20世紀初頭、大きな文明の発展と、そして世界大戦という文明破壊の矛盾や
不合理が混在した土壌なくしては生まれなかったのではないだろうか。
時代を追ってどういう動きがあったのかを見ていきたい。
> チューリヒ・ダダ
> パリ・ダダ(ツァラ訪巴後)(予定)
> ニューヨーク・ダダ(予定)
1916年2月に開店したキャバレー・ボルテールはチューリッヒ・ダダの中核となった。
この場所で、フーゴ・バルと工ミー・へ二ングスの影響に導かれて、トリスタン・ツァラ、
マルセル・ヤンコ、リヒャルト・ヒュルゼンべック、アルプの4人のグループが結成されたのである。
バルは、べルリンとミュンへンで実験的な表現主義演劇の経験があった。
へ二ングスは詩人で、舞踏家で歌手でもあり、詩の朗読の専門家として知られていた。
彼女はミュンへンでバルと出会い結婚して彼の協力者となった。
戦争が勃発すると、バルは軍隊に志願したが、身体検査で不合格となり、戦争を自分の目で見ようと
1914年11月にべルギーへ旅立った。そこで見いだした現実を容認できず、ベルリンに戻ると、反戦活動を始めた。
バルの活勒に加わったのが、文学好きの医学生ヒュルゼンべックだった。
バルとヒュルゼンべックは「表現主義者の夕べ」を開催したが、これはイタリア末来派の観衆を挑発するテク二ックを採用したものだったので、
10日後にイタリアがドイツの同盟国オーストリア・ハンガリーに戦線布告して敵国となると、
この出来事は危険な企画とみなされるようになった。
徴兵されることをおそれて、バルとへ二ングスは彼女が偽造したパスポートを使ってスイスへ逃れた。
彼らはマクシム・アンサンブル巡回キャバレ団に入り、なんとか生計を立てることができた。
そして、1916年2月、2人はチユーリヒの裏町にあったキャバレの主人、ヤン・工フライムに、
この店をキャバレ・ヴォルテールとして新装開店を提案した。
1916年2月2日、バルはキャバレ・ヴォルテールの開店を呼びかけた。3日後の開店の日、4人のルーマ二ア人、
画家のマルセル・ヤンコ、トリスタン・ツァラ、ジョルジュ・ヤンコ等が到着した。アルプもたまたま居あわせた。
仕事はその場で受け入れられ、ツァラはその晩に誌を朗読した。
彼は本名であるサミュエル・ローゼンストックのかわりに、すでにトリスタン・ツァラというペンネームを用いていたが、
それは「故郷で悲しむ者」の意味であり、ル一マ二アのユダヤ人学別への婉曲た抗議のあらわれだった。
ツァラの両親は文学趣味から遠ざけるために息子をチューリヒに送ったのだが。
アルプはアルザス出身で、1911年、表現主義の画家ヴァルター・へルビヒやオスカ一・リュティと、
モデルネ・ブント(モダン同盟)を結成し、翌年にはミュンへンで力ンディンスキーとマルクが編集した「青騎士年鑑に寄稿している。
1914年、彼はパリに到着して、ピカソを含む指導的な前衛芸術家と接触し、ピ力ソの影響のもとに最初のコラージュをつくった。
1915年9月、戦争を避けて、チューリヒに到着した。この段階では青騎士サークルらしいゆたかな色彩を用いていたが、
すでに幾何学的構成へとむかう傾向を示しはじめていた。
このことは、11月にタネール画廊で展示した正方形と長方形からなるタピストリーの幾何学的デザインにも見られる。
ツァラはのちに、この展示会がチューリヒでのダダの活動の発端となったと述ベている。
ヒュルゼンべックは、医学生だったためにドイツで兵役を猶予されたが、それでもなるらかの軍務を要求されたので、
スイスで医学の勉強の仕上げをするというロ実でダダのグループに参加した。
彼はツァラの力強いパートナーかつライヴァルだった。
バルは1916年6月に発行された雑誌(キャバレー・ヴォルテール)では協力者−アポリネール、カディンスキー、
マリネッティがいた−の名前を国ごとにあげて、企画の多言語的性格を強調した。
ある女性の協力者など、無国籍を自慢さえしている。目次は編集者バルが構成した。
そして、今日では、アポリネールとサランドラールの詩編が、作者の了解なしに掲載されたことは周知の事実である。
(アポリネールの詩「木」を無許可で掲載されたとき正式の抗議はしなかったが、 チューリッヒの運動に共感を示したことは一度もなかった)
「ダダ」という名称は、2月のキャバレー・ヴォルテールの創設と6月の雑誌の創刊とのあいだの4月18日に考案され、全員一致で運動の旗印として採用された。
「ダダ」という語の起源については、ツァラとヒュルゼンべックとのライバル関係を反映して、2つの異なった説明がなされている。
(2月8日にチューリヒの力フェ「テラス」でツァラが小ラルース辞典から偶然発見したという説)
(辞書にナイフをさしこむという単純なやりかたで、マダム・ルロワといラ女性の芸名をバルと探しているときに、この語を見つけたという説)
雑誌「キャバレー・ヴォルテール」の序文でバルは、「・・・このキャバレの目的は、戦争と祖国の彼岸に、
他の理想に生きる自立した人間がいるということを想起することにある。・・・」と述べている。
キャバレー・ヴォルテールでは、複数のパートが同時に語られる「同時進行詩」、単語を音に還元して言語を解体することを試みた
「音響詩」を紹介するなど、いろいろな催しが行われた。そして、1916年7月14日、世界で初めて、ダダの夜会。ツァラ宣言、バル宣言、ヒュルゼンべック宣言等等。
1916年ツァラの「アンチピリン氏の宣言」はもっとはっきりと戦闘的形をとっていた。あらゆる既成の約束事への明確な挑戦となっていた。
1916年6月にキャバレは閉鎖された。 1916年夏のあいだに、チューリヒ・ダダの状況は一変する。
最初のグループは分裂し、8月28日にルーマニアが英、仏、ロシア側で参戦すると、
ツァラとヤンコはただちに徴兵対象者となった。11月に、ツァラは兵役適正検査に呼びだされるが、
精神異常者を装ってみごとに成功し、軍務不適性者の証明書を手に入れた。
1917年3月に、ツァラとバルの共同経営で、ダダの常設画廊の場所をあらたにギャラリー・ダダとした。
ギャラリー・ダダでのパフォーマンスは6回きりだったが、ダダの活動は、ダンスと音楽をふくむことで、全体的な表現を可能にする領域へとひろがってゆき、
戦前の総合芸術制作の理想に接近するという予想外の結果をもたらした。
1917年5月末にギャラリー・ダダが閉鎖されるとこうした機会は少なくなり、バルとへ二ングスはチューリヒの運動から最終的に手を引いた。
活動は出版物の形で引きつがれ、7月に出た「ダダ1」、12月には「ダダ2」が発行された。
この雑誌はダダ運動の開始を告げるツァラのメッセージを支え、国際的な舞台でダダをきわだたせたいという彼の決意を強調していた。
ツァラはイタリアにグループの分派をつくろうと試みたりしたが挫払し、1918年を通じて、
ダダとイタリアの交流はほとんど消滅する。チューリヒ・ダダのメンバーのうち、ドイツからやってきた者の多くは帰国してしまい、
1918年の春にダダはベルリンに姿を現わしていた。
1918年7月23日、チューリヒのマイゼ・ホールで開かれた「トリスタン、ツァラの夕べ」は、ダダの中心がツァラに移ったことを明らかにする場となった。
夜8時半にはじまったこの「夕ベ」のハイライトは、チューリヒ・ダダの宣言のなかでもっとも重要で、もっとも知られている「ダダ宣言1918」のツァラによる朗読だった。
しかし、ダダの運動は退潮がはじまっており、18年夏以降急速に行きづまってしまうのである。
この時期にダダに新しい工ネルギーをもたらしたのは、フランシス・ピカビアだった。
1919年の初めにピカビアは夫人のガブリエル=ブッフェを伴ってチューリヒを訪れている。
1918年12月に発行された「ダダ3」には、あの「ダダ宣言1918」が掲載されこの「ダダ3」とともに、
ツァラの名は全ヨーロッパ世界の前衛芸術家たち、とくにフランスではのちにシュルレアリストと名乗ることになる若者たちの記憶に深く刻まれるのである。
1919年の初めにはツァラはブルトンやピカビアからパリ行きの誘いを受けていた。
チューリヒでの最後の号となった「ダダ4-5」の発行を終えてしまうと、チューリヒ・ダダは実質的にはその活動に終止符を打つことになった。
そして、チューリヒを離れ、1920年1月17日パリのピカビアの愛人ジェルメーヌ・エヴァリングを訪れた。
パリでの初舞台は、パリに着いて一週間もたたない1月23日だった。
参考文献
「ダダの冒険」 美術出版社 ジュオルジュ・ユニエ著 江原順訳
「ダダ・シュルレアリスム演劇史」 竹内選書 H・ベアール著 安堂信也訳
「ダダ・シュルレアリスムの時代」 ちくま学芸文庫 塚原史著
「ダダとシュルレアリスム」 岩波書店 マシュー・ゲール著 巖谷國士・塚原史訳
「パリのダダ」 白水社 ミッシェル・サヌイエ著 安堂信也・浜田明・大平具彦共訳