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豊臣秀吉・・私たち大阪の人間は、親しみを込めて「太閤さん」と呼ぶことが多いのですが、日本人、とりわけ大阪人の太閤びいきは根強いものがあります。
秀吉ときらわれ役の家康との関係は、ちょうど中国で大衆が「(講談で、三国志の)劉備が負けると涙を流し、曹操が負けると歓声をあげる」(蘇軾『志林』)を想起させます。
人気の理由は、いわゆる太閤立志伝というか、その出世物語のおもしろさ、憧れがまず挙げられるでしょう。
「太閤記」は、吉川英治氏の『新書太閤記』、司馬遼太郎氏の『新史太閤記』などを待つまでもなく、江戸時代(つまり、「徳川」時代!)から、元禄版太閤記など10冊以上のベストセラーを数えたそうです。
ところで、私たち大阪人にとっての人気の理由は、そもそも大都市大阪の生みの親だという恩人意識の要素も強いのではないでしょうか。
11年間にも及ぶ石山本願寺との戦いで、秀吉は大阪(当時は「大坂」)が要害の地であることを熟知していました。
明智光秀を破った山崎の合戦の直後に開かれた清洲会議でこそ、いったんこの地を池田恒興に譲ったものの、天正11(1583)年4月に柴田勝家を賤ケ岳に破って信長の後継者の地位を確立した後には誰はばかることなく、恒興を大垣に移し、満を持して大坂入りしました。
そして、同年9月1日を期して大規模な普請を開始したのです。
近世日本では、城造りと町造りは並行するのが通例です。
壮大な大坂城築城は、同時に、宣教師フロイスが「40日間で7千の家が建った」(耶蘇会『日本年報』)と記しているような急ピッチでかつ大規模な町造りでもあったのです。
この普請には当初2〜3万人、後には5万人もの人間が従事した、と同じフロイスの記録にあります。
当時、貿易都市として世界に鳴り響いた堺の総人口がせいぜい5万人程度であったことを思えば、そのスケールが想像できます。
大坂は、淀川・大和川から流入する土砂で形成されるデルタ地帯なので、土地が平坦、低湿で河川の流速も遅く、汚水・雨水の排除は古(いにしえ)からの大きな懸案でした。
そこで秀吉は、「堀川」と呼ばれる人工の運河を開削し、同時に、そこから出た土砂で土地の嵩上げを行い町屋の敷地としました。
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東西道路は「〜通り」と呼ばれ道幅4間3分(約7.7m)、南北道路は「〜筋」で幅3間3分(約6m)、街区(ブロック)は1辺42間(約76.4m)の正方形で、市中は碁盤目状に整然と区画されました。
東西路の方が広いのは、当時は城に向かう道がメインストリートだったからです。(注1)
当然建物は、メインである東西路に面して建てられることが多くなります。
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つまり、街区ブロックの北半分にある建物は、玄関は北向き、南半分にある建物ではその逆となり、街区の中心部分(北半分と南半分の境目)すなわち、それぞれの建物の背中(裏側)同士が接する部分に下水溝が東西方向に掘られました。
この下水溝のことを、建物の背中合わせの部分を割るように開削したことから「背割下水」、又は太閤秀吉にちなんで「太閤下水」と呼ぶのです。
太閤下水は幅1尺(約30.3cm)から4尺、大きなものでは1間(約1.8m)から2間に及ぶものまであり、工法はおおむね素掘りした後、間知石(けんちいし)とか栗石(ぐりいし)と呼ばれる石で護岸し、漆喰を施した開渠(注2)で、道路が横断する場所では石蓋が設けられました。
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各戸の生活排水は、家の裏手の太閤下水に流され、そこから東横堀川又は西横堀川に排水され、さらには大川へ放流されます。
いわば、太閤下水が現在の下水枝管、両横堀川が幹線下水道といえます。
道路と下水道を備えた町造りは、我が国の都市計画史上画期的なものと高く評価されています。
話は変わりますが、大阪市は平成6年の12月に近代的下水道事業着手100周年を迎えます。
これは、本市が明治27年に、当時のコレラ流行を契機に「中央部下水道改良事業」に着手したときから数えて100年ということです。
ところで、この改良事業というのが、実は、秀吉の造った太閤下水を明治になって改良した(下水が滞留しないよう、底を流れやすいU字溝とし、石蓋で暗渠化)というもの(注3)なのです。
本市は幸いにして現在、下水道(人口)普及率99.9%という世界のトップレベルの水準に達しています。
もちろん、そこには様々な要因がありますが、明治22年の市制発足当時、既に市内の下水溝の総延長が350kmに及んでいたということ、つまり全くのゼロではなく、秀吉の遺産を受け継ぐ形で近代的下水道事業をスタートできたことが大きな要因の一つであることは多くの人々が認めるところです。
太閤下水は、平成の今日でも市内で約40kmほど現役で活躍しており、見学施設もあります。(注4)
私たちは、このような歴史のある大阪で下水道行政に携わっていることを誇りに思っています。
しかし、この誇りは同時に責任でもあります。
私たちが次の世代に対して太閤下水のような先見的事業を残していけるか、それが常に問われているのだと考えています。
★ひとこと★
(注1)
この使い分けは、現在も南北が谷町「筋」、東西が中央大「通り」等と踏襲されています。
また、現在ではキタ(梅田)とミナミ(難波)に繁華街をかかえ、御堂筋など南北方向の道路がメインストリートになっています。
(注2)
一般の河川のように、上部が開放状態になっている溝のこと。
反対語は「暗渠」
(注3)
大坂冬の陣、夏の陣でいったん市街地は灰塵に帰したため、直接秀吉が造らせた太閤下水そのものを改造したわけではありません。
しかし、その後の大坂城代松平忠明も方針は踏襲しているので、この表現でも特に問題はないと思います。
(注4)
大阪市内の南大江小学校の地下に、最大級の太閤下水が、現在も公共下水道としてとうとうと下水を流している様を間近で見ることができる見学施設が設けてあります。
ただし、見学を希望される方は、予め(財)大阪市下水道技術協会(06−6615−6370)までお問い合わせください。
(管理上、普段は閉鎖されているため、連絡なしに行かれても見ることはできません)
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