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『蒼穹の昴』

 浅田次郎氏の『蒼穹の昴』(そうきゅうのすばる)を取り上げます。

 時代は清朝末期。
 梁文秀は、地方の富商の次男坊。親は放蕩息子の文秀をすっかり見放しており、謹厳な長男に全ての望みを託しています。
 李春雲は、路傍の牛馬の糞を拾って燃料として売り、母や妹の生計を支えている極貧の子で、文秀と仲良くしていました。
 ところが、不思議な占い師の老婆白太太が、文秀は科挙に合格して宰相に、また、春雲は、西太后の財宝をことごとく手中におさめると予言します。
 それから、ふたりをめぐる運命は、すさまじい勢いで移り変わっていきます・・・

 なお、ページ数は、講談社刊(上下巻)のものをあげています。


(No1)
「宇(ユイ)・宙(ジヨウ)!あたしのもの!ずうっと、ずうっと!」
 いま生れ落ちた赤児のように、小梅ははろばろと瞳をめぐらせた。
→下巻P88

☆ひとこと☆
 王逸は、李鴻章の幕僚で、梁文秀と同年の進士です。
 王逸は、李将軍の命を受け、梟雄袁世凱を暗殺しようとしましたが、失敗し捕らえられました。あとは、処刑を待つばかりです。

 王逸は、残されたわずかな時間の中で、耳の聞こえない世話係の少女小梅(シャオメイ)に文字を教えてやることにしました。「天」、「地」・・・意味も併せて説明します。しかし、世界が、泥濘と黄砂と氷とででき上がった不毛の大地だとしか知らない小梅には、豊穣で無限な「宇宙」の概念を理解することができません。

 しかし、次の日小梅は明るい顔で「先生・・我知道了(ウオチータオラ)。あたし、これ、わかったよ」といって、「宇宙」と書いてみせました。
「全部のことね。ずうっと、ずうっと」

 そして、彼女は、王逸に野良着を渡し、こっそり営倉の錠を解きました。 
「小梅、一緒に行こう。ここにいたら君は殺される」
 脱獄の手引きをしたら、家族皆殺しです。ひとりだけ逃げ出すわけにはいかないと首をふり、王逸を送り出すように叫んだのが、この言葉です。
 少女が命とひきかえたもの、それは何だったのでしょうか・・・


(No2)
「見ろよ。神様ってのは、こういうもんだ。決して拝んだり頼ったりするもんじゃねえ。いつも貧乏な人間のそばにいて、いてくれるだけで生きる望みをつないでくれる、ありがてえ、かわいいものだ」
→下巻P220

☆ひとこと☆
 意外なことですが、宦官が切り落とした自分の「ナニ」は「宝(パオ)」とか「宝貝(パオベイ)」などと呼ばれ、後々まで重要な意味を持つそうです。

 一つには、宦官になって階級があがるとき、上司に自分の「宝」を確認してもらわないと昇進は認められません。これを「験宝」といいます。
 もう一つは、死んだとき「宝」を棺の中におさめてもらわないと来世は雌の騾馬になると信じられていたのです。

 宦官といえば、私腹を肥やす金の亡者ばかり、といった印象を受けます。しかし、実態は刀子匠(タオヅチャン。ナニをちょん切る職人)への借金に一生苦しむ者が多かったようです。
 というのも、高い手術料が払えず「宝」を借金のカタに取られる者、また、ナニが必要になることを知らず返還を要求しなかった者(権利放棄とみなされ、刀子匠にナニを没収されます)などは、昇進の時や、危篤の際に刀子匠にあわてて「宝」を用立ててもらうよう頼み、莫大な金銭を要求されることになるからです。

 さて、春雲(愛称は春児)は極貧ゆえに刀子匠にも相手にされず、やむなく自分でちょん切って宦官となり、老祖宗(西太后)のお気に入りとなってどんどん出世していきました。
 彼の台頭に危機感を感じていた大総管(宦官のトップ)李蓮英は、宦官たちに、春雲を打ちすえれば銀十両、殺せば百両の褒美を取らせるぞと命令します。
 宦官たちは、金欲しさに争って春雲を殴ったでしょうか。

「百両が千両だってできるものか」
 春児は、何重もの人の輪に守られました。
「李老爺。わしら宦官は男の屑だが、人間の良心は持っとるよ。何から何まで、きんたまと一緒に切り落としちまったわけじゃねえんだ
「理屈を言うな。わしは太后宮の大総管だぞ」
「わしはあんたらの出世をかまどの陰からずっと見てきたけど、まいないは取る、暴力はふるう、上にはこびへつらって下の者にはいばり散らす。だが、この春児はシャオフオチー(見習)のころからずっと、そんなことはしたことねえもの」
「見ろよ。こいつは老祖宗に引き立てられたばかりじゃなく、みんなに推されて出世した初めての太監だ。なぜだかわかるか。春児はな、殴られっぱなしのわしらの、夢だったんだ」

 こうした声に続くのが、上に掲げたせりふです。
「春児を殺すならまずわしを殺せ」そんな合唱に、李蓮英はやむなく捨て台詞を残し、退散したのでした。


(No3)
「あなたのことを、一生愛し続けていいですか。死ぬまで、あなたのことを、今と同じように愛し続けていいですか」
 何という澄みきった声だろう。盗み見るような上目づかいの瞳は涙に潤んでいた。
→下巻P319 

☆ひとこと☆
 譚嗣同(たんしどう。「あざな」は復生)は、公羊学者康有為の弟子です。
彼の、玲玲(リンリン。春雲の妹で、文秀に養育されている)に対する愛の言葉です。

「ありがとう、復生さん。死ぬまで愛して下さいね」
「僕は、史了(注:文秀のこと)や康先生のようにできが良くないから、出世はできません。体が弱いから、野良仕事もできません。今のままで死ぬかもしれませんけど、それでもいいですか」
「いいですよ。私は今の復生さんが大好きですから」
 ありがとう、ありがとうと復生は何度も言った。言いながらまるで壊れた人形のようにがくがくと首を振り、涙をこぼすのだった。

 その夜・・・二人は小さな寝台で、番(つがい)の小鳥のように眠った、とあります。これだけでも、充分に感動的ですが、読み進んでいくと、このシーンが二重、三重の意味を持ってくるのです。


(No4)
「ありがとう、復生さん!ありがとう。私、ちゃんと見てます。ちゃんと、見てます!」
→下巻P346

☆ひとこと☆
 光緒帝が、康有為や文秀らと企てた西太后に対する革命、戊戌の政変は、袁世凱の裏切りによって潰えます。
 譚嗣同(復生)は、いわば、主犯格文秀の身代わりとなるような形で捕らえられます。街頭で公開処刑されようとする復生。

 半裸の体を後ろ手にくくられた復生は、玲玲の姿に気付きます。
 刑吏の刀が彼の頭上に振りかざされたとたん、水を打ったように静まりかえっていた群集は、天を揺るがすほどの雄叫びをあげました。亡霊が自分の体にとりつかないよう、できる限りの大声をあげるのです。

 玲玲は決して声を出さなかった。唇を噛みしめて、きっかりと復生を見つめた。
 一瞬、復生がいつもと同じやさしい表情をしたのを、玲玲は見た。たそがれの下宿の二階で、壊れた人形のようにがくがくと肯きながら、涙をこぼした復生の声が甦った。
 約束します、玲玲。僕は一生、死ぬまであなたを愛し続けます・・・・。

 復生は約束を守ってくれたのだと気付いたとき、玲玲が拳を胸の前で握りしめて叫んだのが、上に掲げたこの言葉です。

 その声が届いたのでしょうか。復生はにっこりと笑い、それから見果てぬ夢を見ようとするあの眩ゆげな瞳を、ゆっくりと青空に向けました・・・


(No5)
 僕らのなすべきことは、決して施しであってはならなかった。日照りの夏はともに涙を涸(か)らし、凍えた大地の上をともに転げ回ることこそ、彼らの中から選ばれた政治家の使命なのだということに、僕はついぞ気付かなかった。
→下巻P399

☆ひとこと☆
 これは、文秀が、日本へ逃亡する船の中で、君臣ではなく、同志として光緒帝にしたためた手紙の一節です。

 理想が潰え、自分のみ生き延び、文秀の心は荒れます。夫婦を偽装するため同行した玲玲に対して、酔っては奴隷のように暴力をふるうのです。

 文秀は、こう告白しています。

 拳をふるうことで僕はいよいよ激昂し、とうとう彼女の上に馬乗りになって、かたわらの大理石の壷を、その顔に打ち下ろそうとした。それでも彼女は、泣こうとも人を呼ぼうともせず、甘んじて僕の暴力を受けようとした。
 一瞬、覚悟を決めて僕を見上げた瞳の、何と悲しげであったことか。
 僕はそのとき、僕らの挫折の原因を知ったのだった。

 これに続くのが、上に掲げた文章です。

 この手紙を書きなぐった後、文秀はまた酒をあおり、眠ってしまいました。そして、夢うつつのままがむしゃらに女を抱きました。
・・・それは、玲玲だったのです。

「おまえはどうして、そんなにも悲しみをこらえるんだ」
「小さいとき、少爺(シャオイエ。男性の尊称)と約束しました」
「約束?」
「あの晩、少爺はずっと私を抱いて寝てくれたんだよ。玲玲、もう泣くなって。おまえが泣くと俺まで悲しくなるからって。あのとき、少爺と約束したんだよ。もう一生、泣きませんって」
「だから、ずっと泣かなかったのか」
「だって、少爺はとても悲しいでしょ。みんなだめになっちゃったから、悲しくって、怒鳴ったり暴れたりするんでしょ。私が泣いたら、少爺はもっともっと悲しくなるでしょ」
「お前の笑顔も辛かったよ」

 慄えを押しとどめるように乳房を抱きかかえながら、玲玲はようやく言った。
「がまんできないの。私、泣いてもいいですか。もう一生、これっきり泣かないって約束しますから、いっぺんだけ、泣いてもいいですか」
 答えられずに、文秀は背中の痣に手を置いた。
「ごめんなさい、復生さん。ごめんなさい!ごめんなさい!」
 文秀は寝台に残された処女の証しを、ぼんやりと見つめた。

文秀の瞼に譚嗣同の後ろ姿が甦りました。
 「復生だけは、四億の民衆の痛みを知っていた」と打ち伏した文秀の耳に、こんな声が聴こえました。

「難しく考えるな、史了。知恵も何もいらない。やさしさだけがあればいいんだ。大地も空も時間も、すべてを被い尽くすほどのやさしささえあれば・・・・」

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