もてはやされていました。しかし、サティはいち早く印象主義的な曲「サラバンド」、
「<星たちの息子>への3つの前奏曲」などを作曲し、独自の道を歩みます。
そして、ドビュッシーが印象主義へと進んだ時、サティはすでにそこにはいませんでした。
こうした方針は生涯変わらず、常に先駆者であったのです。
しかし、当時こうした曲は全く注目されませんでした。音楽界において長く不遇の時を
過ごします。サティは「ムッシュー・ル・ボワール(貧乏氏)」とあだ名されるほど貧乏でした。
キャバレーで雇われピアニストとして働いたり、シャンソン歌手の伴奏をしたりして生計を
たてていました。シャンソンなども作曲していて、今日でも有名な「Je te veux」など
一説によると60曲ちかくあるそうです。
サティは独特のユーモアの持ち主であったようです。なにしろ曲名に、
<(犬のための)ぶよぶよした前奏曲>や<乾からびた胎児>など付けています。
あるときドビュッシーから、もっとフォルム(様式)をもつべきと忠告され、すかさず
<梨の形をした3つの小曲>を作ったとされています。サティはこれで誰からも
フォルムがないなど言われないだろうと語ったとか。
サティの音楽が注目され始めるのは、1911年頃(サティ45歳頃)からで、
若い作曲家ラベルらが注目しました。1917年には台本ジャン・コクトオ、舞台装置ピカソ、
曲サティ、出演デュアギレフのロシア・バレエ団による、バレエ「パラード」は
一大スキャンダルを巻き起こしたりしました。その後サティの周りに集まった若い作曲家が
「6人組み」を結成。そして、次第にダダの動きに関わるようになります。
サティの音楽はまたもやそのスタイルを変え、晩年の傑作新古典主義の先駆けとなる
「ソクラテス」、そして「家具の音楽」(家具のようにその場の自然な一部分を構成する曲)
へと展開していきます。
そして、バレエ「本日休演」を最後に1925年、享年59歳でこの世を去りました。
サティの曲は他のどの作曲家とも似ていず独特で、無駄がありません。
サティの音楽こそ純粋な音楽といえるのではないでしょうか。