月の夢の姫 ―約束―

  序

 平安と豊穣の国ユムルタ。 その国はそう呼ばれている。
 豊かな水と適度な太陽の光、そして肥沃な大地とに育まれた農産物に支えられて平和に繁栄を極め続ける巨大なその王国を、近隣の砂漠の民は羨望の念を込めて「オアシスの楽園」「月に愛された夢の国」等と呼ぶらしい。 砂漠の国では太陽の悪魔のような陽射とその光を何倍も熱く反射する砂のために日々の暮らしを営む事が大変に辛く、夏ともなると昼に眠り夜にようやくわずかな安らぎの時間を得る事しか出来ない。 しかも砂を噛むような生活の中で略奪が横行し、人々は恐怖と背中合わせでようやく命を繋いでいるというのに、この国では、人々が陽射の中で笑い合いながら活き活きと働き、夜も夢に安らいながら眠る事が出来るのだった。

 この平和を守っているのがユムルタの国王ドンドゥルマとその重臣たちである。 人々は皆、彼らやその象徴である王宮に心の中で崇拝の代わりに感謝を捧げた。 この国には、神以外のものや形あるものを崇拝する習慣はなかったからである。
 その王宮アルトゥン・ユムルタは、湾を見下ろす小高い丘の上に堂々たるたたずまいで聳(そび)え立っている。 巨大な王宮は純白の壁面と瑠璃色に光る数々のドームを持ち、その中心の一際(ひときわ)大きな金色のドームは朝な夕なに神秘的な輝きを放って、殊に国民の尊敬を集めている。 王宮アルトゥン・ユムルタはまるで近隣の街とそこに暮らす人々を見守るかのような崇高さで、太陽の昼と月の夜とにその表情を変えながらも、数百年の間美しいままそこにあるのだった。

 実は、近隣の街に暮らす人々が目にする事が出来るのは、王宮のわずかな表面部分でしかない。 王宮は表面の三倍以上の奥行きを持ち、その敷地内にある二つの区画は巨大な門で完全に分けられている。 誰しも目にする最初の区画・第一王宮は、八千人とも一万人とも言われる家臣団を抱える国王の執務用の王宮である。 その第一王宮の奥、庭園と門とを挟んださらにその奥に姿を隠すように存在する区画・ハレムと呼ばれる第二王宮は、国王とその家族、女官達が暮らす生活空間である。 ハレムの中には王族の部屋、女官たちの部屋などはおろか、皇子たちのための学問所、巨大な庭園や泉、礼拝堂、病院、浴場やプールまであり、三百余りもの部屋を持つ敷地内はまるで小さな都市のような様相を呈している。 ハレムの中で暮らす事が出来るのは、基本的には王族と女官のみで、その他は医師、教師、宗教家などの中で特別に許可を受けた者のみが立ち入りを許される。 ハレムは高い城壁に囲まれて、決して外からは見る事が出来ないのだった。

 さて、ユムルタの国王ドンドゥルマにはひとり娘がいる。 アイリューヤ姫。 「月の夢」 という意味の名を持つその姫は今年で十歳を迎えたが、国王はその事で大層こころを痛めていた。 アイリューヤ姫が、歴代王朝の姫君たちとも、否、どんな女性たちとも明らかに違っているためだった。

 王宮内では、十歳を迎えた女性は以後その生を終える時まで、親兄弟と夫以外の男性の前に姿を見せてはならないという決まりがあるため、王宮の女性たちは幼い頃からハレムの中だけで生活するのが普通で、第一王宮との境界の門の側にさえ足を運ぶ事はなかった。 理由があって門の外に出る場合は事前に念入りに人払いをし、決して男性の前に姿をさらす事の無いようにすれば良いと定められてはいたが、その光景を偶然にでも見てしまった男性は死罪となるため、女性たちはその可能性を恐れて門の外に出たいと口にする事さえなく、また王宮内の人々も皆、慎み深い女性ならばそうする事が当然だと信じてきた。にもかかわらず、この姫は毎日平気で門の外に出て庭園を散策したり国王の家臣たちに気軽に話しかけたり、さらには第一王宮の中を駆け回ったり、とにかく思いついた事は即実行してしまうのだ。

 姫は、十歳を迎えるにあたっての心構えを何度も言い聞かされてきたにもかかわらず、十歳になったその日の朝からいつものように王宮内を駆け回った。 姫を止めようと、自らの生死をも厭(いと)わぬ勇気ある忠臣が追いまわした結果、皮肉にもその有様は国王を始めとする王宮内ほとんどの者に目撃され、国王は家臣たちの処刑執行を断念、それ以来姫の一挙一動に頭を痛める日々が続いているのだった。





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