母、マリー・ドゥルアールの35歳までの経歴は不明。父、ジョゼフ・ラヴェル。
1897年頃までに、一家はパリに移住した。裕福ではなく、金銭的心配が
ついてまわったが、ジョゼフ・ラヴェルは優しい人物で、音楽と文化を深く愛し、
モーリスは7歳からピアノレッスンを受けた。教師はアンリ・ギイ。また、シャルル・ルネ
からは、和声法と対位法と作曲のレッスンを受けた。他にもエミール・デコンプや
アルフレッド・コルトーに習っている。
14歳で、パリ音楽院に入学。記録によると、授業に遅刻し、しょっちゅう気を
散らしていたらしい。また、早い段階から象徴主義の美学に惹かれるように
なり、その頃読んだ書物は生涯にわたって影響を残すことになる。
1893年頃、父親の知り合いで、「カフェ・ドゥ・ラ・アテネ」でピアノを弾くサティと
知りあった。サティは、「新聞広告を音楽に取り入れることを計画しており、
三行広告の文言に極小のオーケストレーションをつけようとしている」、と
真顔で語った。
1896年に歌曲「聖女」を完成させた。ステファヌ・マラルメの詩につけた音楽で、
著述家のウラディーミル・ヤンケレヴィチの意見によると、「聖女」は明らかに
ラヴェルが「秘教主義者」だった頃の作品で、サティの薔薇十字会音楽の
影響を受けているという。
1897年8月、チュニジアで音楽を教える仕事の依頼を受けたが、家族や
友人のそばにいたいため、これを断った。
音楽院では、作曲の教授にガブリエル・フォーレが就任し、1898年に
喜んで授業を受ける。1900年に音楽院の学生名簿からその名が最終的に
抹消されてからも、1903年までフォーレの講義を聴講しつづけた。
また、アンドレ・ジェダルジュから対位法と管弦楽法の個人授業を受けた。
ジェダルジュの生徒には、オネゲルやミヨーがいた。
1898年、初めてのフルオーケストラのための作品「シェエラザード序曲」を
書き上げる。1898年3月5日、国民音楽教会主催のコンサートで
「耳で聴く風景」が演奏され、作曲家として公にデビューした。
フォーレは、おりをみては弟子たちを連れて、ドビュッシーやヴァンサン・ダンディ
も来る、上流のサロンに出向いた。ラヴェルが通ったもうひとつのサロンは、
エドモン・ド・ポリニャック大公と結婚していたウィナレッタ・シンガーのサロンだった。
1900年から6年間ローマ賞を獲得しようとした。そして、5回にわたって
コンペティションに参加し、すべての機会で敗れ去った。
1901年、音楽の印象派宣言とみなされる「水の戯れ」を作曲。1903年、
「弦楽四重奏曲」を作曲。1904年、イダとシプリアン・ゴデブスキーのサロンを訪れ、
コクトー、サティらと交際した。
1905年、ローマ賞に最後の挑戦をし、第一次審査を通らず、社会的な
スキャンダルになった。ラヴェル拒否の抗議運動が起こる。1905年、
楽譜出版社のデュランと契約を結び、生涯を通じて出版することになる。
1907年、「スペイン狂詩曲」作曲。1908年、長い病衰の果てにジョゼフ・ラヴェル
が亡くなる。1909年、初めてロンドンを訪れる。
1911年5月、独立音楽教会のコンサートで初演された「高貴で感傷的なワルツ」
プログラムでは作曲者は匿名とされており、観衆は作曲家を特定することが
求められた。「やや多数」 の人々がラヴェルだと正確に言い当てたものの
サティかコダーイによるものと考える人もいた。
1914年、「クープランの墓」に着手。
また、40歳を間近にして空軍に入隊しようとした。ラヴェルは徴兵検査を
受けた時ヘルニアと総合的体躯不全という理由から入隊を拒否されていた。
そこで影響力のある友人のコネを使って兵役についた。
1916年赤痢を患い、腸の一部を摘出。1917年、母が亡くなる。同年、
「クープランの墓」完成。1919年、高地転地療養でオート・サヴォイ県の
保養地、ムジェーヴに赴く。
1920年、レジオン・ドヌール勲章を授与されたが、これを辞退して物議を
醸した。
六人組が旗上した<ころのサティのラヴェルに対する態度は、控えめにいっても
皮肉であり、「ラヴェルはレジオン・ドヌール勲章を辞退したが、彼のあらゆる
音楽はそれを受け取っている」というサティの嘲弄は有名になっていた。
コクトーは六人組の筆頭宣伝者として反ラヴェル陣営に組したが、六人組の
最も年長者であるルイ・デュレは、ラヴェルに対する朋輩の態度を根拠に、
発足から一年もたたない1921年に六人組を脱退した。オネゲルと
ジェルメーヌ・タイユフェールはラヴェルと良好な関係を保った。
1924年、スペイン演奏旅行の中で、音楽史家のアドルフォ・サラザールに
「自分の音楽はシャルル・グノーのオペラ[ミレイユ]とサティを受け継ぐものだ」
と言って、弟子を一驚させた。
1926年の大半を「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」を作曲することに費やす
とともに、マニュエル・ロザンタールに教授を施した。1927年、「ヴァイオリンと
ピアノのためのソナタ」は5年の歳月を費やして完成した。1928年
四か月にわたるアメリカ、カナダツアーを行う。
1930年代が進むにつれて健康問題に悩まされるようになる。
1933年夏、健康は劇的に悪化した。11月には具合がよくなったが、
まもなく日常用語と親しい人の名がわからなくなった。病状は悪化の一途を
たどり、無活力、無気力の状態を呈した彼の父親の晩年と同様になった。
1937年、ウェルニッケ失語症と診断された。有名な神経科医クロヴィス・ヴァンサン
からも診察を受け、脳の半葉が多少陥没するか萎縮してしまったという
結果だった。手術を受けるも、1937年12月28日に亡くなった。
参考文献
叢書・20世紀の芸術と文学 モーリス・ラヴェル ある生涯 (株)アルファベータ
ベンジャミン・イヴリー著 石原 俊訳