昔むかしのお話です。
とある国のとある場所で、まだ若い錬金術師(れんきんじゅつし)が妻と二人でひっそりと暮らしていました。 錬金術というのは、色々な物質を混ぜ合わせたり熱したりして金を作り出そうとする技術の事です。 ですから、錬金術師というのは、その技術を研究する人の事ですが、この人は加えて魔法薬の研究も行い、それを売って生計をたてていました。
ある時、錬金術師はついに、ある薬を作り出す事に成功しました。 その薬は、ひと口飲んで願い事を言えば、何でも願いがかなう魔法の薬でした。
最初に錬金術師が願ったのは、「失敗をしない事」でした。 錬金術師は今までに数多くの失敗をして、辛い経験や悔しい思いを味わってきたので、もう二度と失敗をしたくなかったのです。 錬金術師は、決して失敗をしなくなりました。
薬が本当に効く事を確認した錬金術師は、妻にも飲む事をすすめました。 しかし、妻は何故か飲もうとはしません。 どんなに彼がすすめても、妻はかたくなに拒(こば)むのでした。
錬金術師は、妻が自分の発明を疑っているのかも知れないと思って嫌な気分になりましたが、その気持ちを自分の心の奥底の暗い場所に隠して優しく言いました。
「この薬を飲めば、どんな願いでもかなうのだよ。 お前は常々言っていたではないか。 人に尊敬され慕われるような、素晴らしい人間になりたいと。 この薬を飲めば、それも簡単にかなうのだよ。」
妻は優しく微笑んで言いました。
「私は確かに素晴らしい人間になりたいと思っているわ。 あなたの発明も才能も、素晴らしいと思っているけれど、私は魔法の力ではなく、自分の力で頑張ってみたいの。」
錬金術師は、いつか妻の考えが変わるかも知れないと思い、魔法の薬を入れたビンを寝室のテーブルの上に置いておきました。
次に、錬金術師が願ったのは「怪我(けが)をしない事」でした。 それは、怪我をしなくなれば、危険をともなう研究にも思う存分打ち込めると考えての事でした。
彼は、今まで躊躇(ちゅうちょ)していた危険をともなう研究に取り組み、次々に成果を挙げていきましたが、その様子を研究室の扉の外から見守る妻の目に、喜びの色は少しも浮かんでいませんでした。
錬金術師は、ある時思いつきました。 妻が薬を飲む事を拒むなら、自分が代わりに妻の願いをかなえてやれば良いのです。 しかし、妻は自分の力で頑張りたいと主張しています。 突然何の断りもなしに妻の願いをかなえては、彼女に怒られるかも知れません。 せめて怪我をしないようにしてあげようと、「妻が怪我をしない事」を願い、わくわくしながら妻の様子を見守りました。
願いは、かないませんでした。 妻が怪我をしたのです。 食事の支度をしている時うっかり手がすべり、指先が包丁に当たったのでした。
錬金術師は妻の傷の手当てをしながら、他の人でも試してみようと考えていました。 そんな彼の様子を見て、妻の目は悲しみにくもるのでした。
錬金術師は外に出ると、他の村人の髪の毛が足元まで伸びるよう、こっそり願いをかけてみましたが、誰にも魔法は効いていないようでした。
彼は自身の研究の正しさを信じていたので、ある愚直(ぐちょく)な村人を言いくるめて薬を飲ませ、願いを言わせてみました。 とたんに空が曇り始め、雨が降り出しました。 この村には、このところ何日も雨が降らず、作物が枯れかけていたのです。 その村人は大変喜び、錬金術師に何をしたのか尋ねましたが、彼はうまくごまかして家に戻りました。
どうやらこの薬は、飲んだ人間の願いしか叶えてくれないようです。 錬金術師は、この薬は自分自身と妻だけのものにしようと考えていました。 その理由は、他の人の手に渡るとどんな事が起きるか分からないからでした。
ある日錬金術師は、「不老不死」を願いました。 病も、死の恐怖さえもなくなれば、大好きな研究に没頭(ぼっとう)出来ます。 空腹も感じる事がないので、食事に貴重な時間を割(さ)く必要もありません。 それどころか、精製に時間がかかる薬も作り放題、成果が出るのに何十年もかかる事象も観察し放題です。 もはや、彼の頭の中は研究の事でいっぱいでした。
それを知った妻の嘆きは大変なものでした。 どうしてそんな大切な事を相談なしに決めてしまったのかと泣き崩れる妻に、錬金術師は、共に不老不死になる事を勧めましたが、妻は泣き崩れたまま、薬を飲む事を拒否し続けるのでした。 彼には、妻が何故そこまで薬を拒むのか理解できません。
実は妻は、すでに夫が自分とは違う存在になってしまったと感じて激しい絶望にとらわれていたのですが、今の錬金術師には妻の思いはもちろん、妻が心の奥で恐れている事を推しはかることすら出来ませんでした。
ある日、妻の恐れは現実のものとなりました。