移動メニューにジャンプ

(No13) 中国古代文明Part2 夏墟は、いずこに


1.夏王朝架空説から実在説へ

 皆さんご存知のとおり、司馬遷『史記』は「五帝本紀」にはじまります。(「三皇本紀」は、唐代の司馬貞が加筆したもの)

 五帝は、黄帝軒轅(けんえん)をはじめとして、孫の帝顓頊(せんぎょく)、曾孫の帝(こく)、玄孫(やしゃご。曾孫の子)である帝(ぎょう)、尭から禅譲された帝(しゅん)と続きます。

 そして、帝舜から禅譲を受けた帝(う)が興した王朝とされるのが、夏王朝です。
 『史記』「夏本紀」、「殷本紀」、「周本紀」では、夏の桀王を湯王が討って殷王朝を興し、さらに殷の紂王を武王が討って周王朝を興したとあります。

 孔子が編纂したといわれている『書経』(別名『尚書』)の中に、「尭典」、「舜典」、「禹貢」編などがあります。しかしながら、『尚書』の中に、後世の儒学者の創作が含まれていると考えられるようになって、尭、舜、禹は伝説の存在であり、夏王朝はおろか、殷王朝もその実在を疑問視されるようになりました。

 ところが、1899年の甲骨文の発見に続き、1928年以降の殷墟(図中1)の発掘、そして卜辞の研究などにより殷王朝の実在は証明されたのです。
 となると当然、その前の夏王朝は実在したのか?という点が気になるところです。そして、それを証明する決定的証拠、殷墟に匹敵する夏墟のようなものはあるのでしょうか?
 最近の学説として、鳥越憲三郎氏の『古代中国と倭族』(中公新書。2000年1月発行)、堀敏一氏の『中国通史』(講談社学術文庫。2000年6月発行)、『中国文明の歴史1』(中公文庫。2001年1月発行)の巻末解説(岡村秀典氏)の記述を参考にしてみます。
  古代中国と倭族 中国通史 中国文明の歴史1
夏墟  孟荘遺跡(河南省輝県市孟荘鎮。図中2)が夏の王都。
 龍山文化後期〜二里頭文化早期。16万平米
    
偃師城跡   殷初代湯王が、王都「南亳(はく)」(河南省商丘市)に対する副都「西亳」として、夏の本拠地に築く。
 BC1590〜1300年で、殷王朝の草創期(3600年前)と符合。
 二里頭文化(図中3)期。
204万平米
 二里頭文化(遺跡)は、全体が夏、全体が殷、前半が夏・後半が殷とする説がある。

 二里頭文化が夏だという説が多い。

 第3層の宮殿遺跡は、夏もしくは殷初の都と考えられている。
 二里頭遺跡(河南省偃師市)は、1957年に徐旭生らが発見。
 徐は二里頭文化を湯にはじまる殷前期(二里岡文化を仲丁にはじまる殷中期)と考えた。
 1983年、二里頭遺跡東6kmで二里岡文化に属する偃師商城が発見される。
 1997年、偃師商城の下層から、二里頭文化末期に遡る小城郭が発見される。
→二里頭から偃師商城への移動に夏から殷への王朝交替を想定。
 現在の考古学では、二里頭文化(遺跡)の前期を夏と見ている。
鄭州城跡  殷10代仲丁王が囂(ごう)(河南省鄭州市)に遷都。
 二里崗文化(図中4)期。
 二里崗文化(遺跡)が殷代前期に属することは異論がない。  鄭州二里岡文化が殷の文化であることはほぼまちがいがない。
殷墟  河南省安陽県小屯村。殷後期。19代盤庚が遷都。


 文字的資料の不足により、夏墟の決定打はまだかな?と思いますが、殷王朝に先立つ王朝は存在したのだろうと思います。やはり、二里頭文化前期がそうなのではないでしょうか。

 夏商周断代工程とその背景

 さて、中国では1995年より「夏商周断代工程」という国家的プロジェクトが進められています。なお、商とは殷の別名です。
 これは、歴史学はもとより天文学など様々な分野の専門家が共同して、夏・商(殷)・周三代の年代的枠組みを確定していこうというもの。
 もはや、考古学の進歩により夏王朝の実在自体は疑問の余地もない問題であって、さらに進んで「正確な年代を実証する段階」に来ていると判断されているようです。(なお、夏商周三代の成立は、それぞれBC2070年、1600年、1046年と結論付けた「年表」が報告された、と2000年11月の時事通信で報じられたようです。もう少し詳しい内容がわかれば、報告します)
 
 さらに、前述の「解説」には、『人民日報』2000年6月6日号で、龍山文化の山西省襄汾県陶寺遺跡で尭・舜時代の城郭が発見され、三皇五帝の実在も証明されるだろうと報じられたとありました。

 まったく、その勢いはとどまるところを知らないようですが、その裏にひそむものも見逃せない気がします。
 それは、例えば宮崎市定氏が『中国史』(岩波全書)で「中国の学界の傾向は、中国の歴史を非常に古くからはじまるものと考え〜伝説を考古学上の遺物の上に当てはめて解釈しようとする〜もしそれが国粋主義の立場からするものならば、これは用心して聞かなければならない」とし、貝塚茂樹氏が『中国の歴史』(岩波新書)で「革命後の中国民族の意識の高揚にともなって、民族文化遺産の尊重される時代になると、夏王朝を歴史的に実在した王朝として、考古学的にこれを確証しようという傾向」と指摘したものでしょう。

 両者の指摘は、四半世紀も前のものですが、2000年11月16日の朝日新聞でも、江沢民国家主席が97年の訪米の際に「悠久の中華文明は民族団結と国家統一を結びつけるきずなだ」として「中華民族の偉大な復興」を訴えて以来、神農架(図中イ)、黄帝陵(図中ア)、舜帝陵(図中ウ)など「三皇五帝」を祭る動きも活発化していると報じられています。

 自らの歴史を尊重するのは当然と思いますが、なぜ性急に年代まで確定しようとするのか疑問でした。それは、かつて世界に先駆けて冠たる文明を確立したことを「証明」することにより、傷ついた民族のプライドをいやし、台湾統一、少数民族問題、幹部の腐敗、社会主義の威信低下など多くの難題を抱える中で国民をまとめあげていくための道具として利用しようとする「国家施策」なのでしょうか。
 
「夏墟」編概略図

1:殷墟(安陽)
2:輝県(孟荘遺跡)
3:偃師(二里頭)
4:鄭州(二里崗)

ア:黄帝陵
イ:神農架
ウ:舜帝陵

A:洛陽
B:西安

「夏墟」編概略図


3.稲作の起源を求めて
4.資料編(各遺跡一覧表等)
・・・等については、次回以降で。