と呼ばれる思考方法に属する。この思考方法は、ある時は地下に潜り、またある時は
公然と姿を現した。しかし、ルネサンス時代のイタリアに復活が始まって以来、
西欧の思想に確固たる足場を築いた。
西欧神秘主義には、いくつかの思想が複雑に絡み合い形成されている。その根底
にはグノーシス主義があるとされる。グノーシス主義とは、二元論的宇宙観を持ち、
霊(上位世界)と物質(下位世界)の二つの世界で構成され、下位世界は下位の神
の創造による邪悪な世界であり、上位世界は善霊の支配する神的世界としている。
この宇宙論は、ストア哲学者であるヘラクレイトスから多くを受け継いでいる。
粗雑な物質から純粋な霊に至るまでを構成する段階を三つに考え、さらにその三つの
中間には細分化された階位があり、ある階位のものはより下の階位のものに沈黙を
守らねばならないなど、現代の秘密結社の多くの要素がグノーシス派の共同社会に
存在していたことがわかる。
ルネサンス時代に再び真価を認められたグノーシス主義は、それ以降の
神秘主義的思想に多大なる影響を及ぼしたヘルメス・トリスメギストスに関する
著作を生んだ。
ヘルメス・トリスメギストスは、ギリシア神話の神々の使者ヘルメスとエジプトの
神トトを合成したものである。ヘルメス主義はグノーシス主義とは異なり、物質を
創造の必要部分と考えていた。霊が物質を越えて上昇するためには、物質を理解し
征服しなくてはならないと考えた。この考え方は物質の作用と操作に関する教義との
共存を示すものであり、錬金術の基礎となるものである。
他にも、新プラトン主義やピュタゴラス主義と融合することになる。
そして、きわめて重要なユダヤ教神秘主義カバラがある。カバラの起源については
不明。カバラは宇宙論と神学の体系であり、神の名称、世界の起源、人間の運命の
性質を説明する。さらに、個人が高次の実在と交流するための神秘的な技術も
含まれる。また、神的な起源を持つとされるヘブライ語に関係した教義をもち、
キリスト教にも適用され、キリスト教カバラが展開した。
これらの要素が絡み合い、下地となって形成されていく。
中世ドイツにも神秘主義の源流はあったが、この流れがイタリアのルネサンスで
復活した神秘主義の伝統と合流したとき、一つの新たな流れが生み出された。
薔薇十字友愛団は17世紀初頭にドイツで生まれた。
この少し前の時代は大きな苦難の時代であった。宗教改革はルターによって
1517年に始まるが、それは、カトリックとプロテスタント両派を多くかかえた
ドイツでは激しい闘争を引き起こした。しかし、そのような中で影響を与えたのは
ヨアキム(1132-1202)の思想、創造の歴史を継続する三つの時期に分け、
いずれ訪れるであろう第三の時代、永遠の福音の時代がいつなのかが待ち望まれた。
1614年、ドイツのカッセルで「称賛すべき薔薇十字団の名声」が出版された。
続いて、「友愛団の告白」「クリスティアン・ローゼンクロイツの化学の結婚」が
出版された。多くの人々が運動を誉め称える本を書いたり、また、認められて加入
できることを期待していた。あるものは異端であるとして攻撃するなど、これらは
ドイツで大きな反響を巻き起こした。
しかし、薔薇十字団の実態に関して納得のいく説明のできる人はだれもいなかった。
薔薇十字団とは何か?出版された文書によると、クリスティアン・ローゼンクロイツ
という人物が中東を旅行して神秘学の知識に通じ、ドイツに帰り秘密の友愛団を
結成した。百六歳まで生き、埋葬され百二十年後に彼の納骨堂が薔薇十字団員に
よって発見され、それが合図となって友愛団は自らの存在を公表し、ヨーロッパの
智者たちに参加を呼びかけた。薔薇十字団員は、社会を奇跡的に変革して新時代を
到来させる秘密の知恵の鍵を所有しているとされる。
多くの人が入団の意思を示したが、どうやら薔薇十字友愛団から返答を得た者は
いない。返答する意思が無いのに、なぜ彼らは参加を呼びかけたのか。
出版された文書の著者は何者なのか。ヨーハン・ヴァレンティン・アンドレーエ
(1586-1654)が薔薇十字伝説の創始者かどうかはわからないが深く関わっていた。
しかし、アンドレーエが果たした役割に関してはわかっていない。
薔薇十字友愛団は1618年に三十年戦争が始まって間もなく終焉し、
ヘルメス=カバラ主義の伝統を下地に、ドイツから拡散していくことになるが、
その後の薔薇十字運動はまったく新しい運動として復活させたものである、
というのが一般的な見方である。
フランスでの復活は19世紀後半まではやや捉えどころがないままであったが、
1888年、ド・ガイタとペラダンが「薔薇十字=カバラ教団」を創設して注目される
ようになる。ド・ガイタは1861年に生まれ、友人のすすめでレヴィの
『高等魔術の教理と祭儀』を読んだのがきっかけでオカルト学にのめりこんだ。
そしてペラダンと出会う。ペラダンは1858年生まれで、父親から極端なカトリシズム
を受け継いだ。銀行員として働いた後、オカルト学の唱道者となり自らを
サール・メロダック・ペラダンと呼んだ。サールはアッシリア語で王、メロダック
は木星に関連するカルデアの神である。ペラダンは、黒鬚、もじゃもじゃの
巻き毛、濃い眉毛の下の大きくて黒い、少し突き出たような目をもち、異様な衣装で
モンマルトルでは異彩を放っていた。「ラテン人の退落」の著者であり、ド・ガイタが
この本を読んでペラダンに手紙を書いたことが知り合うきっかけとなった。しかし、
1890年にペラダンはド・ガイタの教団と分離して新たに「カトリック薔薇十字=聖杯神殿教団」
を創設する。どうやらペラダンの熱心なカトリシズムが原因であったらしい。
この教団の目的は、聖霊の支配のための準備を目指して、慈悲事業を実践すること
であった。教団の集会所はペラダンの家で、彼は胸に薔薇と十字架をつけた僧服で
集会を主催した。ド・ガイタは大いに抗議した。このことは世間で薔薇戦争とよばれ
注目された。ペラダンの教団はたんなるオカルト教団ではなく、美術や芸術の分野に
関しても精力的に活動を行い、かなりの成功をおさめていた。音楽に関しては
一説によると熱狂的なヴァーグナー崇拝者で、フランスでのヴァーグナー人気に
一役かっていたらしい。しかし、ではなぜサティを公認作曲家としたのか。
1892年にサティはペラダンと絶縁している。ペラダンの教団は1918年に彼の死と
ともに消滅した。
サティは1892年に「主イエスに導かれる芸術のメトロポリタン教会」を設立。
このころサティは悪魔主義の作家ジュール・ボワと親交を結んだり、1895年には
ローマン・カトリックに一時改宗している。サティは音楽的、宗教的、美的価値を
併せ持つ神秘的な教団を考えていたのかもしれない。
参考文献
「薔薇十字団」築摩書房 クリストファー・マッキントッシュ著
「薔薇十字団」白水社 ロラン・エディゴフェル著
「化学の結婚」紀伊国屋書店 ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ著