主や権臣の慰み者になることで出世したのです。女嫌いになってしまった子南が、幼馴染でもある季暢に「娶ると、何か、ちがうか」と尋ね、「変わったとすれば、自覚の在り方でしょう。家族が大きくなれば、それだけ責任が重くなります」と答えたのに続くせりふです。
(No2)
それ曲木を樹(う)うる者は、いずくんぞ直景を得ん。
→下巻P47
☆ひとこと☆
曲がった木を植えて、まっすぐな影が映るはずがない。君主が曲がれば、民も曲がる、という意味です。
ある日、陳公、儀行父、孔寧は、朝廷の場でお互いに顔を見合わせ、にやにやしていました。なんと、三人は衣の下に着込んだ夏姫の肌着を、得意げに見せ合っていたのです。
たまりかねた大臣の洩冶(せつや)の諌言が、上記のせりふでしたが、洩冶は、恥をかかされたと怨んだ儀行父と孔寧に惨殺されました。BC600年のことでした。
(No3)
「爵位の高い者は、人から妬まれる。官職の大きい者は、君主から憎まれる。禄の高い者は、人から怨まれる」
「わたしは爵位が高くなればなるほど、人にへりくだり、官職が大きくなればなるほど、細心になり、禄が高くなればなるほど、人に恵みをほどこしましょう」
→下巻P155
☆ひとこと☆
「三怨ということをご存じかな」と問う狐丘丈人という長老に、楚の宰相孫叔敖が応えたせりふです。孫叔敖は、陰徳の人として有名です。
(No4)
手の高さは、人格の高さそのものだな。
→下巻P229
☆ひとこと☆
巫臣は楚の壮王の手を見ながら、つくづくそう感じた、とあります。
頭上にふりあげる手は、人を撃たんとする手で、活発ではあっても知恵の不足を感じさせる。
目の高さにある手は、人を強引に動かそうとする手である。
腰より下に垂れる手は、世故にたけてはいるが、いかにも卑しく、人気(じんき)を喪ってゆく手である。
楚が真冬に蕭という国を攻めたとき、巫臣は兵士が凍死しそうであることを王の耳に入れました。
すると、王は営中を出て、兵士の背に手を置き、ことばをかけたそうです。その手の感触は「まるで綿入れを着せてもらったようだ」と兵士たちは感奮し、ついに勝利をつかんだとのこと。
一方、王は子舟という臣下に斉への使いを命じたとき、宋を通っていけと指示しました。子舟は、酷薄であった先王(穆王)にしたがって二十二年前に宋を攻めたおり、宋公(昭公)を辱め宋人の怨みをかっています。壮王は、宋を攻める口実のため、あえて殺されてこいと命じたのです。
兵士をはげます手は王者の手といってもよいが、子舟に死を命じた手は覇者のそれであったのでしょう。
(No5)
「君主の義は、二つの信を求めず、臣下の信は、二つの君命を仰がぬものです。君命をうけて国を出たからには、たとえ殺されても、君命を棄てるものではありませんのに、賄賂ごときで、そういたしましょうや」
→下巻P233
☆ひとこと☆
No4で取り上げたとおり、宋へ入った子舟は、はたして殺されました。BC595年、楚は宋の首都(商丘)を包囲します。宋は、晋に援軍を要請します。
ところが、晋は楚に大敗を喫したばかりなので、援軍は出せないという慎重論を採りました。
しかし、全く黙殺するのも信義に反する、ということで勇者を派遣し、晋が来るまで降伏するなと励ますことにしたのです。姑息な手段ですが、ほかに打つ手はなかったのでした。
その使者に志願したのが解揚。
が、彼は不運にも捕えられ、楚王の前に引き出されました。楚王は強迫するどころか賓客のように扱い、ついに「晋の援軍は来ない」と宋の城内に呼びかけることを承諾させました。
彼は楼車(物見やぐらのついた車)の上から大声を発しました。
「晋の援軍は、まもなく、到着しますぞ!!」
歓声の湧き上がる宋城。直ちにやぐらから引きずりおろされ、剣を抜いた楚王の前にすえられた解揚がいささかも臆さず口にしたのがこのせりふです。
「晋公はすぐれた臣をお持ちだ」そういって自ら彼の縄を切った楚王も素晴らしいですね。
(No6)
ことばを信じあうということは、たがいの沈黙を信ずるということでもあった。
→下巻P262
☆ひとこと☆
何年先になるかわかりませんが、あなたを救うために使いを出します。巫臣は夏姫にそういいました。
しかし、その年も、また次の年も使者は来ませんでした。
どれほど、巫臣の真意を問いただしたいとおもったかしれません。でも、そのたびに夏姫はことばを呑み込み、黙って待つのでした。
話は変わりますが、ことばを信じることが沈黙を信ずるということでもあるように、文章を読むということは行間や、そのかげに隠された文字を読むということでもあると思います。
私のような冗長きわまる文章でも多少の文字は削っています。ましてやプロであれば、一つの文章を世に出すまでに、それに数倍する、どれほどの文字を削り落としていることでしょう。
(No7)
策とは、他人のために用いるのであって、自分のために用いると、狂いが生ずる。
→下巻P267
☆ひとこと☆
巫臣は、夏姫を出国させるためには、その外交手腕や縁故(鄭公子堅は夏姫の異母兄)をフルに活用しました。
しかし、自分が出国するには、あくまで自然体で策を弄さず、時が熟するのを待ちました。壮王の死後、宰相子重から、斉へ共同作戦の出兵期日の通告に行ってくれと頼まれたのです。
この言葉、「人事(じんじ)は人事(ひとごと。他人事)」という言葉に通じますね。
(余談)
著者があとがきで書いているように、日本にもNo5とそっくりの話があります。
津本陽氏の『武田信玄』(講談社文庫下巻P95〜)を読んでみました。
武田勝頼は奥平信昌が守る長篠城を猛攻し、城内にはわずか数日の兵糧を残すのみの状態になりました。
そこで、信昌の家来鳥居強右衛門(すねえもん)が重囲を突破し、織田信長に援軍を乞うことに成功しました。
「信昌はきっと助けてとらす。城に戻るには及ばぬ」という信長の言葉を振り切り、強右衛門は長篠に戻り、不運にも武田方に捕えられました。
勝頼は強右衛門に奉公をすすめ、武田信廉は「信長は後詰をいたさぬゆえ城を明渡せと申すがよい」と要請しました。
そして、強右衛門が大音声で呼ばわった内容は、皆さんのご想像のとおりです。同書には、武田勝頼は「強右衛門こそ武夫の亀鑑」として助命しようとしたが、憤激した家来たちが磔にかけたとあります。
宮城谷氏のあとがきでは(武田家は戦国大名のなかでも中国の古典に造詣が深かったから)
「勝頼は、解揚について知りながら、壮王のようにできなかった。
もしも勝頼が強右衛門をゆるしていたら、そこになんとすがすがしい時間とイメージが誕生していたことかとおもうと、これはもう勝頼や武田家だけに責任をおしつけるよりも、民族のちがいをみるほかないのだろうかと、暗い気持ちにさせられる。
日本人はゆるすということが苦手な国民なのかもしれない」と嘆いています。 惜しいところまでは行ってたのにな、と感じました。
もっとも、同じ津本氏の作品でも、信長側から描いた『下天は夢か』(講談社文庫。第四巻P46)では、大久保彦左衛門の『三河物語』に拠ったのか、強右衛門は最初から磔にかけられており、「信長公、家康公はニ、三日中に着陣されるので、堅固に城を守れ」と叫んだとたん、長槍で体を刺し貫かれたとあります。
やはり、日本人は「忘れないがゆるす」人種ではなく、「ゆるさないが忘れる」人種なのでしょうか。
さて、この強右衛門の逸話、ほかにも中国史で似たような話がありますね。貝塚茂樹氏の『孔子』(岩波新書)P55を見てみましょう。
BC556年、魯が斉に侵攻された際、孔子の父叔梁こつ(糸+乞)は、斉に囲まれた防城から臧家の当主を奉じて夜陰にまぎれて斉軍の囲みを破り、当主を魯の援軍に届けるや、また敵陣を突破して落城に瀕している防城にひき帰した・・・とあります。すごいおやじさんですね。
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