リセット
4月.見知らぬ街
 その先を予測して、肝が冷えた。
 斜に構えたダークスーツの大柄な背中が僅かに反って両肘を上げた、瞬間に、思考停止したまま。
 物陰から飛び出し、真横から男の喉元めがけてハイキックの回し蹴りを叩き込む。
 潰れた声と共に昏倒したのと視線の先で白い姿が振り返るのが同時だった。
 
 メイタンテイ!
 
 唇が声を出さずに動いた。
 
 滅多に見ることのかなわない、焦燥に満ちたアイツの瞳が俺を捉える。
 こんな場面で俺は苦笑を禁じ得ない。素姓は極力知られないように――その配慮を忘れていないところが、ヤツらしい。
 懐から抜き出した特殊な銃がこちらを向く。
 その先が迷うようにブレるのは、仲間をやられて俺にターゲットを変更した敵が複数、一斉に動いたからだろう。
 俺はそんな周囲へ目もくれずに眼前の鉄条網を一挙動で乗り越えた。
 サイレンサーで姑息に犯罪を隠す弾丸が、鋭く風を巻いて耳元を掠める。
 動く標的へ咄嗟の盲打ちが当たる確率はゼロに等しい。
 しかし運悪く紙一重の至近距離で三半規管に衝撃を食らった俺の身体は宙空でバランスを崩した。
 綺麗に着地する予定が一転上下も不明になって、電光板の設置台からキッドのいたビジネスビル屋上の一角へと、落下。
 真っ先に足に衝撃。それは予測できたが次に肩から頭。鈍い音が頭蓋いっぱいに響き、眼前に火花が散った。たまらず呻く。……コンクリの上に四肢を投げだした状態のまま、動けない。
 対するトランプ銃の正確無比な援護のおかげで、それ以上は追撃がなく。
 いや、今夜の現場で援護は俺の役なんだ。
 コンクリート伝いに聞こえる足音が遠く近く交錯する。
 それを遠のけて耳鳴りがした。
 夜目にも映える白い影が無様に転がった俺の暗い視界の隅から電光板の方向へ走り、結果的に俺の傍らで数秒の躊躇を見せて片膝をついた。
 バーロ、こっちは放っといて追えっての。
 
「おい、無事か……?」
 
 低くつくった声で囁いてくる。
 
 大丈夫、この通り意識はしっかりしてんだ。
 
 そう告げる前に肩が引かれ、上体を起こされた。
 首の後ろ辺りで大きくなる心臓の鼓動。
 何も像を結ぼうとしない視野に、目が焦点を失っていることに気づく。違う、瞼が閉じてしまっただけだ。
 
「名探偵、」
 
 だからなんともないって、俺は……。
 
 応じようとして愕然とした。口が動かない。
 目も開けられない。
 
「しっかりしろって!」
 
 他に何も聞こえない空間に、呼気が震える。
 不意にふわりと身体が浮くのを感じた。
 
「……っくそ。目を開けてくれるまで一緒にいるからな……」
 
 警察の介入はコイツが許さない。一晩余計な追尾がないことを確認するまで、優しい協力者のところへ駆け込むことは俺が許さない。それはお互い承知のうえだ。今は他の誰も頼れない。
 俺は指に触れた上質な手触りの布端をやっとの思いで握りしめた。
 徐々に闇へと沈んでいく意識のなかで、届かない言葉で呼びかける。
 
 泣くなよ、……かいと――。
 
       *
 
 淡い光を感じ、眠りから醒めた自覚があった。
 横になった姿勢から、額を柔らかい枕に押しつけて、右腕をベッドサイドの空間へ伸ばす……。
 すべらかなシーツの感触が返るだけだ。目覚まし時計があるはずの場所。
 左肩を立てて半身を起こし、両眼を開けると同時に、唸った。
 右手の指先をそっと耳の後ろから髪の生え際に這わす。
 ひどい頭痛がした。
 視野が狭かった。
 
「……大丈夫?」
 
 いきなり声が降ってきて、驚く。
 片目しか視界の利かないベッドの上で、新一は反応できなかった。
 
「おはよ。……痛い?」
 
 動かない相手の様子をどう感じたのか、誰かに似ている気がする声の持ち主は近くで坐っていた椅子から腰を上げ、新一の前髪をかきあげるようにして形のいい眉に触れてきた。
 そこには包帯が巻かれていた。
 労るように遠慮がちに確かめてくる指を、顔を顰めて外すと、新一は引かない痛みを堪えながら問いかけた。
 
「右側頭部が痛む。右目が見えねぇ。足も……なんか。俺、一体?」
 
 相手は手を引っ込めるかと思ったが、そのまま右耳の後ろ辺りに指をのばしてきた。
 手当てをしたのはコイツだろうかと考えて新一はじっとしていたが、緊張した面持ちに気付いたのか指はそのままに困った仕種で首を傾げた。
 
「目は見えるはずだよ。ただ、どうしても包帯が掛かるからガーゼをあててる。足は、全治2週間てとこかな。あの高さから落ちてその程度なんて、運が良いというか悪運が強いというか」
 
 これも誰かに似ている整った顔だちに苦笑を浮かべて大きく息をつく。
 一向に名乗るそぶりを見せない、その悪びれない表情はなんとなく見覚えがある気がした。
 更に心配させていたと判って、新一は少しだけ警戒をといた。
 相変わらず怪我をした前後のことは、まるきり脳裡にのぼってこない。
 さりげなく片目で相手を捉えつつ、油断なく周囲を観察した。
 二十歳そこそこ、または新一と同じ十代後半と思われる痩躯の彼。背後に、黒いカウンターチェアが一脚置いてある他は、なんの調度も見られない、生活感の欠如した室内。壁と低い天井はクリーム色、塗料か加工ビニル特有の匂いが鼻を掠める。
 見えないヘッドボード側に出入り口があるようだ。シングルベッドの足側が壁際に寄せられていることから察するに部屋はそう広くない。恐らく新築マンションの一室。
 椅子を挟んで反対側に光溢れる出窓があった。茶色い格子と透明な硝子の向こうに薄水色の空。春の日中を窺わせる天気は上々らしい。
 低い位置すれすれに屋根の連なりが見えた。民家とアパートマンション、ありふれた都会の街並み。
 知っている場所のどことも重ならない景色。
 新一は仕方なく訊ねることにした。
 
「で? 随分慣れた口ぶりだけど、あんたが誰なのか俺には判らない。名前は? ここはどこだ? できれば俺がこんな状態でいる理由も教えてくれないか」
 
 一息に言って、後悔した。
 親しげな笑みが目の前で掻き消え、何かが冷たく閉じた――と感じた。
 それが残念に思えて、新一は何かを間違えたと悟ったのだ。
 
「忘れちゃった?」
 
 新一の輪郭をなぞっていた指が離れた。男のくせに手入れの行き届いた綺麗な指だった。
 ゆっくりそのまま彼自身の癖のある前髪をくしゃりと握った。
 腕に隠れて顔が見えない。まるで中身だけが入れ替わるように彼の気配が変わった気がした。
 覗き込むようにして窺えば引き結んだ唇がクッと歪む。
 どこか辛そうに……しかし新一が気のせいだったのかと思いなおすしかないほど、すぐに向けられた表情は明るくて。
 
「オレ、ゆうべ近所の屋敷の高い塀を越えて道路に倒れこむアンタを見かけてさ。救急車も警察も呼ぶなって言うし、放っとけないからここに連れてきたんだ。頭から血が出てた。安心してよ、マンションで独り暮らしだから、ここにはオレだけ。誰にも話してないしさ。訳ありなんだろ。オレは、名探偵・工藤新一の一ファンだよ」
「ゆうべ……」
 
 起き上がろうとして失敗し、新一は仰向けに横たわった。軽く目を閉じる。こめかみが間断なく痛みを訴えてきた。
 気遣う彼の声がかぶさった。
 
「おとなしくしてた方がいい。足も、骨には異常なさそうだけど……腫れてた。捻挫じゃねぇかな。遠慮しないで少しここに居れば? ちょうどゴールデンウィークだしさ」
「だからここはどこなんだよ。って、オメーの名前も教えろ」
 
 無意識のうちに、口調から遠慮が消えていく。
 沸き上がる疑問。コイツは自分にとってなんなのか。
 
「ここは、東都の郊外。オレは黒羽」
「クロバ」
 
 呟いた声が他人のように響いた。
 思わず口もとを片手で覆う。
 実は昔にでも出会っていた誰かではないかという期待が裏切られたせいだ。
 初めて呼んだ響きに、呼ばれた黒羽は表情をなくしていた。
 
「しょうがねぇな、名探偵のくせに。そんなことも覚えてねぇの?」
 
 突き放した言い方とは裏腹に、縋るような視線。でもそれは黒羽が踵を返したことで、新一からは見えなくなった。
 こっち向いてろよ、と新一は苛立ち、そんな自分を不思議に思う。
 
「何か食えそうなモン持ってくる。腹減ったろ? 痛み止めも飲んだ方がいい」
 
 アンタずっと寝てたから、とドアの方へ向かう青いワイシャツの肩が、背中が、ふと誰かと重なった。
 
「……キッド」
「へっ?」
 
 間抜けな顔をして黒羽が振り向く。
 その表情は重ならなくて、新一は我に返った。
 何言ってんだ、と自分に不審を抱く。
 
「いや、ゆうべ、そう、現場でヤツに会ったんだ。知ってるだろう、怪盗キッド」
 
 新一の言葉は自身の耳にさえ言い訳じみて聞こえた。
 
「ああ……そう?」
 
 ふうん、やっぱり名探偵なんだな、と黒羽はなぜか苦笑いして、そのまま部屋を出ていこうとする。
 まただ。と新一は内心で首を捻った。
 その雰囲気……どこかで。
 
「待てよ」
 
 すっかりと背を向けて静かにドアを開けた黒羽へ、新一はベッドの上で半身を捻り、見据えながら呼び止めた。
 
「何?」
 
 黒羽は振り向かない。薄暗い廊下へと踏み出しながら後ろ手にドアノブを掴み、閉めかけた姿勢で新一の続く言葉を待っている。
 
「医者も休みだろ。この手当て、黒羽が?」
「ああ。ちょっとね、以前バイトでさ。救護をかじってるんだ。救急セット揃えてる独り暮らしの男なんて、そういないぜ。アンタ、ホント運がいいよ」
「そっか。悪かったな、迷惑かけて」
「それはいいけど? そんな怪我して帰ったら、泣く女の子がいるんじゃねぇの」
 
 だから気をつけろよ、と気配が笑う。
 
「そんなのいねー、けど……」
 
 泣くなよ、と。誰かに、言った気がする。
 
「ま、お大事に?」
 
 黙り込んだ言葉の先をどうとったのか軽い調子で会話を切り上げ、釈然としない新一の追撃から逃れるように、黒羽はドアを閉めた。
 ひとり残された新一を混乱が襲う。
 問題は、何も思い出せないことだ。説明を聞いてもなお空白の、ゆうべのことを。
 初対面で自分が探偵の事情を押しつけ、そのまま自失して自分の一切を委ねたらしい、彼のことを。
 
       *
 
 応急処置の怪我を改めて工藤邸の隣家に住まう主治医に診せたのは、その日の午後のことだった。
 
「俺がちょっと記憶飛ばしたら、もう知らねーフリしやがったんだコイツ!」
「オレの記憶が喪失しかけたよ!」
「うるせぇ、何言ってやがる!」
 
 渾身の蹴りを避けやがって、と殺人現場に臨む気迫で快斗を睨みつける新一だった。
 左足首に哀が包帯を巻いているせいで、腰掛けた診察台から動けないのだ。
 阿笠邸の地下。
 怪盗の隠れ家からは、哀の養父となった阿笠博士に車を出してもらい移動した。
 
「俺は傷ついたんだぞ、バカイト!」
 
 精一杯の憤怒を込めて怒鳴れば、おとなしくうなだれてしまう快斗は、しおらしくゴメン、などと言った。
 
「バーロ、そこで豹変されたら俺が悪者じゃねぇかテメー」
 
 クソバカヤロー、と吐き棄てる。
 下品だわ、と見た目小学生の少女が眉を顰めるのも構わず。
 
「俺のこと捨てようとしたっ! どうでもいいんだ、俺のことなんかっ」
 
 恨みがましく叫んで唇を噛み、俯くと、快斗が慌てた。
 
「それは違う、新一、嘘つきな泥棒の言うことなんか信じなくてもいいけど、オレはそんなこと思ってなかったよ」
 
 哀の実験室兼診察室にはコンピュータや医療機器など機材が多く、自由に動けるスペースはほとんどない。
 診察する哀の定位置と向かい合わせにスチールの回転椅子がひとつ、平行して診察台であるストレッチャーが置いてある。快斗は丸い椅子から腰を浮かしかけ、溜め息をついて坐りなおすと身体ごと横を向いた。
 哀が包帯を巻き終えて顔を上げたからだ。
 彼女の言葉の矛先が自分に向かうことは充分に予想していた。
 
「そうね。そんな手段で捨てたいなら、私や博士の記憶も、何もかも消さないとね」
 
 昼前。
 新一は、ゆうべ自分が関わったらしいと思しき事件と怪我の事情がハッキリするまで、ヘタに家に戻れない、と保護者代わりの隣家に電話を入れたのだ。
 彼が一緒にいるなら大丈夫ね、と哀に言われ、黒羽を知っているのか、と問い詰めて盛大に呆れられ、説明をもらい……すべて思い出した。
 哀の言うように、その場凌ぎの快斗の嘘は、濡れた手で新品のティッシュを引き出すようなものだった。
 それでも。
 危なかった、と新一は思う。もしあのまま別れていたら、本気で怪盗は行方を眩ます。そうなったら取り返しのつかない展開だってあり得る。
 新一は毒薬でコナンとなってから元の姿を取り戻し、黒の組織を壊滅させた。
 数ヶ月前のことだ。
 その時、影で支援していた怪盗キッド。
 お互いの身の上を知り、工藤邸で同居を始めるに至った。
 しかし怪盗は未だ目的の石を見つけておらず、敵対する組織との決着も難行中。
 怪盗の現場で探偵を危険な目に合わせるわけにはいかないと、快斗は何度も関係を白紙に戻そうとした。
 そんな彼を説得して繋ぎ止めたのは、新一だ。
 だがよりによって自分が捨て去るところだった。
 快斗を消してたまるか、と拳を握り締める。己の人生から。
 
「ハンパなコトしてんじゃねぇよ」
「うん。もう、やらない……でもさ」
 
 診察台へ両腕をのべ、顔を上げない新一を抱き締める。
 
「その頭の傷、判ってる? 撃ち抜かれでもしてたらシャレになんねぇじゃん。あの敵はそもそもオレの」
「シャレになんねぇのはテメーだ。オメーの敵は、俺の敵だ」
 
 新一はおとなしく快斗の体温を感じながら、憮然として言い放つ。水掛け論のような、この会話に快斗はいつも決定打を見つけられない。
 頭では判っているのだ、自分が彼から離れたくないように、彼もまた自分を離せないと思っていてくれていることも。
 だが新一がもしこの先、自分を必要としなくなったら。
 いつでも選ぶ道は決まっている。
 彼を守れるなら、別離などなんでもない。
 人並み以上に優秀な数値を弾き出す頭では、そう思うのだ。
 けれど。
 
「……ごめんね、哀ちゃん。どうしても新一を巻き込んじゃうよ」
「バカね」
 
 まだそんなコト言ってるの? と哀は嘆息し、肩を竦めた。
 判らなくもない。その思考回路は。身に覚えのある。
 
「とりあえず、仲直りの続きは帰ってからやってちょうだい」
「うん。行こっか」
 
 快斗が照れた笑みを腕のなかの新一に向ける。
 真っ赤になった新一の黄金の蹴りが炸裂するまで、あと5秒。
 
 
 真実と偽りの狭間。
 偽りをホントウにしたかったのは怪盗。
 真実をウソにしたくなかったのは探偵。
 たとえ失われたとしても、変わらないものも、ある。


 

                  *
                  お題を見た時から、コレは新一記憶喪失話、と決めてました。
                  長編でKID記憶モノを書いたので、今度は彼に、と。
             けど読み切り短編というのは少々ムリがあったか結果は(苦笑)。
             いつも書き終わったあとで快新なのか未満なのではと悩む作品が出来上がるというのは未熟
             者の証明ですね。
             4月は邂逅記念とも天秤にかけましたがフリーでやってますから今回はこんな感じで。
 
                訳の判らないかたには申し訳なく……。
                ブラウザバックでお戻りください。
Miyabi Amano/H.18.5.1
改稿/H.18.5.5