| ・地図 | ・子供時代 | ・兵役志願 | ・薔薇十字教団 | ・名前 |
| ・主イエスに導かれる芸術のメトロポリタン教会 | ・恋愛 | ・立候補 | ・服装 | ・引越し |
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| ・DADA |
生後4ケ月で英国教会の洗礼を受けましたが、どうやらオンフルールの名門であったサティ家にはそぐわなかったようで、
4歳のときに父アルフレッドは海運業を廃業してパリに妻子ともども引越ししますが、
2年後、サティ6歳の時母ジェーンが病死。エリックと弟コンラッドは祖父母のもとに預けられます。
祖母はすぐに二人をカトリックの再洗礼させました。
サティは公立小学校の寄宿舎に入れられます。この寄宿舎は祖父母の家から三百メートルと離れていなかったそうです。
この頃、変わり者の叔父アンドリアン(あだ名はシーバード[海鳥])にサティはかわいがられたようです。
8歳になり、聖レオナルド教会のオルガニスト・ヴィーノからピアノのレッスンを受けます。
家ではクラン=クラン(へっぽこヴァイオリニストを意味する)のあだ名がありました。
12歳の時、祖母ユーラリが不可解な死(溺死)をとげます。エリックは再びパリの父の元へ行きます。
翌年、父が再婚します。義母ウージェニー・バルネシュはピアノ教師で、熱心にサティを指導したようです。
そして、13歳の時、パリ音楽院に入学したのでした。
しかし、そんなサティが軍隊でやっていけるはずがありません。寒夜、はだかで外に立ってわざと肺炎になり、
1年後に除隊しました。入院して療養したのですが、この時にフローベルの「サランボー」や、
ペラダンの「至上の悪徳」などを読んだようです。
その後コンセルヴァトワールには復学せずに退学しました。
主催者ペラダンに対する公開絶縁状を「ジル・ブラース」紙に送り、ERIK SATIEとして以来ずっと
この綴りだったそうです。Kにすることで自分の祖先がヴァイキングであることを強調する意味が
あったそうです。
兵役志願
20歳の時、アラスの歩兵隊に入隊します。コンセルヴァトワールに馴染めなかったようです。名前
サティは一度名前の綴りを変えています。26歳まではERIC SATIEでしたが、秘密結社「バラ十字教団」の恋愛
サティは27歳の時、生涯唯一の恋愛をしました。相手は画家のシュザンヌ・バラドン(画家ユトリロの母)。
ミゲル・ユトリロの紹介で知り合いました。ミゲル・ユトリロは、7歳のユトリロの父であることを認知した
頃でした。実は本当の父親はわからないのですが、ヴァラドンが付き合っていたポール・ムージスと結婚
するためには、父親をはっきりさせる必要があり、ミゲル・ユトリロが引きうけたのでした。
認知届を出したのは1891年1月27日。ヴァラドンは恋多き女性でした。ヴァラドンにとってサティは何だったのか・・・
この恋愛は、西暦1893年1月14日土曜日に始まり、同年6月20日火曜日に終わったそうです。
また、始めてのバラドンの来訪日が1893年1月16日月曜日で、最後の訪問は同年7月17日土曜日。
このように、二人の関係を正確に記した文章を生涯部屋に掛けていたそうです。この、文書には髪の毛が
留めてあります(サティ展で実物を見ました)。サティは何を忘れまいとしたのでしょうか?
その後、恋愛について「恋愛は神経の病気だ・・・大変な病気だ。怖いので避けるようにしているよ」
1919年には「非常に喜劇的だと思います。」と答えています。
「サラバンド」「オジーブ」「ジムノペディ」など作曲していましたが全くと言っていいほど注目されていない
存在のサティ。当然のごとく立候補は無視されます。しかし、サティはあきらめません。
シャルル・グノーの死で空席になったアカデミー芸術会員に再び立候補して、またもや無視されます。
サティは腹を立て、「メネストレル」紙にサン=サーンス宛の公開の抗議文を掲載します。
この抗議文の日付は、サティ28歳の誕生日でした。アカデミー芸術会員になどなれる訳が無いのは明白。
一体何の冗談だったのでしょうか。そして、アンブロワーズ・トマの後を狙い3度目の立候補
。もはや誰にも相手にされなかったことでしょう。
何を考えていたのでしょうか?悪乗りし過ぎただけなのでしょうか?
アンリ・パコリの資金援助を受けて引越しの決意をし、友達のダラス=ミックと3人でアルクイユに下見に行きました。
部屋を見て、管理人と10分ほどの話で契約成立しました。
引越しはサティ、パコリ、ダラス=ミック等が小さな手押し車に、ベッド、テーブル、長椅子、鏡、様々な置物、
ピアノを積んで運んだようです。また、少し後である音楽出版社から二台目のピアノを借りたようです
。ただ、サティは最初の三ヶ月はたまに立ち寄る程度だったようです。
このスタイルに落ち着く前、1895年〜1899年の間サティはヴェルヴェット・ジェントルマンと呼ばれていました。
彼の死後、部屋から7着(12着の説あり)の同じ服(グレーのコールテン地の布の服)が見つかっています。
この服の購入費は、周りには遺産のおかげと言っていたようですが、実はサティが相続人ではなく、気前のよい
友達の、フェルナン、ルイ・ルモニエ兄弟の遺産だったそうです。
毎日同じ服装で、モンマルトルの「オーベルジュ・デュ・クル」からアルクイユのアパートまで歩いて帰っていました。
その後1899年(一説には1904年以降)になって、あの山高帽と黒い上着のスタイルになります。
山高帽は、絹のリボンで飾られ、飾り紐がふちにつけてある黒いフェルトでできており、「スタイルハウス」なる
パリの店のために、ロンドンで特注されたものです。ステッキは籐でできており、先端が折り曲げられ、
クルミの塗料のあとワックスがけをしたものでした。
この服装も、下級仕官風できちんとはしているのですがどことなく風変わりで、ジャン・ヴィネールが言うには
「トロワの高校の物理の教師」、マン・レイは「まるで葬儀屋か、それとも格式の高い銀行家」というようなものでした。
サティはゴルフにいくときも、この服装だったそうです。
暴行罪で留置所に入れられました。
もう一つ、「パラード」を批判した批評家ジャン・プイエにひどい内容のハガキを送り、それが元で裁判沙汰に。
コクトオら友人達のおかげでなんとか拘留は免れたものの、執行猶予と罰金100フランを言い渡され、罰金は
ポリニャック大公妃が支払ってくれたそうです。
スコラ・カントルムに入学します。なぜか? 1903年12月23日の父の死も何らかの影響があったようですが、
このことと、弟コンラッドへの手紙に「他人から無知をあげつらわれるのに嫌気がさしていたんだ」
と書いていることで決心したのでしょう。ただ、スコラは授業料が高かったようですが、どのように解決したのでしょうか。
サティは「たいへん素直かつ熱心」に学びました。42歳で最優秀の成績で卒業。
そして「四手連弾のコラールとフーガ」等を作曲。しかしドビュッシーやラベル等には不評でした。かわいそうなサティ。
「<若手>は反ダンディの論陣を張り、「サラバンド」や「星たちの息子」等々を演奏しようとしている。
ひどい無知の産物とされていた作品を。・・・人生ってこういうものなんだよ、ねえ君。わけがわかんないよ。」
ピクニックに連れていったりしています。1908年には、急進社会主義委員会に入会し、
一度も会合を休むことなく、いつも机の角のところに座ってタバコをふかしていたそう。
そして自ら「非宗教的救済会」を結成し、責任者となります。サティはなぜかこのような会を
いくつも作っては辞めることを繰り返したそうです。「アルクイユ旧市街友の会」、「グループ・ノルマン」など。
地域活動に尽力した結果、1909年7月4日、アルクイユ市役所で、「教育文化功労賞」を授けられます。
当日撮影された写真が、このHPの表紙の写真です。サティ誇らしげに見えます。
1910年3月15日に、すべての組織から手を引きましたが、以後も子供達とのつながりは断つことはなかったようです。
マン・レイ唯一人のようです。マン・レイがパリで最初の作品展を開催した時、寒くてふるえているとサティが
話かけてきて、近くのビストロへ案内したそうです。暖かいグロックを飲んでの帰り道、
金物屋でアイロンを見つけ、サティに通訳してもらい買い求め、底に絨毯用の鋲を貼って追加作品として
展示しました。このオブジェの題は「贈物」です。
サティは他にアメリカ人がいるような時でも英語は一切話していなかったので、まわりの人は英語は話せないものと
思っていました。
サティの母は、スコットランド出身。幼くして母(サティとは英語で話していたらしい)を亡くしたサティは、
母を思い出すようなことを意識的に避けていたようです。
驚いたそうです。サティはなに一つ捨てるという事をしなかったのではないかと。
少なくとも89枚のハンカチーフ、100本以上の雨傘、ヴェルヴェットの服や、名刺大の紙片に
奇妙なデッサンや漫画を書いたものが、古い葉巻の箱の中に四千枚もきれいに並べてあったそうです。
手紙などもすべてとってあったようです。