移動メニューにジャンプ

『重耳』(ちょうじ)

 重耳は、後の晋の文公。献公の次男です。長男が申生、三男が夷吾
 献公は、驪姫という女性を寵愛し、その子奚斉を立てようとしたため、太子申生は自殺し、重耳と夷吾は、他国へ出奔します。
 そのとき、重耳は既に43歳。放浪は19年の長きにわたりました。

 ページ数は、講談社文庫のものです。


(No1)
「天に時あり、地に財あり。その二つを、人とともに有することを仁といいます」
→上巻P205

☆ひとこと☆
 重耳の師、郭偃(かくえん)の言葉。
「どうして人は、人に集まり、人から離れてしまうのか。いや・・・、逆に、どうしたら人の心を攬(と)ることができるのか」と、若き重耳が問いました。
 それと同じことを周の文王が問い、太公望が答えました、と前置きしたうえで、
「天下というものは、一人の天下ではなく、天下の天下というべきです。天下の利を同じくする者が天下を得る」に答えたのに続くのが、この言葉。

 私が興味を覚えたのは、この言葉そのものより、むしろ、重耳の反応の方です。
 宮城谷氏は、こう表現しています。

重耳は足をとめ、
「むずかしい」
と、照れたようにいった。しかし顔をあげて、
「おこなうことが、どんなにむずかしくても、いまは郭偃のことばをおぼえ、くりかえして自分でいってみよう。そのうち身につくだろう」

 なんとも、素直で質朴な態度ではありませんか。


(No2)
 もっといえば、重耳の波瀾の一生をながめわたしてみると、かれは智よりも情にまさった性向をもち、かれを動かしている原理のひとつは、情誼(じょうぎ)というものであり、べつのことばでいえば、侠気(きょうき)であり、重耳はとりすました君子面のできぬ人であるだけに、胸と腹で人心を攬(と)るという型の主君で、その点、重耳の臣下はふつうの利害を超えたところで重耳を慕い、この主従関係が他の公子のそれより紐帯(ちゅうたい)が固いのも、そういう理由による。
→上巻P289

☆ひとこと☆
 おっと、これはまた、ずいぶんと長たらしい文章ですねえ。
 言いたいことを一息に言ってしまいたいという、急き立てられるような熱い思いを感じます。
 こうしたことが、後の長き放浪を主従が耐え抜けた所以(ゆえん)なのでしょう。


(No3)
 幼少にして警抜な言を吐くのは、しょせん、人に仕える者の賢さにすぎぬ。
→中巻P37

☆ひとこと☆
 これは、狐突(ことつ。重耳の重臣となる狐偃(こえん)の父)が、夷吾に対して抱いた印象です。
 夷吾に誠実さというものがあるか、ないかは、後に明確となります。

 すなわち、夷吾は、領土割譲を条件に秦の(ぼく)より兵を借り、即位して晋の恵公となります。
 BC645年のことです。
 ところが、土地が惜しくなり、約束を反故に。
 また、自分を擁立した功労者の里克(りこく)を殺します。
 さらに、晋が凶作だった時に食料援助をしてくれた秦が飢饉に見舞われたとき、恩を返すどころか、食料の代わりに兵を送ったのです


(No4)
 けがれのないまっすぐな意志というものは、けっきょくいかなる困難をも突き破ってしまうものだということを、狐突は齢(とし)をかさねて、世故にたけて、かえって実感している。
→中巻P158

☆ひとこと☆
 ある日、重耳は、単身狐突の屋敷を訪れました。
 その子である狐偃は重耳の臣ですが、狐突は兄申生の師です。特に親しいわけではありません。
 婦を狐偃の家から迎えたいときりだした重耳に、狐突は「婦ではなく、妾ですな」と念をおします。

 臣下の娘を正婦に迎えるという話など、献公の怒りをかうだけである。私に遠慮して「婦」という必要などないのですよ、とさとしたのです。
 ところが、重耳には、父と相談し、どこか有力な氏族の娘を娶(めと)る方が世継ぎの地位を得るうえでは有利・・・、などという打算はありませんでした。
 狐突の実感通り、献公はこの結婚を許しました。


(No5)
 古来、やってはいけないことが三つあるといわれる。禍(わざわ)いをたくらんではならない。乱につけこむことをしてはならない。人の怒りを増大させてはならない。
→下巻P104

☆ひとこと☆
 これは、秦の重臣公孫枝が、穆公に対し、夷吾の措置について述べた言葉です。
 No3でも述べた通り、夷吾は背信、違約を繰り返し、ついに秦と交戦し、捕らえられます。
 恨みは骨髄に達しています。
 しかし、夷吾を殺し、晋を攻めることは、その三つの禁戒のすべてにふれるとして、公孫枝は、太子(ぎょ)を人質にとって、晋公は帰国させましょうと提案したのです。


(No6)
「人になにかをしてもらいたいと思えば、こちらからなにかをしてあげる。人に愛されたいのなら、こちらから愛する。人を従わせたいのなら、まず、人に従ってみる。人に徳をほどこさないで、人を用いようとするのは、罪悪です」
→下巻P244

☆ひとこと☆
 これは、重耳の重臣趙衰(ちょうし)の言葉。

 夷吾の病状が篤くなり、秦の人質になっていた太子の圉(ぎょ)が晋へ逃亡しました。
 その頃重耳は、楚の成王の厚遇を受けていました。
 秦の謀臣公孫枝(夷吾を殺さず、圉を人質とすることを提言した人物)は、「圉では晋は乱れる。これに乗じて晋を奪えば楚が喜ぶ」と、一見矛盾したことを言います。
 つまり、いま、目先の利につられて非道にも晋を奪えば、楚は重耳を擁して秦の罪をとがめに進攻してくる。
 そうなると、大義名分は楚にあり、秦は非難の中で孤立するというのです。

 一転して、重耳一行は秦に迎えられました。
 到着と同時に、穆公の娘五人が侍女として送られてきました。
 帰国して即位するため助力してやる。お互いの関係を深めるため、娘のいずれかと結婚せよという無言の圧力であります。
 重耳を悩ませたのは、穆公が最も夫人とさせたいと思っている懐贏(かいえい)が、圉の妻であったことでした。

 重耳は、正式な結婚はしていなかったとは言え、甥の妻であった女を抱き取ることに嫌悪をおぼえ、重臣たちに相談しました。
 胥臣は、重耳と圉は、近親のようであるが、進む道においては赤の他人である。娶(めと)っても差し支えないという意見でした。
 狐偃は、晋を奪おうという時に、妻ごときでためらってどうしますか。秦王の命ずることに従うべきですという、きわめて現実的、実利的な意見でした。

 前置きが大変長くなりましたが、それに続くのが、この趙衰の言葉であり、このおだやかなことばが、ようやく重耳の心に染み、結婚を受諾したとされています。

 なお、『史記』「晋世家」では、
「司空季子曰く、『其の国すら且(か)つ伐(う)つ、況(いわ)んや其の故(もと)の妻をや。且(しばら)く受け、以って秦の親(しん)を結びて入らんことを求めよ。子、小礼に拘(かか)わりて大醜を忘るるか』と」
となっており、朝日新聞社の中国古典選18『史記』(一)では、司空季子とは胥臣とあります。
 なんだ、宮城谷氏は間違ってるじゃないか・・・と思ったのも束の間、『春秋左氏伝』の作者といわれる左丘明の著書『国語』「晋語」には、上記のとおり臣下三人の意見として出ているようです。


(No7)
「君にお仕えして二心がないのを臣といい、好悪を変えないのを君といいます」
→下巻P284

☆ひとこと☆
 重耳は、晋に戻り、圉を伐ちました。
 恵公(夷吾)に重用された「(げき)ぜい」と呂甥(りょせい)は、かねてより重耳を暗殺しようとつけねらっていた「勃(ぼっ)てい」(又は「履(り)てい」。通称として閹楚(えんそ)ともいう)を使い、なおも重耳の命をねらいます。
 何と閹楚は、正面から重耳に面会を求めます。
 かつての所業をなじる重耳に、閹楚が涼しげに返したことばが、上記のものです。

 かつて重耳の命をねらったのは、主君たる献公(重耳の父)、恵公(弟)の命令に従ったまでで臣としては当然である。
 かつて、管仲は、斉の公子糾の臣として、糾の弟小白を暗殺しようとした。
 しかし、小白は即位後、過去のいきさつは水に流し、その能力を評価して管仲を大臣として用い、そのおかげで斉の桓公として諸侯に覇をとなえたのである。
 恨みつらみを残して、それで人の評価を変えるようでは君主たるものの度量といえようか。
 そう反論し、そのうえであらためて、重耳に暗殺計画を告げます。

 似たような感じの言葉に「盗跖(とうせき)の狗(いぬ)」があります。詳しくは、「カルトクイズ」の「故事成語動物クイズ」のコーナーをご参照ください。
 どちらも、過去と現在の言動の違いを正当化しようとする言葉ですが、比べてみるとずいぶん論の調子(高低)が違うものだな、と思います。