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作曲家ジュリアーノの生涯については詳しいことはわからないが、1768年にパリで出版されたPietro Denisのマンドリン教則本の中で、デニスは「私がナポリで出会った最もすばらしいマンドリニスト」と紹介している。 また、その作品は、きょう演奏される協奏曲ト長調と、いくつかの室内楽がパリ音楽院に残されており、他に協奏曲変ロ長調として知られる「マンドリンといくつかの楽器のためのシンフォニア」がスウェーデンのウプサラ大学に、また他にもミラノのヴェルディ音楽院など数か所に室内楽作品が見られる。 1764年にパリで出版された曲集にもその名が見られ、1776年には、やはりパリでマンドリンとヴィオラのためのソナタを出版している。 この「マンドリン協奏曲 ト長調(マンドリンと2つのヴァイオリンとバスのための協奏曲)」は、1楽章 アレグロ・マ・ノンタント。低音のきざむG音の上に、ゆったりとした中にも付点音符のはずんだリズムで曲が始まる。 Tuttiで明と暗、陽と陰というような対比が示されたあと、長い2つのマンドリンソロ(原曲ではマンドリンとヴァイオリン)が現れる。そしてSoliと Tuttiとのかけあいが続く。2楽章 アレグレット(ト短調)。2つのマンドリン(原曲ではマンドリンとヴァイオリン)だけで演奏される印象的な楽章。8分音符の舞曲風な動きに始まり、中間部のもの悲しい旋律を経て、再現部となり、終わる。3楽章 アレグレット・アッサイ。バスの奏する4分音符の上にマンドリンの3連符が歌う。前半に長いソロがあり、後半にはSoliとTutti が次々に現われ、最後にTutti で- 「- 」- 氓フ和音を奏して終わる。 なお、本日の演奏に際しては、パリ音楽院の筆写譜をもとに、誤りと思われる部分の訂正を加えてあることも申し添える。 これは、1772年の初め (16歳のとき) にザルツブルクで作曲された、「3つのディヴェルティメント」 (K.136 〜 138) の中の第1曲。「ディヴェルティメント」は、「嬉遊曲」と訳される、18世紀後半に流行した多楽章の器楽曲である。通常はソナタなどに舞曲や行進曲が加わった5〜6楽章構成であるが、この作品は急緩急の3楽章だけである。編成もVn 1,2 Va Vcの4部で、弦楽四重奏のための作品と考えられる。今回は、それをマンドリン、2ndマンドリン、マンドラ、ギターの編成で演奏する。 作曲者エルガーは、1857年6月2日、イングランドに生まれ、オルガン奏者である父に手ほどきを受け、早くから父の助手としてオルガンを演奏していた。その後は、ほとんど独学で作曲、指揮法などを学んだ。 H.パーセル以来200 年ぶりに現れたイギリスの大作曲家で本国では非常に愛好されている。日本でもよく知られていている行進曲「威風堂々」は、イギリスでは公式の会合では必ず演奏されている。 この作品は、1889年に作曲されたもので、ヴァイオリン独奏用の編曲でも親しまれています。愛の甘美な想いと優しい陶酔がむせかえるような香気とともに美しく描きあげられています。エルガーは愛妻カロライン(夫人)と幸福な家庭生活を築いた作曲家ですが、作曲した1889年は実は結婚の年。だからこの曲は愛妻に贈った<愛のあいさつ>だったのです。 訳せば「アンダルシアの歌」。 ボレロのリズムにのったスペイン風の作品。1910年から名誉会長の任にあった Estudiantina Bergamasca に贈られた。 思わず踊り出したくなるようなワルツで、その名の通り「優雅なセレナーデ」。ロマンチックな美しい旋律はアマデイならではのもの。色々と変化するギターの分散和音もお聴き逃しなく。
1909年、Il Plettro社主催の第2回作曲コンクールの序曲、組曲の部で第1位に入賞、翌年出版された。アマデイのマンドリン作品のなかでも最も親しまれている作品である。曲は地中海伝説から四つの妖精を提材としている。 I.La Serenata delle Naiadi II.La Danza delle Ondine ナィアーデのセレナード オンディーヌの踊り III.Il Canto delle Sirene IV.La Fuga dei Tritoni シレーネの歌 トリトーネの追走 この曲は、出版された当時はマンドリン2部、マンドラ、ギターの4部編成だった。後年低音部と打楽器が加えられた。現在はこちらの大編成の方が一般的だが、小編成で演奏すると、アマデイの小品に見られる旋律の美しさ、またシンコペーションがたくみに用いられたリズムの楽しさがより一層はっきりして来る。本日はこのオリジナル編成版をお贈りする。 アマデイの経歴 アマデイは、1866年12月9日、イタリアのロレートに生まれた。アマデイ家は、ピエトロ(1809−1877)、ロベルト(1840−1913)アメデオと3代続いたイタリアでも著名な音楽一家であった。 彼は初め父より音楽を学んだが、後にボローニアのアカデアフィラルモニカでピアノ、オルガン、合唱指揮を修めた。 コンサートや劇場の指揮者やオルガニストとして活躍の後、歩兵第73連隊長に就任以来、各地の連隊長を歴任した。退役後は、トリノに定住してベルガモやトリノのマンドリン合奏団の指揮者となり、音楽に対する功績により、カヴァリエーレ(Cavaliere )の称号を得、また1925年には聖マウリツィオ(St.Maurizio )聖ラツァロ(St.Lazzaro)の十字勲章を受けた。 晩年は「マンドリニストの友」として親しまれたが、1935年6月16日、トリノにて死去。 作品は多岐に亘り、オペレッタ、管弦楽、歌曲、ピアノ曲、室内楽、マンドリン合奏曲を含め約500 曲に及ぶ。 マンドリンへの作品は、作、編曲あわせて90曲以上あり、1906年Il Prettro社主催の第1回作曲コンクールで“Plectrum”が入賞。1909年の第2回コンクールでは、“Suite Marinaresca ”が第1位となり、翌年出版された。 1836年に出版された6つの歌曲(Op.34)の中の第2曲。H.ハイネの詩に作曲したロマン派の香りの高い名歌曲である。今日では器楽用に編曲されて演奏されることも多い。 「歌の翼にのせて君を遠くへつれていってあげよう。静かな月の光の花園。すみれやばらが咲き、かもしかが遊ぶところへ。そしてそこで恋を語り、美しい夢を見よう。」
チェコの国民楽派最大の作曲家。ブラームスに認められて世に知られるようになり、1892年、95年のアメリカ滞在で名声を博した。 出版社がブラームスの「ハンガリー舞曲集」と同じ趣向の作品を依頼したことにより作曲された第1集Op.46 が成功したため、第2集Op.72 が出版された。原曲はピアノ連弾用で、後に作曲者自身により管弦楽に編曲された。 この第10番は特によくコンサートで取り上げられる作品で、哀愁を帯びたメロディで始まり、中間部では長調になり、ゆったりとした雰囲気をかもし出す美しい小品である。 |