父は音楽好き、母もオペラを習っていたことがあるなど、音楽が身近な環境
で育ち、7歳でバイオリンを始める。1909年、パリ音楽院に入学。
ポール・デュカやレイモン・ペーシュ、ジェダルジュ等に師事し、一緒に
学んだ人達の中には、アルテュール・オネゲル、ジャン・ヴィエネルがいる。
この頃、パリの舞台にのぼったばかりのロシア・バレー、デュアギレフを見て
感銘を受けたり、ラヴェルの音楽を聴いて批判的な態度をとるようになる。
1912年、バイオリン奏者となるのを止め、作曲家になることを決心する。
その後、フランス=ベルギー親善協会に勤務。その協会で働いていた
ミシア・エドワーズの兄とその妻に呼ばれるようになる。彼らは毎日曜日
定期的にお客を呼んでいた。そこにサティもよく来ていて、そこで初めて
サティと会ったと思われる。ただ、ミヨーはエンジェル・バトリがやはり毎日曜日
に友達を集めており、そちらの方によく行ったようである。
1917年ブラジル駐在大使に任命されたポール・クローデルとともにブラジルへ
行き、そこでレオア・ヴェロソ等の影響でサティの音楽に開眼する。
ディアギレフのバレー団がリオに公演にきた時、パリでスキャンダルを巻き
起こした「パラード」について大変興味を持ち詳しく聞こうとしたこともあった。
1919年?ニューヨーク経由で戦後間もないフランスに戻り、プーランクと
デュレイが音楽仲間に加わりり、サティとは、ボーモン伯爵家のレセプション
で再会し、その時サティは[所謂まじめな音楽、頭を抱え込んで聴く音楽、
ロシア式ペダル、つまりムソルグスキーとリムスキー=コルサコフの影響、
ドビュッシー派の印象主義を攻撃し、「春の祭典」のストラビンスキー式
バーバリズムと「ソクラート」の純粋さ、オーリックの峻烈な芸術を誉めたたえ、
明白にフランス的な音楽]を求めた
その後、批評家のアンリ・コレが「コメディア」誌に「ロシアの五人組とフランスの
六人組」という文章を書き、六人組か結成された。しかし、ミヨーは、お互いに
よく知りあった仲間で、同じ日のプログラムに名を連ねただけで、考え方も
オーリックとプーランクはコクトーに近く、オネゲルはロマン派、ミヨーは
地中海的叙情派で、ミヨー自身は共同の美学論理に反対で、理屈に
合わない拘束と捉えていた。しかし、コレの文章は世界的な反響を呼んで
六人組は結成された。六人組の崇拝の的としてサティがおり、サティの
芸術の純粋さ、譲歩嫌い、金銭蔑視、批評に妥協しないことは六人組の
模範となった。魅惑されたブラジルのリズムの思い出に作った陽気な
楽しみの音楽、「屋上の牡牛」という幻想曲を作曲した時、コクトーが
パントマイム・バレーの筋書きを作り、公演した再には、サティは
「上演用の三つの小品」を書いき、この催しは反響を巻き起こした。
1921年5月、ピエール・ベルタンがある前衛的な見世物を上演した。
マクス・ジャコブ、オーリック、コクトー、プーランク等と参加し、その夕の
要はサティの異常な曲「メデューサの罠」でその羽目を外したファンタジーは
殆ど荒唐無稽に近いものとの感想をもった。また、サティとは家具の音楽の
試みをバルバザンジュ画廊で行っている。
1922年、ピアニストとしてアメリカを訪問。1920年に初めて興味をもった
ジャズに、さらに感銘を受け室内楽にジャズを用いることを考える。
1923年、バレー「世界の創造」で初めてジャズの要素を取り入れ成功を
おさめる。
ロシア・バレー団の主催者ディアギレフが企画した舞台の依頼で、サティは
「にわか医者」を作曲するが、このときサティは、ディアギレフと、ディアギレフに
嫌われていたミヨーとの仲をとりもつ。
サティは「本日休演」の初演の後、肝硬変になった。当時サティは、毎日
パリに来て、順番にドラン、ブラック、ミヨーの所で食事をしていたが、その
移動を快く思わずサティを説得してパリに住まわせた。初めはグランド・ホテル、
部屋が空くとすぐにイスリア・ホテル、そして聖ヨゼフ病院に入院。
サティの死後、いろいろな手続き上の処理をする。コンラッドと連絡をとったが
ブエノスアイレスで結婚していたオルガは住所がわからず、財産の競売に
かけられることになった。コンラッドは競売前に個人的書類や手紙など持ちだす
許可をとって作品の流布につとめた。コンラッドの依頼で、デゾルミエール、
ヴィエネル、キャビ等とともにサティの部屋に入り、荷物を整理した。
ミヨーは「オジーブ」、「前奏曲」、「貧者のミサ」をルアール・ルロル社に、
「びっくり箱」、「ブラバンのジュヌヴィエブ」をウニフェザール社に託した。
競売では、サティの友人達が、個人的な性質を明らかにしているものは
すべて手に入れようとつとめた。
1920年代後半あたりからリューマチによる健康状態が悪化。
1940年アメリカに亡命。カリフォルニアのミルス・カレッジで作曲を教える。
1947年パリ音楽院作曲科教授に就任。アメリカとフランスを往来する生活を
送る。1974年6月22日(82歳) ジュネーヴで没する。
参考文献
「幸福だった私の一生」音楽之友社 ダリウス・ミヨー著 別宮貞雄訳