移動メニューにジャンプ
それ行け!中華探偵団(1) 「宰相」とは?
ある日、というか2000年2月21日(月)、寝る前にメールと自分のサイトの掲示板のチェックでもしようか、と思った私は、初めて見る方のお名前にびっくりし、その内容にもう一度びっくりした。
その内容とは「突然ですが「宰相」、「吏部尚書」、「西安府知事」の説明と、日本で言うとどのような役職にあたるのか教えてください。今週末の舞台公演までに調べなくてはいけないのですが、普通の辞書には載っていませんし、どのような資料を見たら良いのかわかりません」というものだった。
なぜ、うちのようなマイナーサイトでお尋ねになったのだろう?それはまるでK−1のマイクベルナルドとジェロムレバンナの二人組みにからまれた女性が、たまたま通りかかったMr.オクレに助けを求めたようなものではないか。
しかし、そんなことは言っておれない。力の及ぶ限り調べてみようと決心するとともに、物知りの方ぞろいの「中国史ML」に質問メールを出したのであった。
とりあえず、持っている本で関係する単語を書き並べていくことにした。その中で何か見えてくるかもしれない。しかし、冗長ですな。上の「移動メニューにジャンプ」という所をクリックすれば、ページ下部へ飛べますので、いきなり結論から見たい人はそちらからどうぞ。
宰相
(1)古く中国で、天子を補佐して大政を総理する官。丞相。(2)参議の唐名。(3)総理大臣。首相←「広辞苑」
「官僚群の統率者を宰相と呼ぶ」←宮崎市定『中国史』(岩波書店)P108
(漢)
「哀帝が死去すると〜王莽がふたたび大司馬に就任し、さらに太傅を兼ね、また尚書を管領した。
〜王莽が国政を総覧することとなった。
〜元始4年(AD4)〜王莽には、〜宰衡の称号が与えられる。
〜これによって王莽は列侯・諸侯応よりも上の位に即くことになった。」←西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫)P384
(南朝)
「公の宰相である三公〜」←宮崎市定『中国史』(岩波書店)P253
(唐)
「唐の制度は中央政府に三省があり、その長官が宰相である。」←宮崎市定『大唐帝国』(河出文庫)P339
「中書省、門下省の長官たる中書令と侍中は宰相の職であり、次官たる〜宰相となるものが多かった」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P164
「唐の宰相は、数人からなっていた。中書令と侍中と左僕射、右僕射の6名〜中書令と侍中だけが真の宰相とみなされ〜」、
「漢代以来の宰相の任であった三師や三公は、唐ではまったく名目だけとなり〜」、「尚書令は、李世民以後は、ずっと空席〜」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P214
「玄宗〜翰林学士は〜天子に直属〜宰相に至る者さえ出る〜」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P222
「姚崇は〜武周時代(697年)に宰相に抜擢された。
〜左遷され〜兵部尚書となって宰相に返り咲き、ついで中書令に栄進した。」←布目・栗原『隋唐帝国』(講談社学術文庫)P146
「唐朝は、創業以来、辺境の将軍には忠義心の強い文官を起用し、〜功名をあげた者は宰相にも起用した。」←布目・栗原『隋唐帝国』(講談社学術文庫)P161
「最高政策の決定は宰相の合議でなされた。
中書・門下二省の長官である中書令と門下侍中(各二員)が正宰相で、尚書省の左・右僕射(また左・右丞相ともいう。各一員)は正宰相として加わっていた時期と、加わらない時期とがある。
このほかに、他の職事官に就任していて、参与朝政・同中書門下三品・同中書門下平章事などの名称を与えられて宰相待遇を受け、最高政策決定に参与する人がいた。」←布目・栗原『隋唐帝国』(講談社学術文庫)P192
「唐末以後には、唐制の中書・門下・尚書の三省は有名無実となって、中書門下省の長官である同中書門下平章事が宰相となった。
これが民政を司って、文官が任命された。」←周藤・中嶋『五代・宋』(講談社 中国の歴史5)P42
(宋)
「宋初の中央官制は、〜六部〜などの制度は、ただ官名だけを残していて〜。中書・門下・尚書の三省の名はあっても、各省に長官は置かれず、宰相の任にあたる二・三名の同中書門下平章事と、これを助ける参知政事(執政という)二名があって、これが民政の実際上の最高の職であった。」←周藤・中嶋『五代・宋』(講談社 中国の歴史5)P65
(北宋)「王安石が宰相〜」、「唐代に確立した六部の組織を復活した。六部の上に立つ宰相〜」←宮崎市定『中国史』(岩波書店)P350
(北宋:蔡京)「宰相の名前を変え、太師、太傅、太保を三公として真の宰相とし、〜副宰相とし〜」←宮崎市定『中国史』(岩波書店)P350
「翰林学士のポストが宰相に次ぐとみなされた宋代の通念〜」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P174
(北宋末)「徽宗の政和2(1112)年には、〜宰相は大宰兼門下侍郎・少宰兼中書侍郎となった」←周藤・中嶋『五代・宋』(講談社 中国の歴史5)P73
(南宋)「南宋のはじめの高宗・建炎3(1129)年には旧に復して、宰相は左僕射同平章事、右僕射同平章事〜となった。
その後、孝宗の乾道8(1172)年には、左僕射同平章事を左丞相、右僕射同平章事を右丞相とした。」←周藤・中嶋『五代・宋』(講談社 中国の歴史5)P73
(明)
「朱元璋が行った画期的改革に、秦、漢以来1000年にわたってつづけられてきた宰相政治の廃止がある。
宰相は、皇帝を補佐して大政を総理する官のことであるが、その官名は時代によってことなる。
明では丞相といい、宋国竜鳳朝廷以来のものである〜」←三田村泰助『明と清』(河出文庫)P42
「内閣をはじめた永楽帝のときには、〜閣臣の官階は正五品であり、〜六部の長官である尚書は正二品の高さで、閣臣との格差は大きかった。
〜宣宗朝になって、内閣が票擬を行うことにより、政治上の事実上の決裁権は内閣にうつったのである。
ここに変則的な宰相制が復活したといえよう。」←三田村泰助『明と清』(河出文庫)P104
「張居正は〜内閣が政務を総理することを意味し、内閣が六部の上に立つ丞相府にきりかえることであった。
まさしく太祖の宰相制度廃止以来のできごとである。」←三田村泰助『明と清』(河出文庫)P213
「天子の側近たる宰相の職が必要」、「仁宗が即位すると、〜大学士〜に任ぜられ〜公的の地位は甚だ低く〜六部の尚書には到底及びもつかなかった位階〜」、「英宗が〜内閣大学士が実際の宰相の任となった」、「大学士が〜六部尚書の上位に坐するようになったのは、〜嘉靖帝の時代から」←宮崎市定『中国史』(岩波書店)P466
「宣宗の死後、その子の英宗が九歳で即位し、〜内閣大学士の地位は六部の尚書をおさえて、宰相としての権威をそなえるようになった。」←愛宕・寺田『元・明』(講談社 中国の歴史6)P299
「道教に熱中する世宗は、1539年(嘉靖18)、〜隠居してしまった。
そして、宦官勢力の後退のあとを受けて、政治の実権は大学士厳嵩(げんすう)の握るところとなった。
〜内閣大学士が、名実ともに、宰相としての地位と権限をもつにいたった」←愛宕・寺田『元・明』(講談社 中国の歴史6)P342
「張居正は〜穆宗の即位とともに、大学士として内閣に起用されて(1567・隆慶元年)以来、1582年(万暦10)に在職のままなくなるまで、16年間宰相の地位にあった」←愛宕・寺田『元・明』(講談社 中国の歴史6)P346
(清)
「軍事のみならず、国内政治までも軍機処が最高の決議権を握り、内閣はただ軍機処の決定に基づいて各省たる六部に実施を命ずる中間機関になってしまった。」←宮崎市定『雍正帝』(中公文庫)P170
丞相
「朝廷の大臣の官位は丞相、御史大夫、廷尉の順〜」←宮崎市定『中国史』(岩波書店)P147
(秦)
「呂不韋はその功によって、このとき秦国の丞相とされた。」←西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫)P37
「丞相の李斯〜」←宮崎市定『中国史』(岩波書店)P156
「李斯の失脚により、趙高が代わって丞相となった。」←西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫)P88
(漢)
「中央政府の最高官は丞相であり、これは民政を中心とする一般行政の最高責任者〜劉邦が漢王となった年、蕭何が丞相に任命され〜高祖の11年(BC196)に相国と改名され」、「BC194に左・右丞相、BC178に丞相、BC1には大司徒」←西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫)P116、122
「公孫弘は、〜元朔5年(BC124)には、ついに丞相に昇進した。」←西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫)P260
「丞相の職務は、官吏の職務評定(当時これを殿最といった)と陰陽の調和である。
〜しかも、『漢書』丙吉伝によると、官吏の職務評定も、この丙吉のときから丞相の職務ではなくなっている。」←西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫)P344
「王莽は皇帝になるとともに、まず官制の改革から着手した。
〜三公とは大司馬・大司徒・大司空である。
〜この三公は、漢初の丞相・御史大夫・太尉の系統を承けるものである。
〜大司馬がつねに最高の輔政者として国政を掌握していた。
〜哀帝の元寿2年(BC1)、丞相が大司徒に、〜改名された。
以後、漢王朝では丞相・御史大夫という官名はなくなった。
後漢王朝になると、この三公は太尉(もとの大司馬)と司徒・司空の三官となる。」←西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫)P393
(南北朝)
「(梁の武帝が定めた)十八班表で最高の十八班(正一品)は丞相等」←宮崎市定『大唐帝国』(河出文庫)P239
(唐)
「高祖・太宗の代は尚書左・右僕射→高宗→則天武后→玄宗の代は尚書左・右丞相(僕射)」←布目・栗原『隋唐帝国』(講談社学術文庫)P118表39
「尚書省の長官は尚書令、次官(通判官)が右・左僕射(丞相)」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P76
(明)
「太祖が丞相胡惟庸を粛清してから政府に丞相を置かず、天子自ら丞相の仕事を兼ね、直接六部を指揮することにした。
〜弱体な建文帝にとっては荷が重すぎた」←宮崎市定『中国史』(岩波書店)P454
「1380年(洪武13)、〜中書省とその長官である丞相を廃止し、行政機関である六部を皇帝直属とした。」←愛宕・寺田『元・明』(講談社 中国の歴史6)P250
吏部
(唐)
「尚書省は、吏部・戸部〜の六部の行政機関を統括〜」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P164
「六部とは、百官の人事を扱う吏部〜」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P217
(唐中葉以降)「中書門下の実権が拡張して、尚書省の吏部・兵部の権限を侵す〜」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P165
「官僚となるには、六部の一つの礼部でおこなう科挙という学科試験に合格しただけでは、いちおう任官の資格があたえられたにすぎず、〜おなじ六部の一つで、官僚の任免などをつかさどる吏部において一種の人物審査があり、〜吏部こそ貴族勢力維持の拠点であった。」←布目・栗原『隋唐帝国』(講談社学術文庫)P385
(明)
「(明代の中央行政機構として)吏部は、文官の任免を所掌(武官の任免は兵部)」←三田村泰助『明と清』(河出文庫)P89
尚書
(漢)
「宣帝〜は、吏民の上奏を尚書の採否によらず、すべて直接に披見することになり、尚書の政治的実権は奪われ、皇帝の親政が開始されることになった。」←西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫)P330
(南朝)
「専ら宮中の内局である尚書〜」←宮崎市定『中国史』(岩波書店)P253
(唐)
「中央政府は中書・門下・尚書の三省」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P26
「六部の長官が尚書」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P76、P216
「吏部と兵部は最も要劇だった〜」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P192
「玄宗時代には〜尚書省の格は降下し〜」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P179
(清)
「清代中央官制 六部は事務分担の中枢で、はじめ長官を承政〜とよんだが、北京入城後、尚書〜と改めた。」←増井経夫『清帝国』(講談社 中国の歴史7)折り込み
吏部尚書
(唐)「高祖・太宗の代は吏部尚書→高宗→則天武后→玄宗の代は吏(文)部尚書」←布目・栗原『隋唐帝国』(講談社学術文庫)P118
西安
(唐)
「長安を中心とした一定の区域は京兆府」←布目・栗原『隋唐帝国』(講談社学術文庫)P246
(宋)
「長安は京兆府」←周藤・中嶋『五代・宋』(講談社 中国の歴史5)P74図35(北宋の路地図)
(清)
「(長安は)陝西の西安」←三田村泰助『明と清』(河出文庫)P311
府
(隋)
「文帝は583年に〜郡を廃して〜府をも廃止した。」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P41
(唐)
「京兆・河南・太原府の長官が牧」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P76
「州の特別なものとして、三府と都督府〜三府とは都のおかれたところ〜のち六府が仲間入り〜都督府は要地におかれた、州の大規模なもの〜」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P223
「広大な唐朝の領域は、羈縻(きび)州をのぞいて、350ほどの府・州からなっていた。
府は州の中で重要とみなされたもの」←布目・栗原『隋唐帝国』(講談社学術文庫)P246
(宋)
「州の中で特別に重要なものを府と称する」←宮崎市定『中国史』(岩波書店)P307
(北宋)「宋の〜太宗は中国を十五路に分けて、〜」←周藤・中嶋『五代・宋』(講談社 中国の歴史5)
知事
(唐)
「州の次官〜は、いずれも副知事格で〜」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P224
「州の刺史(知事格)」←礪波護『唐の行政機構と官僚』(中公文庫)P229
(宋)
「地方の大区分は路であり、路は府、州、軍、監に分かれる。そして、府、州、軍はさらに県に分かれる。
府は、東都開封府(特別区。路と同等)、西京河南府(洛陽)・南京応天府(宋州)・北京大名府(特別区)、そしてその他の府に分かれる。
それぞれの長官を知開封事、又は知府事という。
知府事は府の民政・財政・刑獄・兵権を統轄する。」←周藤・中嶋『五代・宋』(講談社 中国の歴史5)折り込み
(明)
「(明代の地方行政省機構として)府には、知府(正四品)が置かれ、その下の州には知州(従五品)、県には知県(正七品)が置かれた」←三田村泰助『明と清』(河出文庫)P91
(清)
「清代地方官制 清朝は中国本部十八省と東北の満州を直轄地とし、〜省を分けて府、州、県などとしてその長官に知府、知州、知県をおいた。」←増井経夫『清帝国』(講談社 中国の歴史7)折り込み
「清は、明の行政組織をそのまま受けついだ。
〜地方には各省に布政使、その下に府州県の長がいた。」←三田村泰助『明と清』(河出文庫)P359
「一般の人民〜を直接支配している〜県知事の上には府知事があり、府知事の上には道台というのがあり、道台の上には省の布政使という財務官があり、またその上に総督があり、そこから中央政府に移ると各省大臣に相当する各部尚書があり、その上に宰相株の内閣大学士と大本営出仕に相当する軍機処大臣があり、そのまた上に奥深く天子がまします〜」←宮崎市定『雍正帝』(中公文庫)P8
「地方制度について言えば、上に総督・巡撫があり、次に布政司・按察司の両司があり、次に道員があり、次に知府があり、最後に知州・知県がある。」←宮崎市定『雍正帝』(中公文庫)P215
西安府知事
上記より、西安を統轄する役職と思われる。
で、結論としてはこんなとこ。
| 単語 |
説明 |
日本の役職でいうと? |
| 宰相 |
天子を補佐して大政を総理する官 |
(内閣)総理大臣 |
| 吏部尚書 |
吏部とは官僚の人事を所掌する部署で、吏部尚書とは、その人事部の長官を表す。 |
人事院総裁 |
| 西安府知事 |
西安とは、漢や唐の首都であった長安のことであって、その西安の長官 |
大阪府知事
(西安は、漢や唐の首都であった長安の時代と違い、国の首都ではなくなっている。
よって東京都知事でなく、サブの存在の方が望ましいと思われる) |
そら、ちゃうで!というご意見ございましたら、ご教示ください。
|