| 1866年 | 5月17日朝9時カルバドス県オンフルールに生まれる。 父アルフレッド・サティ、母ジェーン・レスリー・アントン (ロンドン生まれのスコットランド人)の長男。 |
| 1866年 | 9月英国教会で洗礼。 |
| 1867年 | 妹オルガ誕生。 |
| 1869年 | 弟コンラッド誕生。 |
| 1871年 | 妹ディアン誕生。 |
| 1870年 | 父は海運業をやめ、家族とパリへ行く。 |
| 1872年 | 母と末娘ディアンが数週間とおかずに、相次いで他界。子供たちはオンフルールの祖父母のもとにあずけられ、 カトリックとして再洗礼をうけ、公立小学校の寄宿舎に入る。 |
| 1874年 | 祖父ジュール・サティはエリックをヴィーノ から音楽を学ばせた。ヴィーノは聖レオナール教会のオルガン奏者で合唱隊の 指揮をしていた。 |
| 1878年 | 祖母ユーラリ溺死。初聖体拝受のあと、父の住むパリへ戻る。 |
| 1879年 | 父アルフレッドはマジャンタ通りで音楽出版業を営み、 ユージェニ・バルネシュと再婚。彼女はF・ギルマンの弟子でピアノ教師。 11月。コンセルヴァトワール入学。 デコンプとラヴィニヤックの初等クラスでピアノとソルフェージュを学ぶ。 |
| 1882年 | 初等クラス卒業。 |
| 1883年 | トードゥの和声クラスを聴講。 |
| 1885年 | コルセンヴァトワール大学クラス合格。マティアスにピアノを師事。 トードゥの和声クラスにも正式に入る。 |
| 1886年 | 11月。アラスの歩兵第33連隊に入隊。しかし、自ら夜裸になり 気管支炎を患い除隊。 |
| 1887年 | 音楽院へは復学せず、12月「黒猫」の第二ピアニストになる。 |
| 1888年 | コンドルセ通りのアパートに部屋を借り一人住まいする。 |
| 1889年 | 万国博覧会を訪れ、ルーマニアやハンガリーの音楽に影響を受ける。 |
| 1890年 | ジュセファン・ペラダンと出会い、「カトリック・バラ十字教団」の
公認作曲家となる。 コルトー通り六番地の部屋に引越しする。 |
| 1891年 | 「黒猫」の経営者ルドルフ・サリスと喧嘩してやめ、 オーベルジュ・デュ・クルの専属ピアニストとなる。ドビュッシーと出会う。 |
| 1892年 | 「ジル・ブラス」誌の編集長宛ての公開状でペラダンと絶縁。 この公開状でEricからErikと改名。 ギローが欠員になったアカデミー芸術院会員に立候補。 「新・アテネ・カフェ」の雇われピアニストになる。 |
| 1893年 | 1月。画家シュザンヌ・ヴァラドン(ユトリロの母) と交際をはじめる。6月。シュザンヌ・ヴァラドンと絶交。 自宅に「主イエスに導かれる芸術のメロポリタン教会」を設立し、 自ら参事を名乗る。 |
| 1894年 | アカデミー芸術院会員に再び立候補。 悪魔主義といわれたジュール・ボワと交友。 |
| 1895年 | 「CARTULAIRE(記録帖)紙を以後2年間発行。 ローマン・カトリックへ改宗するが、長くは続かず。 |
| 1896年 | アカデミー芸術院会員に3度目の立候補。 7月25日 コルト通り六番地の最上階の部屋(三ヶ月ごとの家賃35フラン10サンチーム) から、同じ建物の一階のもっと安い部屋に移る。 |
| 1898年 | アルクイユの通称「4本煙突」アパートに引越す。 |
| 1899年 | シャンソン歌手ヴァンサン・イスパのピアノ伴奏者となる。 |
| 1902年 | 作曲家協会から作曲演奏著作権料(1/4ヶ年分)76サンチーム を初めて受け取る。 |
| 1903年 | 12月23日、父死去。 |
| 1904年 | 4月。アンリ・ゴーティエ=ヴィラールと雨傘で決闘。警察に留置される。 |
| 1905年 | スコラ・カントルムへ入学。ルーセル、ダンディに師事して、 対位法を学ぶ。 |
| 1908年 | スコラ・カントルムを最優秀で卒業。 アルクイユの「急進社会主義委員会」に参加。 |
| 1909年 | アルクイユで「宗教に属さない信徒救済会」の創立に参加。 7月。地域活動に貢献した功により、セーヌ県知事より教育文化功労賞受賞。 「アルクイユ=カシャンの将来」紙に月2回連載記事を書く。 |
| 1910年 | 「宗教に属さない信徒救済会」を辞任。 |
| 1911年 | SMI(独立音楽協会)のコンサートで、ラヴェルとヴィニエスによって、 <星たちの息子>第一前奏曲、<ジムノペディ>第3番、<サラバンド>第2番 などが演奏され、サティの存在もしだいにパリ楽壇で注目されはじめる。 |
| 1912年 | 「健忘症患者の回想録」を1913年まで5回連載。 |
| 1913年 | ドビュッシーがサティをストラビンスキーに引き合わせる。 |
| 1914年 | 第一次大戦勃発。アルクイユ防空在郷軍人伍長になるが、すぐ解散。 社会主義者ジョーレス暗殺直後、フランス社会党に入党。 ジャン・コクトオと知り合う。 |
| 1917年 | プーランクと知り合う。 |
| <パラード>を初演。この作品を非難した批評家ジャン・プエーグに 葉書を書き送った。これが警察沙汰となり、公衆侮辱および名誉毀損で 留置されたが、コクトオら友人たちにより執行猶予となる。 若い作曲家が集まり「新青年派」を結成。ドビュッシーとの友情も終焉。 | |
| 1920年 | 「新青年派」が「6人組」として誕生。 (「サティ派なんてものは存在しない。そんな奴隷制度など我慢ができない」 サティ) |
| 1921年 | コミュニストの結社に入党。ダダの雑誌にさかんに文章を書く。 |
| 1922年 | パリのダダ分裂。サティはピカビアらとともに、最後まで活動を続ける。 |
| 1923年 | アルクイユ派結成。(「一人で歩き給え。私と反対のことをやるんだ。 誰のいうことも聴いてはならないよ」サティ) |
| 1924年 | コクトオや「6人組」のオーリック、プーランクらと仲たがい。 ロベール・キャビーに出会う。キャビーはサティの死後、 多くの作品を出版。 |
| 1925年 | 7月1日夜8時、パリ聖ジョゼフ病院で肝硬変から腹膜炎を併発して死去。 (59歳) |
| 参考文献 「エリック・サティ覚え書」青土社 秋山邦晴著 「エリック・サティ」アール・ヴィヴァ選書 株式会社リブロポート マルク・ブルデル 訳者:高橋悠治+岩崎力 |
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