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(No14) 中国古代文明Part3 稲作の起源を求めて
1.畑作の起源
旧石器とは、単に石を打ち欠いただけのもの。新石器とは、打製石器に加工を加えた磨製石器をいい、旧石器時代は漁猟・採集で食料を得ていたが、新石器時代から牧畜や農業が始まる・・・というのがおおまかな流れです。
広大な中国は、なかなか一つのパターンでくくることができません。農業にしてもしかりであって、黄河流域を含む寒冷・乾燥の華北は粟・麦などの畑作が中心で、長江流域を含む温暖・湿潤の華南は稲作が中心です。
黄河中流域で、仰韶文化に先立つ約7500年前の磁山遺跡(河南省武安県)や約8000年前の裴李崗(はいりこう)遺跡(河南省新鄭県)において大量の粟が発見され、畑作による粟栽培がこの時代まで遡ることがわかりました。
また、黄河下流域でも、約8000〜8500年前の後李遺跡(山東省淄搏(しはく)市)や約7300年前の北辛遺跡(山東省滕(とう)県)で粟の畑作農耕が行われていたことが認められました。
粟の原生種は野生のエノコログサで、寒さと乾燥に強くなるよう畑作物の粟へ品種改良したのだといわれているそうです。エノコログサって、いわゆる「ネコジャラシ」ですよね。
2.稲作の起源
それでは稲作の起源はいつ、どこに求められるのでしょうか。
渡部忠世氏は、『稲の道』という著作で、野生稲の多いアッサム・雲南を稲作の起源地であると提唱し、一時はそれが定説化していたようです。
これは、中国奥地の雲南高原からインドのアッサム山地一帯をBC3000年頃からの栽培稲作の起源地とする見解です。ところが、稲作の起源は、それよりも遥かに古いということが、最近の考古学的調査によりわかってきました。
長江下流域の河姆渡遺跡(図中い)は、1977年に発見されました。その後の研究により、約7000年前の堆積層から大量の稲籾や米粒、骨角器による農耕具等が発見され、この時期に既に水稲農業が行われていたことが明らかになったのです。
1993年からの日中合同調査団の発掘調査で、約6000年前の草鞋山(そうあいざん)遺跡(江蘇省呉県。図中う)より、水田遺構が発見されました。
こうした一連の研究成果により、稲作の起源地は長江下流域であるとの説が提唱されるに至ったのです。
一方、長江中流域においては、彭頭山遺跡(湖南省澧(れい)県。図中A)で、1986年に、河姆渡遺跡よりも遥かに遡る約9000年前の稲籾が発見されました。
また、彭頭山遺跡の西方の城頭山古城遺跡から、約6500年前の水田遺構が発見されたのです。 さらに、1990年代に発掘された玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡(湖南省道県。図中2)と仙人洞・吊桶環(ちょうとうかん)遺跡(江西省万年県。図中1 )では、約1万年以上前にさかのぼる栽培稲の痕跡が出土しています。
長江下流域よりも中流域で発見された年代の方が古いため、現在では長江中流域起源説が有力です。
例えば、北京大学厳文明氏の学説は次のようなものです。
まず、BC1万数千年からBC7000年頃が「萌芽期」と呼ばれる起源段階で、前述の長江中流域の玉蟾岩遺跡、仙人洞・吊桶環遺跡がその代表です。
野生稲の栽培を試みていた段階ですが、旧石器晩期から新石器早期の時代であり、経済形態は漁猟と採集が中心です。未だ、稲作のための農耕具は存在していません。
その次が、BC7000〜5000年頃の新石器時代中期に属し、彭頭山遺跡を代表とする「耕前期」です。
新石器といっても、まだ本格的な農耕具は認められません。よって、この段階でも、野生稲の生育環境に類似した低湿地を見つけては、特に耕起等をせずに栽培し収穫するという状況にあったと想像されますが、稲籾や稲藁が壁土や土器の混合材として大量に用いられていることから、その規模は格段に飛躍したと考えられます。
また、この時期に稲作の痕跡が河南省の賈湖遺跡(裴李崗文化。図中B)や陝西省の李家村遺跡(老官台文化。図中C)で発見されるなど、稲作が寒冷な北方地域へ拡大し、黄河流域の粟作地帯まで食い込んだことがわかっています。
次に、BC5000〜3000年頃の新石器時代晩期に相当する「耜(し)耕期」です。
遺跡としても長江中流域の屈家嶺遺跡(図中あ)、下流域の河姆渡遺跡、馬家浜遺跡、ッ沢遺跡など各地で見られ、稲作地域が急速に拡大し、栽培技術や道具などに長足の進歩が遂げられたことがうかがわれます。
その代表的なものが、下流域の遺跡でよく見られる、牛などの大型草食動物の肩甲骨を整形加工した「骨耜」です。
先史時代の稲作農業が最初の全盛期を迎えたと考えられるのが、BC3000〜2000年頃に相当する「犂(れい)耕期」で、その象徴が長江下流域の良渚文化(図中ア)の地域です。
良渚文化の各遺跡でよく発見される三角形石犂は、泥水田を翻耕するのに有効な農具であって、湖沼と小川の多い長江下流域において犂耕が確立していたことを裏付けています。
この時期には、稲作の分布範囲は長江流域を挟む南北方向にいっそう拡張し、現在の中国稲作地帯の範囲にほぼ近づいたと考えられています。
なお、鳥越憲三郎氏は、『古代中国と倭族』の中で、長江流域は全体として野生稲の自生地であるから、稲作の起源地を1か所に限定する必要はなく、雲南を含め、各地で栽培化の試みがあったとも考えられると書かれています。
| 「稲作」編概略図
萌芽期
1:仙人洞・吊桶環
2:玉蟾岩
耕前期
A:彭頭山
B:裴李崗
C:老官台
耜耕期
あ:屈家嶺
い:河姆渡
う:草蛙山
犂耕期
ア:良渚
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