家具の音楽

錬鉄の綴れ織り(Tapisserie en fer forgé)
音のタイル張り舗道(Carrelage phonique)
猿の王様を目覚めさせるためのファンファーレ(Sonnerie pour réveiller le bon gros roi des singes)
県知事の私室の壁紙(Tenture de cabinet préfectoral)


「<有用性>の要請をみたすようにデザインされた音楽というものを確率したいのです。

芸術は、そのような要素をもってはいません。家具の音楽は空気振動をつくりだします。

それ以外の目的なんてありません。それは光や熱と同じ役割を果たすのです--

--あらゆる形態をとりながら<人に快適さを与えるもの>として」

(築摩叢書 「卵のように軽やかに」より)

家具の音楽として初めての演奏は、バルバザンジュ画廊での音楽会でした。

オーリックとプーランクは誘いに乗りませんでしたが、ミヨーが協力しての実験となりました。

「音楽がいたるところから聴こえてくる感じにするために、三つのクラリネットを三つの隅に、

四番目の隅にはピアノを、そしてトロンボーンは二階の桟敷に置きました。

プログラムの中の注意書きで、お客に幕間で演奏されるリトルネルは椅子やシャンデリアのようなものだから、

それ以上の注意を払わないよう告げておいたのですが、私達の予告に反して、音楽が始まるや否や、

聴衆は急いで席に帰ってしまったのです。サティは一生懸命、「どうぞ皆さん話し続け、歩きまわって、

音楽を聴かないで下さい」と叫んだのですが、皆聴き耳をたて、話すのを止めてしまい、すべては失敗に

終わってしまいました。」(音楽之友社 「幸福だった私の一生」ダリウス・ミヨー著より)

この曲の楽譜は未出版で、自筆の手稿はパリの国立図書館が所蔵しているそうです。

当時は、クラシック音楽とポピュラーとが厳然として分かれていました。

この初めての実験は1920年3月8日に行われましたが、家具の音楽的発想はそれより以前からあったようです。

すでに「ソクラテス」では、舞踏をとりいれる演出を考えていて、サティのノートの中に「家具の音楽」という

言葉とともに作曲のプランが書かれていたそうです。

家具の音楽の構造は短いパターンをユニットとし、それを反復し、繰り返していく構造。

もともと、サティには「家具の音楽」を作りだす要素を持っていたのではと思います。

「ヴェクサシオン」では840回の繰り返しが指示されていますし、「健忘症患者の回想録」では自らを音響計測者と言い、

「事実、私は聴くというよりは、音を測定することのほうに、より大きな悦びを感じる。」とか、

「フォノロジー(音響学)は音楽よりもすぐれているといえるように、私は考えている。」

など、諧謔を飛ばしつつ、そのころの他の作曲家にはないサティ独特のものの見方は、

後の「家具の音楽」へと繋がるのではないでしょうか。






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