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ニセ荒尾高校ホームページ
araocoの高校生活(昭和55年〜57年)の思い出

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ファッション

当時は、女子のスカートの長さがロングからミニへ移り変わる時期で、超ロング〜ひざ上丈とマチマチだった。熊本市内だと大抵ミニで、普通の真面目な荒高生だった私は、学校帰りに熊本市内へ行った時のみスカートのウエストを折り返したものです。さすがに、荒高ではミニを穿いてたのは、オシャレで脚に自信のあるコでした。
その当時、東京ではロンタイと呼ばれるプリーツスカートのプリーツを縫い詰めた、足首までのロングスカートが流行ってましたね。熊本みたいなミニはいなかった。制服の無い学校だと、トラッド系やハマトラ風の格好をしてたようです。

髪型は聖子ちゃんカットが流行っていて、こっそりパーマを掛けている友達も多かったが、茶髪にまでしている人は少なかったです。時代を感じますね。それと、ボブカットでトップ部分を短くしてフワフワさせる段カットも流行っていました。今振り返れば、ヘンテコな髪型です。一度そのカットにしてしまうと伸ばすのが大変なこともあり、髪型をチェンジしたくなったときに結構後悔しました。

男子はYMO風テクノカットとジャニーズ系のフワフワヘア、横浜銀蝿風リーゼントが混在していた。学ランは短ランが流行っていて、ズボンはツータック以上にダブダブ俗に言うボンタン。ヤンキーという言葉も、九州では言い始めたくらいで(最初は大阪辺りで言われていた言葉)、たいていツッパリと呼んでいた。
しかし基本的にはおとなし目で、変形学生服を着ていた生徒も少数、事件や犯罪を犯す学生もあまりいなかったですね。
地味で平凡な校風とも言えますが・・・イメージが固まってるのもツマラナイもんね。

制服の衣替えは6月10月で全国の衣替え時期に合わせてありましたが、やはり九州のこと、暑いんですよね。暑い日に冬服の上着を脱いで授業を受けるのを許される先生と、絶対ダメとおっしゃる先生がいらっしゃり結構気を使いました。
行儀から言えば正しく服を着るのもいいでしょうが、快適な気分で授業に集中した方がいいと思ってたけどね。


世相

当時流行っていたのは「なめ猫」「松田聖子」「YMO」「横浜銀蝿」「たのきん」「しぶガキ隊」「コンバースのハイカットスニーカー」「デッキシューズ」「フィフティーズ風の服」「たけのこ族」「ハウスマヌカン風刈上げ」「ラルフローレン」「ハマトラ」「DCブランド」「ボートハウスのトレーナー」「フレッドベリーのポロシャツ(白限定)」懐かしいけど今思えばナゼ流行ったのかサッパリ分からない物も。


読んでた雑誌

雑誌では、セブンティーン、オリーブ、プチセブン(確か私が中学生の時に、誌名を女学生の友・ジョトモからプチセブンへ変更した)、mcシスター、ポップティーン、キューティ(創刊号を持っていたが、いつ頃創刊だったかは覚えていない)、ポパイ、ホットドッグプレス、洋楽が全盛でミュージックライフもよく読んでました。ファインは、サーファー系服装というのが小汚い感じで読んでいなかった。

自称真面目な女子高生がポップティーンは読まんだろう。というツッコミはあるでしょうが、それは置いといて。ポップティーンの読者ページとか取材記事を担当してた方が、結構賢くて真っ当な意見を言う人だったので好きだった。グラビアはツッパリと暴走族とディスコで遊んでる女の子ばっかりでしたがね。

モデルのアイドル化のはしりで、中山美穂、今井美樹、吉田光希、村上里佳子(RICACO)、栗尾美恵子(若乃花婦人)、高見恭子、小牧ユカあたりは普段着紹介とか一日おっかけなんて特集されてましたね。

現在は?

今は普通科の他に理数科、体育コースという学科もでき、制服のデザインも変更され(郵政省グリーン?)、それもミニスカート化阻止のためか、ジャンパースカートへ再度変更(今はグレー)。平成15年度以降、男子の制服の形は・・・どうなってるんですかねぇ?
女子高生のスカートが短いのは日本全体の流行ですね。今こそ長いスカートを穿いてるコこそ個性的と言えるはず。いや、個性を超越してエキセントリックか!?


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無駄な記憶力を生かせ!こんなことありましたねぇ、徒然話

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@コンバース
今も人気のコンバース。私は背が高くないのでハイカットは履いてなかったが、コンバースの白のハイカットはめちゃくちゃ流行ってたね。
コンバースを見ると、当時のブームを思い出すよ。


@キスミーリップクリーム
先日、化粧ポーチを忘れて出かけてしまった。食事後に口紅を!と思ったら無い。慌ててコンビニへ行ったが、リップクリームと口紅は売ってるのに、色つきリップクリームは無かった。唇の皮が剥げ易いので、リップクリーム効果と口紅として色も着けられるのも欲しかったのよね。次にソニープラザへ行ったら、小さな店だったので、やっぱり色つきリップクリームが無かった。仕方なく色つきリップグロスを購入。淡い色だけど、何も着けないよりもマシだった。

そこで、キスミーリップクリームがあれば!とつくづく思ったよ。多分15年前まで位なら売ってたと思うんだよね。今思えば、唇の保護も出来てハッキリとした色も付くなんて便利だったなぁ。ちょっと香りは苦手だったけどサ。懐かしい。


@図書館は穴場
図書館は、冷暖房完備だし、人は少ないし、絨毯を敷いてあるし、とっても良い場所だった。直接座ると、絨毯でチクチクしたけど、なんかつい座ってたなぁ。
クラブ仲間のTちゃんと、よく休み時間や放課後に行ってた。でも、どんな本を借りてたかは思い出せない。たぶん、新田次郎とか、当時流行ってた片岡義男とか読んでたんじゃないかな。私が本当に読書をした!と思えるのは、高3の卒業式後からだね。25歳位まではアレコレ小説を読んでたけど、今読むのは漫画とファッション雑誌、エッセイなど。年取ったらバカになっちゃったね。(元から大したこともなかった。が、正しいか・・・)


@当時は近視、もうすぐ老眼
寄る年波と言うのは、ホントに恐ろしいものでして。
先日、眼鏡を作ったら年齢を尋ねられ「40歳なら大丈夫ですね。43歳位から近くの物が見えづらくなります」と言われた。”40歳”と”43歳くらい”は、ほぼ同じだとおもうんだが。。。
私の目が悪くなったのは高校生から、授業中は眼鏡〜車の運転時は眼鏡〜TV見るときは眼鏡〜PCの前では眼鏡〜常に眼鏡と、どんどん視力は悪化するばかり。遠くも見えず、近くも見られなくなったら・・・。0.07の裸眼で街を歩いても平気だけど、神経が疲れるし危険だと言われた。

荒尾高時代にも、授業中は眼鏡という友達は多かった。今はどうですか?同級生の皆様。
みなさんも、現役荒高生も、目は大切に!


@当時の荒高生観
飄々として他人に流されず、かつ友達の主張や個性も大事にする大人びた人が多かったと思う。
多少大人しくて、押し出しは弱い感じだったけど、内に秘めたパワーがあったと思う。
尊敬できる先輩や同級生も多かったな。
今、付き合いのある友達にも、人間的に面白くて刺激をもらえるコが多い。18歳時点を見れば将来を予測できるなんて思ってた人は、大人になった荒高生に驚くことでしょう。


@こうもり
教室の窓に何かがいるなと思ったらナントこうもりだったことがある。うずくまってる格好はまん丸で、ネズミ程度の大きさだったので、最初は”ネズミだ”と騒いでいたが、つついたら急に飛んでこうもりだと分ったのだ。。こうもりを直に見たことは無かったけど、その時こうもりって可愛い顔をしてるナと思った。当時は野良犬や野良猫なども結構いて、のどかだったけど、あの時は驚いたね。そういえば、荒尾か大牟田の山には、猿がいるという話も聞いた。いや、ホントにいたかどうかは謎。


@コーヒーにアーモンド
30年位前までは、喫茶店でコーヒーを頼むと、アーモンドやピーナッツがついてきた。
と、夫や西日本出身の同世代の友人に言ったのだが、誰も知ってる人がいなかった。日本中ではどうだったか不明だけど、30年前の玉名の喫茶店では出てたよね。お願い!誰か同意して。それとは別に、喫茶店やレストランではテーブルにアーモンドの自販機(10円入れて、ダイヤル回すと数十粒出てくる簡単なのね)が置いてあったのも思い出す。真ん丸くてこげ茶色した機械に入ってた星座占いも、よくやったなぁ。
名古屋では、今でもコーヒーを頼むとクッキーやピーナッツが添えられてくるという話で思い出した。私が高校生の頃の昭和50年代後半の玉名には、そんな習慣は無くなってたと思うけど、少なくとも40年代までは、そんなサービスあったよね。
それにしても、30年前のことを、少し前のことのように話せる私って。不惑間近を実感するッス。


@エアコン
在学中(20数年前)は、いつ付くんだろう、いつ付くんだろう。と楽しみにしてたけど、とうとう付かなかったエアコン。
荒高は全教室にエアコン完備みたいだけど、熊本県内の県立高校全部にエアコンが付いてるのかな?暑すぎたり寒すぎると授業に集中できないからね。
自宅、電車、バス、お店と、どこへ行ってもエアコンが付いてる時代だし、特に熊本の夏にエアコン無しなんて耐えられないよね。精神で乗り切るなんてのは、子どもの頃から慣れてない限り無理ってもんだ。良かったね。でも私の高校時代を思うと羨ましい限りです。


@匂い
検定試験で、とある高校へ行った。教室に入ると甘いような酸っぱいようなフルーツ牛乳に似た匂いが。
そこで、学校ってこんな匂いだったなぁと思い出した。匂いで感情の記憶を呼び起こすことってあるよね。と懐かしさに浸った。が、試験結果がボロボロで、帰り道は呆然としていた。また来年頑張ろう!


@修学旅行2
ニセ荒高の掲示板見て判ったけど、いまだに修学旅行はスキーなんだね。私の2学年下からスキー修学旅行が始まったけど、修学旅行でのスキーを機に、大学以降よくスキーをするという後輩の話を聞いたことがある。スキーは雪質によって滑りやすさが変わるよね。私は山梨と日光でしか滑ったことは無いけど、日光の雪はサラサラで滑りやすかった。やっぱり寒ければ寒い地方ほどヘタクソには滑りやすいね。あっ全然関係ない話で終わった。

では、修学旅行の話。京都・奈良の修学旅行だとお土産の定番は「八つ橋」。生八つ橋も好きだけど、堅い八つ橋も好きだな。肉桂味の食べ物も好きだし。
先日、八つ橋チョコをお土産に購入したが、あげた同僚に「八つ橋好きなんです」と言われて安心しつつも驚いた。「食べたことある?」と聞いたら「2年位前にもお土産にもらいました」とのこと。あっ八つ橋チョコっておいしいんだ。良かった良かった。嫌がらせだと思われたらどうしようと心配してたよ。さらに脱線しましたね。
では、あなたの修学旅行を思い出してみてください。


@公式荒尾高等学校ホームページ拝見
やっと公式ページが出来ましたね。ホームページって誰に読んでもらいたいか、ってのが大事ですよね。まずは受験生を増やすことと卒業生や関係者に喜んでもらったり、懐かしがってもらうことからかな?なんと云っても定期的な更新が、ずっと見てもらえる秘訣!(ちょっと私も反省)これからも頑張って下さい。
私も20年前の荒高を中心に思い出の荒高と現在の荒高について載せていきます。
校長先生、作成に携わった先生方、公式ページ開設ありがとうございました。

思い出話ではないですが、嬉しかったので載せました。


@荒高体操
いわゆるラジオ体操第二と似ているが、やけに腕を動かす運動が多い。
荒高体操などと云ってやってたけど、他の高校でもほぼ同じ体操を、その学校の名前の体操としてやっていたようです。さて、今その体操が出来るかどうかは・・・今でもピンクレディーの曲を踊れるように、曲が流れたら身体が自然に動くかも知れない!?


@ジュースといえば
あーーーっ、八朔ジュース飲みたーい。蒸し暑いときにはガツンと苦くて酸っぱいハッサクジュースを飲みたくなりますね。(八朔ジュース=明治ブリックパックのグレープフルーツジュース)
ジュースではないけど、スコールが生ぬるかった時のガックリ感は何とも言えない。


@写真
イマドキなら、プリクラ、写真つき携帯、使い捨てカメラなどでバシバシ写真を撮ってるんだろうけど、25年前は写真のフィルムも現像も高価だった。それでもカメラを持って行って学内で撮った写真が何枚かある。改めて見てみたら・・・髪がハネてる。。。こりゃモテないはずだ。


@時計
下の、メガネ話のついで。
私が持ってた時計は、ロレックスみたいなゴツイ金属ベルトのタイプだった。(もちろんロレックスではなく国産メーカーのね)電池式なのに恐ろしく分厚くて、文字盤が色付きでカットガラス。はいはいはい、そんなのがありましたね!と思い出していただけましたでしょうか。2つ目としては時代的にデジタル時計でしょう。何しろ入試の時に”計算機付き時計の使用禁止”なんてお達しが出てた頃ですよね。懐かしーーーっ。今じゃ腕につけてるデカイ物といったら携帯電話だもんなぁ。驚きです。
まだ、バブル前だから外国製の高級時計をつけてる友達はいなかったけど、イマドキは高校生の腕時計も高級ブランドモノだったりするんでしょうね。


@眼鏡
高校時代に使っていた眼鏡が出てきた。縦幅が今使ってるのの1.5倍。スンゲェ!まさにアラレちゃんメガネ。
しかし、最近捜してるサングラスはもっとデカイ奴。ファッションの流行は移り変わりが速すぎて、「こうやって使い捨て生活をしてるんだな。私たち(私だけ!?)って」と思う。

これは前振りですが、夫が学生時代に穿いてたジーンズを以前もらったのだが、もらった時は太股がキツクて穿いてて辛かったが、この頃運動のお陰で痩せて穿けるようになった。物持ちが良いのも良いことだ。あー捨てなくて良かった。他にも思い出すと、眼鏡6個、母手編みのスカート(これは30年前のモノ)、シャワー通りで買ったジャケットなどなど、15年以上経ったモノがいまだに手元にある。昔の品物には思い出があるから捨てられないよね。私は服が好きなので、好きな服を着て外出した時は大抵写真に残している。最近はデジタルカメラだから、もっと手軽に撮れるし、外出しなくても自宅で着て撮ったりもする。
法事で久しぶりに親戚と会い、また色んな事を思い出した。そんな記憶を反芻してこのページは出来てるワケですね。

「こんなことありましたねぇ」な話ではないが、あなたも以前使ってた物で荒高時代を思い出してみてください。ただ、「この前」が5年前、「ちょっと前」が10年前になってる、すっかり年を取った私に愕然とはしますが。


@春は花
春の花は桜が代表格でしょうが、GWあたりの藤の花やツツジも楽しみです。
3年の校舎と図書館の間に藤棚があったような気がするけど、お正月に行ったら無くなっていた。水槽には蓮があったような気がするが、やはり無かった。私の記憶違いなのか・・・

@肌ストにローファー
まだまだ人気のルーズソックスですが、当時、大人系女子高校生の間では、肌色ストッキングにコゲ茶か黒のローファーを履く。というのが流行ってた。荒尾ではあんまり見かけなかったが、熊本市内に行くとホントに未成年ですか!?ってくらい大人っぽい女子高校生がワンサカいて、そんな感じに足元を決めていた。冬は黒いタイツ(それも、等高線が現れる必殺タイツ2枚、3枚重ね履き)が多かったけど、黒いストッキングのヤンキーもいたなぁ。今考えるとセクシー過ぎ。ブリッコが流行る以前(松田聖子デビュー前を指す)の女子高校生は、大人っぽさを競ってたよね。


@予餞会
2月3月の話題と言えば、卒業式と予餞会。進学のため受験する3年生にとっては試験だよね。
予餞会はたぶん2月の初めくらいだったが、丁度私は他県の大学を受験するために学校へ行けなかった。予餞会は毎年面白くて楽しみにしていたので残念だった。しかし、受験を終え熊本へ帰ってきたら予餞会が次週に延びたという嬉しい連絡が。3年生の担任をなさってる先生方が、小学生の格好をして劇をなさったと思う。私の担任の男性教諭が小柄で童顔だったので、まんま小学生に見えて笑わせてもらった。

私の卒業アルバムには前年度の予餞会風景が載っているが、白タイツを穿いた白鳥の湖。ハッキリ言って汚くムサイです。”オレは似合ってたぜ”と思ってらした先生方、申し訳ございません。でも、予餞会は笑わせてナンボでしょうから。。。
1984年3月卒業生のアルバムには、私たちの学年の予餞会写真が載ってるでしょうね。当該学年生は、もう一度見てみてね。

私が1年生の時の予餞会は、どうしても思い出せない。ご存知の方、1982年3月卒業の方araocoにお教えください。昔話だっけ?浦島太郎だったかなぁ。それって私たちの学年の話?。。。うーん。他の学年の方も予餞会の思い出を書き込み&ご一報ください。あなたの思い出を読み、顔をほころばせたい同級生や卒業生がお待ちしております。

*予餞会情報いただきました。
早速、昭和57年3月卒業の方から情報をいただきました。araoco感激でございます。ありがとうございました。

>予餞会はおっしゃる通り、「浦島太郎」でした。
>そのとき、生徒がステージに向かって、プログラムを丸めた紙をガンガン投げつけて、
>それに怒った剣道の先生(名前忘れた)が浦島太郎のカッコで腰みのつけて、
>マイクに向かってやめなさいって言う説得力の無い姿が記憶に焼きついています。
>白鳥の湖より、はっきりと。

araocoもステージに這いつくばってた亀の記憶はボンヤリとありますが、浦島太郎の記憶が無い。。。そんな面白いシーンを覚えていないなんて、どうした!araoco
皆さまの卒業時の予餞会はいかがでしたか?そんな予餞会は現在も行われているのでしょうか ->Uクン(3月8日に、「荒尾高校の思い出を語ろう」に書き込んだキミ。)君こそ荒高を語ってくれーーい!


@春眠暁を覚えず
春眠と呼ぶには早すぎるだろうが、最近非常に眠い。夜12時前に眠くなる。小学生時代に深夜「横溝正史ドラマシリーズ」を見ていた私にとって、幼児期以外で一番早く寝てるかもしれない。
さて、前振りはこれくらいにして、高校2年生の時に一日のスケジュール表を担任に立てさせられた。本当は12時以降に寝ていたが、12時頃就寝というニセスケジュールを提出した。それでも担任から寝るのが遅いと言われた。11時くらいからニュースを見て、その後入浴し就寝としていたが、ニュースに文句は付けられず、温まってすぐ寝るのも気持ちがいいよね。と「まっ仕方ないか」とオッケ-をもらえた。
しかし、私がなぜ11時からのニュースを見ていたかというとアナウンサーがカッコ良かったから。カッコイイというのとはチョット意味が違うが非常に賢くて冷静なタイプで、有り難い教えを請うような気分で毎日見ていた。名前はよく覚えていないが、フジバヤシヒデオさんだったと思う。私は頭が良くないというのがコンプレックスなので頭が良い人が好きだ。ただ物知りとか頭の回転が良いだけでなく、精神的にも成熟した人生の機微を知る知的な人に憧れる。これは男性のことではなく、いろんなことで素敵なところのある人みんな、好きで憧れる。


@アイドルのコンサート
10代の少女が行くコンサートといえばアイドルものですよね。私が初めて行ったコンサートは誰だったのか?あんまり覚えていないが、たぶん小学生か中学生の時のベイシティローラーズのフィルムコンサートだったかも。その後好きになったアイドルは熊本へは来なかったので、次に行ったのは19歳くらいだったかな。恥かしいので誰のコンサートかは伏せておく。
昭和40年代はロック・ポップスのコンサートに行く=不良という図式があったらしいが、私の頃になると親世代が、裕次郎とか小林旭、加山雄三などアイドル映画にこぞって行ってた世代なので別に咎められることはなくなってたよね。


クラブ活動
クラブの掛け持ちをしている人もいたなぁ。私も別に美術部か文芸部に入りたいなと思っていた。でも当時は才能が無いと入っちゃいけないような気がしていたんだ。今思うと才能よりも「ただ好きだから」とか「レベルは低いなりに能力を伸ばす」という目的で入っても良かったんだよね。

毎日練習する必要の無い部なら掛け持ち可能。そういえば水泳部へは寒い時期は休みだから入っていると言ってた人がいた。友達を増やすには部活動はいいよね。メンバーの仲が良かった部は何十年経っても同窓会をやっているそうだ。
今の荒高には情報処理研究会とかコンピュータ愛好会とか無いのかな?あったら即荒高公式ページの青写真を作り、企画書を校長へ提出してくだされ。先輩のお願いでございます。


@冬は寒い
今年は本当に寒い。高校2年の時は1月半ば(共通一次試験の初日)に大雪が積もりました。
冬の早朝課外を受けるためには6時起き!冬はよけいに辛いんです。まだ朝ご飯食べる余裕がある時はいいけど、起きて直ぐ着替え、顔を洗って自転車で駅まで行くと、顔を洗った時に濡れた前髪が凍ってる…そんな時、電車の座席足元から吹く熱風は本当に幸せの風でしたね。

そういえばカラー軍手が流行ってました。普通の白い軍手をはめてる男子もいましたが。自転車通学だと毛糸の手袋の上にカラー軍手、もしくは革手袋とか自転車のハンドルカバー無しでは手がかじかんで授業中文字が書けないのよーーー!タイツは2枚重ね。さすがにタイツにソックスの重ね履きはカッコ悪い気がして出来なかった。確かストッキングやタイツは肌色か黒、靴下は白と決まっていたし、黒タイツに白ソックスはダサダサだもんね。現在だと”ダサ可愛い”ファッションもアリだけど、ダサいのは死ぬほどカッコ悪いことだった20年前は、ダサいとか田舎臭い格好するくらいなら寒さを我慢ほうがマシと思ってた。でも、いわゆるホッカイロは必需品でした。

マフラーの決まりについては覚えていないが、色の指定があったのかな?多分あまり長いものはダメというのがあったかも。今年は超ロングマフラーが流行ってますが、20年前は長いマフラーは最高にダサいとされていたから禁止でなくても誰も巻いていなかったであろう。。きっと70年代にロングマフラーが流行った時に禁止されたのだろう。私は紺色のタータンチェックのマフラーを巻いてたと思う。

20年前だと制服のスカートは膝下5〜10センチくらいが規定で、違反したがってるコはより長く床上10センチくらい。今ドキそんな超ロングスカートのコがいたら逆に地味な格好と呼ばれてしまうのかもね。ミニスカートが流行してる現在は寒さ対策も大変だろうね。20年前のミニスカート流行初期の頃はミニと言っても膝ギリギリ程度。それをミニと呼んでいたなんてオドロキ。

ゴスロリ好きなジョシコーコーセーはもしかして制服もロングスカートを穿いてるのかな?もしそれで先生に褒められてたら笑っちゃうね。
現在の私の服装は専ら黒グレー紺など黒っぽい色でパンツ派。赤・黄色など原色好きな人からは地味ネェと言われるが、薄いピンクやベージュなどソフトな色が好きな人からは派手と言われる。主観なんてそんなものってことだね。


@鼻血ブー
先日職場で鼻血を出してる25歳(♂)を見て思い出した。
私も学生の時、寝起きに鼻血出てなかなか止まらず、電車に乗り遅れるのにどうしようーーー。ということがたまにありました。20代の半ばくらいには自然に治ったけどね。一度病院にも行ったけど「鼻をいじらなければ治る」とだけ。寝る前に「あぁ明日鼻血が出るかも…」と予感がしてると出たりってこともあったので、血圧とかホルモンとかも関係してると思ったんだけどなぁ。鼻を触る癖の人はお金が貯まらないという話も聞いたが私に関しては当たってる。

今では、花粉症&鼻炎で、鼻をかみ過ぎたことによりヤバッって状況がたまに。鼻血とは一生の友達かしらん。っつーか嬉しくないっ!このまま鼻炎が続くと、鼻柱が太くなりそうで嫌だなぁ。病院いかなくちゃなぁ、でも、病院嫌いなんだよな。


@時代の変遷:女性の結婚適齢期Part2
結婚適齢期に平均はあっても、現在では、一般的とか普通はどうこうだ。いう圧力は減ってますよね。逆に、利用すればいいとも思っていました。例えば結婚を親に反対されているカップル。女性が30歳過ぎる頃になれば親も折れるもんです。誰でもいいから早く結婚して・・・と。恋人じゃ嫌、婚姻届を出さなきゃ!という思いが強いと難しいですが、祝福されて結婚したいと言うのも心情。親に結婚を反対されている方々へ、辛抱すれば周りが変わりますから気長に待ってみてください。

さらに、中学・高校生で異性と付き合うのはイカン、電話も取り次がないという教育方針もありますが、それ自体よりも社会人になったり、いわゆる適齢期が来るといきなり「結婚しろ」、「お見合いしろ」と、ほんの数年前まで顔をしかめていた事を奨励されることに、戸惑いや違和感を感じます。
自分の中では、学生時代とさほど精神構造に変化は無いのに、ほんの数歳年上になったら、いきなりの周りの変わりようにビックリしますよね。一体、年齢による普通とか一般的とかって何なんだ!
若気の至りで、結婚に向かない人(暴力をふるう人、ギャンブル好き、怠け者)を選んでしまい反対されることはありますが、そういう設定の話ではございません。(と、書いておかないとね)


@時代の変遷:女性の結婚適齢期
小学生の時、将来何人子どもを産むか、なんてのを手首で占ったりしてましたね。私は3人だったと思います。
山口百恵さんが結婚したのが21歳くらい(だったと思う)、私よりも少し年上の松田聖子さんは23歳(多分)、私が小さかった頃は女性の適齢期というか概ね結婚してた年齢は23歳くらいでした。そもそも短大という大学ができたのも4年制大学卒業後に結婚するのは遅すぎる、20歳で卒業できる大学を作ろうという意見からと聞いたことがあります。(真偽は不明だが、間違ってはいなさそうと思います)

私よりも年上の聖子ちゃん世代(いわゆる新人類のはしり世代)までは結婚は”クリスマス”、つまり25(日)歳までにという空気、やっぱり23歳で結婚が理想とされていました。バブル経済期の私たちになると急に20代の内に結婚すればいいと年齢が上がり(実際は26歳くらいから友人たちが結婚し出したかな)、その後”大晦日”31(日)までとなり、現在は年齢は関係なく結婚したくなったときが適齢期。そもそも適齢期とか人生設計に結婚さえ消えつつありますね。

高校の頃、将来どうするかという話を友達と話していて、「短大卒業後数年したら結婚し、絶対専業主婦になる」とか「大学卒業と同時に結婚して家庭に入る予定」と言っていた友達がいまいした。その友達はその通りの道を歩いているようです。私は「一生仕事はする」とか「30歳なんてオバサンになったら人間は終わり、自殺する」なんて青いことを言ってました。お恥ずかしい…その定義でいくと既に人間として終わって8年、余生を生きてることになりますが、長く生きてみて年を取るということはドンドン賢くなることだと判りました。もし若い身体に戻れたら嬉しいとは思うものの、あんなオバカな頃には戻りたくない。長生きして能力(頭脳・心)が精一杯高まった自分を見てみたいです。


@愛と誠
昭和55年頃。ちょうど高校入学前、中3最後の春休みあたりで映画「愛と誠」をTVでやっていました。最初の映画は西城秀樹と早乙女愛が主演で、岩清水君の名ゼリフ「早乙女愛、君のためなら死ねる」を残したアレです。君のためなら僕は死ねるだったのか、「僕」が入ったのか入らなかったのかは私の記憶力ではこれまでです。
私位の年齢だと上映された当時は小学生だったし、特に西城秀樹のファンでもなかったため見ておらずTVで初めて見ました。同じ愛と誠がTVドラマ化されたのを見たような気もしますが、それ自体はうろ覚えです。映画はシリーズで3本くらいあり、まとめて放送されたため、より強く印象付けられました。友達もたいてい見ていてかなりハマってました。まぁ機動戦士ガンダムも流行ってたんだけどね。


@入学前のイメージ
私の中学からだと電車で通う先輩達のイメージが強く、玉名の高校だとチャリ通がほとんどだったこともあり「電車通=カッコイイ」と思われていました。実際、荒尾高校に進んだ先輩達も、さばけた感じの素敵な先輩が多かったこともあります。とはいえ進学者数も、玉名郡市の高校>熊本市の高校>荒尾市の高校>大牟田の高校の順で少数派でしたが。

姉がいたこともあり、友人が進路先に迷っていた時も荒尾高校の良いところを箇条書き&制服イラストにして作り勧めました。(結果は私と一緒に荒高入学)
入学してみたら、中学よりも人数が多いだけあって、中学にはいなかったタイプの方々もいらっしゃいましたが、概ねノンビリおっとりした雰囲気でしたね。飛び抜けたとか突き抜けた感じの学生は少なかったけど、芸術面で秀でた人が多くて穏やかな空気が流れていました。廊下ですれ違った人には学生、先生、来客のを問わず「コンニチワ」と挨拶するっていう習慣が物語っているでしょうか。


@ダイナモは発電機
あぁこっぱずかしいです。校歌の2番に「ふるさと興すダイナモはうなる」とありますが、私はダイナモはダイナマイトの事だと思っておりましたが、発電機のことでした。玉工高卒業生の方から指摘のメールを頂き分りました。
ホント恥かしいです。夫に「ダイナモって何か知ってる?」と聞いたら「モーターじゃないの」と言ってたし、もしかしてダイナモのことを知らなかったのは私だけ!?私って一般常識が無いのかなぁとPCの前で顔を赤くしてしまいました。
高校時代に「ダイナマイトのことだな」と思い込んでしまっていたので、20数年辞書で調べることもしませんでした。第一dynamoって単語を生活で聞くこともないしと、負けず嫌いな私はつい言い訳をする潔くない人間。
さぁ皆様もaraocoの間違いを捜してみませんか?ちょっと破れかぶれ気味

もうひとつ私の日本語力の無さに関する話。
仕事のメールで「畢生の傑作」という文があり私は読めませんでした。もちろん意味も分からず辞書で調べました。「一生涯のという意味かぁ、フーン」ひとつ賢くなりました。しかし自分にガッカリさせられましたね。
他にもあるゾ。「奥義」を「おくぎ」と呼んだことや、「返戻(へんれい)」が読めなかったこと。「不問」に至っては「ふとう」と読んでいた。どこをどう読めば「とう」になるんだかaraocoよ。ばかっ!
常々仕事でもちゃんとやったはずが間違ってたというミスが多く、”自分のやった仕事を疑え”を心掛けていたのですが、今後は脳内まで疑わないといけないですね。用心用心。

さらに追加。「進捗」が読めなかった2003年1月。ガーーーンやっぱり私馬鹿だったんだなぁ。


@髪の毛と思春期
中学高校時代に髪質が変わり急に太くなったりクセが強くなったりということはありませんでしたか。
私は生まれつき癖毛ではありましたが、小さい頃は毛質が柔らかくまだ素直な癖でした。しかし、中高あたりで質が変わり、剛毛&癖毛になりました。当時ファッションには興味はあったものの自分自身を磨くことにはさほど興味が無く、髪の毛はブローもせず洗いっぱなしでしたけどね。私の剛毛では朝くるくるドライヤーをかけても太刀打ちできず玉砕。諦め気分もありました。
しかし、髪の毛をキチンと整えてる学生は生活全般もきちんとして見え清潔感がありましたね。私は見た目どおり部屋も散らかし放題の女です。悲しいことにいまだに フーーッ。

眉毛も生やし放題だったし化粧もしないし、リップクリームだって色つきを使うわけでもなく、お洒落に気を使ってると思われるのが恥かしかったのです。鏡を見て顔や髪型を気にするのも、20歳過ぎまで人前では恥かしくて出来ませんでした。軟派=悪と思い込んでたようです。アレしちゃいけないコレやったら恥かしいという呪縛は周りからされてると思いたがりますが、実際は自分が縛ってるんだなということに気付いたのは青春も中盤を過ぎた頃。まぁ人目をまったく気にせず本能のままというのも美しくないですが、何事も中庸が大事っすね。
そうそう、当時色付きリップクリームといえばキスミーですね。独特の香りがありました。西洋のお姫様の絵が載った紙白粉なんてのも懐かしいです。


@ドライブとBGM
友達と佐世保までドライブに行ったことがありました。
高校卒業後のことですが、友達のオープンカーのカーステレオから流れる曲は大沢誉志幸の”そして僕は途方に暮れる”
佐世保に到着するまで、なにも無い佐賀(佐賀の皆さんゴメンナサイ)の田んぼ道を抜け、坂道続きの佐世保の街を2台で走り、山の上から基地を眺めて帰りました。この曲は友達が気に入ってて繰り返し録音したテープを作り流していました。なぁんでもない一日でしたが、曲と佐世保の風景がセットとなって私の記憶に残っています。
最近ふと”そして僕は途方に暮れる”を聴きたくなり、買って聴いてみたことで思い出したシーン。
あぁドライブとかしてないなぁ。と自嘲含みの回想。

皆様にも「この曲を聴くと、あの頃のこと、あのシーンが思い浮かぶ」なんてことがあると思います。
荒高の思い出としては脱線してますが、1985年くらいの話です。


@有明高校
すぐ近くだし、中学の同級生や高校に入って知り合いになったコとかもいたのに、なぜか一度も行ったことが無い。場所はだいたいわかっていたのにナゼ行かなかったのだろうか。私立だからか風紀に厳しいという愚痴はよく聞いた。私は女子の革靴(ストラップつきの丸っこいオデコ靴)は好きだった。それと、私の友達だけのことなのか、有高生には優しくて親切な人が多かった。


@臭い・匂い
荒尾高校でで匂いといえば、近所の工場の臭い。窓を閉めている冬はよいけど、夏場たいした風も無いのに漂うあの臭いは堪りませんでした。始終臭う訳ではないのでまだ許されたが、蒸し暑い日だけは腹が立った。何度も書いているが、「荒尾は工業地帯指定を受けているので、予算が付き次第エアコンを設置いたします」という学校説明会の話。ウソではなかったでしょうが、何十年も実現していないとなるとウソだったということになるでしょうか。
荒尾高校とは関係ないが、増永あたりの田んぼが広がった道は、夏場の雨の日かたつむりクンが道路にお出ましになり、大量のかたつむりクンや蛙クンが車のタイヤでぺったんこにプレスされていると、なんともいえない生臭いニホヒがいたしました。

もうひとつ、荒尾高校にはシャワールームは無かったので、運動部帰りの学生が大量に乗り込んだ電車は青春の香り(臭い)がいたしておりました。ちょうど”朝シャン”の習慣が始まった頃なので、何日もお風呂に入らず臭いという人は少なくなっていたが、思春期はホルモンとかが安定していないからイロイロ大変だよね。自意識も強まる時期でもあったしね。不潔に対する嫌悪感が強まったのも80年代だ。


@池と裏山
グリーンランドそばの池と、学校裏の山の名前がわかりました。下のカピタンを教えてくださった方から追加情報を頂きました。
池の名前は「池黒池」だそうです。加藤清正が農業用の溜池として造ったらしいです。さらに、情報提供者さんが小学生の頃、干上がった池の中に大きな骨が現れたそうです。私はココまで読んで「すわ恐竜の骨か!?」と思いましたが、牛の大たい骨あたりだったろうとのことです。
それにしても加藤清正、いろいろやってたんですね。
また、荒高の裏山は「屋形山」だろうとのことです。
さすが荒尾育ち!手元にある”るるぶ熊本”程度の地図には、小さな山や池の名前は載ってないんですよね。私もムダな記憶力はあるのですが、実際に必要なことはサッパリだし。
本当にありがとうございました。

*追伸
またまた玉高卒業生の方から屋形山について追加情報をいただきました。いつも本当にありがとうございます。

> 通称では「おかち山(御徒山?)」と言われているようです。
> 正式名称が「屋形山」なのかな?
> なにせ標高63mの山(丘?)ですから、普通の地図には載ってないんです。
> まあ、名称からすると小代氏の館か砦があったのかも知れませんね。

とのこと。
標高63mだとか、小代氏の砦跡地だったのかも。とか。私は初耳なことばかりで「オォーーッ」と思うばかりです。
小代氏って!?と思って荒尾市役所の観光案内ページで探したら「肥後野原荘(のばらのしょう)の地頭」と載っていました。
こういったレアな情報を載せられると、ニセとはいえ荒尾高校ホームページとしてボリュームがでますね。人の褌(アラお下品?)で自画自賛!


@カピタン
208号線沿いにあったチャンポン屋。(現在は代替わりしてお弁当屋になっているとか)
このカピタンの名前がずっと思い出せずスッキリしない日々だったが、荒尾在住の方からのメールで判明。玉高卒業生なのに荒高ホームページに貢献いただきありがとうございました。
とはいえ、在校時カピタンへは数回しか行ってないんですが・・・私の姉も荒高時代通っていた。


@池
3つ下に書いた荒高の裏山もそうだが、校内マラソン大会で通るグリーンランドそばの池。あれの名前も知らない。ちょっと古い地図で見るとグリーンランドあたりに池が数箇所あるが現在も全部あるのかな?開発が進んでいるから埋め立てられちゃったかな?


@藤崎宮秋の例大祭
9月なので季節の話題をひとつ。小さい頃から藤崎宮の例大祭は結構見に行っていた。
高校2年のときだと思うが例大祭の次の日、「15日に下通りでお祭り見てたでしょ」と荒尾駅か南荒尾駅かで、オジサンに話しかけけられた。そのオジサンは熊本市内から荒尾へ通勤している人だったらしく、電車内の私を覚えていたらしい。自分自身、同級生からも顔を覚えてもらえないことにかけては、自信があったので「ナゼ私の顔を知っている!?」とギョッとした覚えがある。そう、まるで霊が見える人間に見つかった、幽霊のような気分だった。

その後の話だが、荒高の後輩が熊本市内に住んでおり、後輩は帰宅、私は遊びの目的で熊本駅で降りたところ、そのオジサンと熊本駅でバッタリ会い「熊本に住んでるの?」と聞かれた。「いいえ〜」と答えたが、熊本駅に独りでいるのは怪しいよなぁ。いや、玉名の人間は結構熊本市内へ遊びに行くんだが・・・まぁ確かに夕方から、わざわざ熊本まで遊びに行くとは思わないよね。でも熊本の下通りなんかは夜8時くらいまで店は開いてるし・・・と心の中でつぶやくオイラ。
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@猫宮
南荒尾駅から線路沿いに長洲側にちょっと行ったあたりにある。猫好きは是非行くべき!でも特に何もないケド。
関係ないが、玉名市伊倉町には犬(狗?)を祀った「いんにゃくさん」と呼ばれる神社がある。犬好きは是非、言ったが良い「いんにゃくさーーーん」と。???(言ったが良いが、行く必要はない。何も無いから。)


@裏山
1年生の校舎の裏にあった小さな山。まさに裏山と行った風情のある山でした。が、名前が分りません。ご存知の方、ご一報ください。


@冬服リボンの謎
ブラウスの襟元のリボンはいつから小さく結ぶようになったのか!?
これだけは、私も判りません。入学した頃は既に99%の女生徒のリボンは結び目が1cmくらいしかありませんでした。姉の学年も同様です。一応1年生の4月くらいまでは、結び目が小さかったり大きかったりとバラバラなんですけどね、ゴールデンウィークまでには押し並べて小さい結び目になっていたものです。
制服のリメイクや人と違う着こなしを始めるのは、いつの時代も目立つコが最初に始めたはず。現在の女子高生のトレードマークのルーズソックスだって、制服のスカート丈を短くし始めたのもファッションリーダーとか遊び好きの女の子達だったしね。

昭和何年頃から始まって、全校生徒に普及したのはいつ頃なのかご存知の方お教えくださいませ。
それと、校章と学年章を留めるフエルトも、より小さいほうがオシャレとされていました。こんな小さな事から自分がイイ!と思うやり方を選び、且つ校則の盲点を付く。まぁ、そのやり方でなければ粋でナシという空気に押された感もありましたがね。

また、現在の制服のイケテル着こなし方なんかも教えてください。やっぱりトレンドはミニスカ&ルーズソックスでしょうか。


@靴
制服に合わせて履く靴に決まりがあったかどうかは覚えていませんが、多分黒か白の靴となっていたと思います。私が一番履いていたのは白いキャンバスシューズでした。今は亡きアメリカ屋靴店やリーガルのをよく履いてました。他にはこげ茶のデッキシューズとか。(もしかして校則違反ですか?)
私立の学校だと黒のローファーが多いですし、有明高校には制靴があったと思います。私も入学当初はストラップのついた革靴を履いてたなぁ。確か熊本の下通りにあった長崎屋(現パルコの位置)で買ったはず。そういえば学生カバンはどこで買ったっけ?学生カバンは中学入学時だから玉名のどこかかな?私は荒尾高校に進むのを予言していたように黒の学生カバンでした。そういえば玉名の女子中学生はたいてい紺の学生カバンだったのよね。

その当時から靴フェチだったので靴は沢山持っていました。私はヤンキー系ではなかったけど(眉毛が薄いので人相は怖かったらしいが)、フィフティーズ系のファッションが流行っていたこともあり、白い合皮のローヒールパンプスを雨靴代わりに履いてました。パンプスにレースやくるぶし丈のソックスを合わせていた。今思えばなんちゅうセンスだ。現在、裏原系のコがそんなコーディネートをしているが、やっぱり変。

高校3年の時はラルフローレンがブーム(マイブームだっただけ?)で、三つ折りソックスを買ってもらって大事に穿いていました。今で言うコギャル(当時はサーファーが人気)が真っ黒に日焼けして、ラコステやラルフ、フレッドベリーのポロシャツにチェックのプリーツスカートを穿き、ハイソックスにローファー姿で雑誌に登場していた。同時期にお嬢さんチックなハマトラも流行。服はなんとかなるけど、さすがに熊本にミハマの靴は売られていなかったから真似るにも真似られなかった。せいぜいカッターシューズにハイソックス。

他に横浜銀蝿やチェッカーズ、たけのこ族ブームもあり、フィフティーズ派はコンビシューズやボーリングシューズを履いていた。ロック系だとラバーソールの靴というのもありましたね。
丁度女子大生ブームだったしね。大学生が流行を作り、高校生が真似するって流れがありました。DCブランドの流行も当時。
いくら都会で流行っても、あの頃までは都会の学生の流行がそのまま地方に来ることは無く、その土地土地の流行だけで動いていました。荒尾のお手本は大牟田とか久留米だったのでしょうか。今みたいに東京や都会の流行を真似ないとイケテナイなんてのは個性がないよね。だからといって、ヤンキーファッションはダメ。一点一点は許せるけどコーディネートが最悪。


@追試
恥を忍んで白状しますと私は数学がメタメタでした。追試のボーダーラインは20点だったと思いますが、一度だけ受けたことがあります。たぶん期末だったので冬休みだか春休みだかに登校して追試を受けたと思います。全学年の追試組数人が同じ教室でテストを受けるのですが、それぞれが目をそらして「ここで会った事は内密に」といった空気が漂っていました。そう感じたのは私だけかも知れませんが。
言い訳しますと、次のテストでは得意な確率問題だったので85点くらい取れました。もちろん数学で80点台なんて生涯で一度くらいでしたけど。数学は積み重ねが大事なので、基礎でつまずくと立ち直れないんですよね。今でも暗算さえ苦手です。

そうそう、適性テストで隣の数字をドンドン足していくという、精神力を計るテストがありました。数字が100個くらい並んでいて数10問続けて計算するのですが、私の場合、1問目から最後まで列の半分までしか計算できず、適性テストどころか計算能力が低すぎて測定不能といったことが書かれていました。いいんんだいいんだ、それでもチャンと営業も販売も経理事務も製造業も苦情処理も職場の人間関係もやれてるモンね。


@制服店
女子の制服を作ってくれる制服店がわかりました。熊本市内のもう一軒は「タケモト」でした。丁度中学時代の友人の妹さんが、その店で働いているということを聞き判明しました。M君アリガトー!
メインの制服店は、すみれ、ミツタ、タケモトの3店でした。それぞれの店で生地やデザイン上のゆとりや着心地に差があり特に夏服で顕著でした。現在の夏服はポロシャツなのであまり違いは無いのかもね。

現在と何より違うのはスカート丈でしょう。私たちの時代が最後のロング丈の時代で「2年生になったから、床上10センチのスカートを作った」なんて友達もいました。3年生になったら逆にミニスカートが流行り(とは言っても今で言うミニには程遠い膝上5〜10センチ程度の可愛らしいミニスカートでしたが)みんな自分で丈詰めをしてました。私は自分の制服はそのままの丈、姉のお下がりのスカートをミニにして制服検査日を乗り切っていました。


@制服のお手入れ
別に高校時代に限ったことではないですが、制服のスカートはプリーツがとれ易く、かといってアイロンをあまりかけるとテカるので、日本古来?の「寝押し」の登場です。(「寝敷き」という人もいますね。)畳の上に直接スカートを置くと畳の跡が付くからと、新聞と新聞の間にスカートを置くのが基本です。今のコ達は寝押しなんかやんないんだろうケド。
私は就寝中に比較的動かないほうなので失敗しなかったのですが、寝てる間にゴロゴロ動きすぎると、ズレてプリーツのラインが二重になってしまうことも。動かなくても元々プリーツをずらして置いてしまってた時のショックといったら…


@電車2
電車通学で学んだこと、それは吊り革無しでもグラつかずに立つ技。
電車をよくご利用になる皆さんなら取得済みでしょうが、電車というのは大抵横揺れが多いので、やはり進行方向を向き脚を広めに踏ん張ることですね。さらに片足を少し前に出せば、前後揺れにも対応できて万全ですね。(NテレビのI東家でも、紹介されていましたが皆知ってることジャンと思いましたよ。)

この立ち方だと車内を見渡すことになるので、他人と目が合うのが辛かったり、前方に自意識過剰な方がいてこっちをチラチラ見られるとやりにくいです。(違うよ!アンタを見てるんじゃないの!ヨロヨロしないような立ち方してるだけだっつーの!と、心の中でつぶやく。)
本を読んでると一番気楽ですね。そういえば、当時新製品だったウォークマンは今思うととてもデカく重かった。


@電車
当時の国鉄の通学電車は7両くらいあったような気がします。その後通学通勤で数年乗ってましたがJRになると本数が増え車両が短くなり、4両編成時代が長かったですね。最近は朝電車に乗ることがないので判らないのですが、昼間に乗るとたった2両しかなくビックリしました。しかし2両ってのはカナリ寂しいし情けないですね。唯一の救いは色は車両も車内もカラフルでキレイなこと。

20年くらい前だと、たいていがボックス席付きでドア付近は壁についたベンチという設計の車両が多かったです。しかし、テスト期間や早朝課外に出席するときに乗ると、大昔の特急車両だったりしました。車両が全部ボックス席で座席も木製、床も木製だったり、最高にデラックスな旧特急車両だと、木目を活かしニスを塗っただけの飴色で、とても情緒がある車両だったこともありました。その車両だと、床も座席も飴色で、最大の特徴は、窓に網戸が着いている事!ナゼ網戸が?と思っていましたが、網戸は石炭機関車の灰避けだったらしいです。
試験帰りの昼間乗る電車は人が少なくて、車窓の田園風景を眺めているとなんともの〜んびりとした雰囲気が漂っていました。

ボックス席の電車といえば思い出した話。たまたま岱明の友達と電車で会い、それが友達の友達といった間柄だったので彼女と一対一で話すのは初めてでした。私は人見知りがひどく(当時ね)「うわぁナニ話そう。キンチョー」ということで頭が一杯、ポッキ―だかなんだかのお菓子を勧められても全然手をつけず、かなり失礼な態度を取ってしまった。またその子が気さくで可愛くて人気があるコだったので、折角の仲良くなるチャンスをみすみす逃してしまったのよねぇ、私のバカ。
電車の中って結構思い出が多いシチュエーションですね。他に思い出したことは勿体無いので(ハハハ、済みません)、また改めて書きます。


@アイビーTシャツ
穂積和夫さんのイラストが入ったTシャツ!着てました。街で学生が穂積和夫さんのイラストが付いたトートバックを持っていたのを見かけ、すごく懐かしくなった。VANヂャケットで有名ですが雑誌メンズクラブなどにも穂積さんのイラストが載っていましたね。
絵柄的には4頭身で男の子も女の子も表情が同じでチョット不気味といえば不気味、でも可愛いイラストでした。調べてみたらIVYFRIENDSという名前だとか。そういえばイラストの下か上にそんな文字も載っていたかも。

アイビーといえば小学生の時に読んでいた漫画の主人公がアイビールックということでハマリ、高校の時にはトラッドにありがちな赤紺白だけでなく、「パステルカラーでもトラッドに」なんて提案が雑誌でされて色がぐっと豊富になりました。今思えば色に制限なんてあったの!?としか思えませんが、当時は画期的だったんです。
私のファッションといえば、今も流行は取り入れつつ基本はソフトトラッド、トラッド崩しといった所に戻ります。あんまりズンダレタ格好はトラッド魂が許さないッス。
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@実力テスト
長期休み明けの実力テストは嫌いだった。まぁ、テストが好きなんて人は学年上位で氏名を張り出されることになった人だけでしょうが。
荒尾高校の通知表は、中間と期末のテストの平均値をメインとして出されていたので、実力テストは通知表とは関係なく完全に実力を測るだけのものだった。それをいいことに、私は実力テスト用の試験勉強はほとんどしなかった。実際のところ、実力テストをやっていた理由って、長期休暇で生徒がダレないよう、ダレた生徒に新学期が始まったんだという褐を入れるためだったのかな。
そうだなぁ、今もう一度勉強するならば国語と理科に関する教科をやってみたい。勉強なんて学校に行かなきゃ出来ないわけでもなくて、勉強のやり方が判らないヤツが学校へ行くんだ。と荒高の先生のどなたかがおっしゃったと思う。正にその通りなんだけど、ねぇ・・・


@100単語テスト
確かそんな名前のテストがあった。夏休み明けとかに実力テストがあったのは覚えているが、百単語テストはいつやってたんだっけ?1ヶ月置きか長期休暇明けなど、たまにやるテストだった。「満点取ったら何々して」と無理やり先生と約束していた人がいたが、先生は必死に断っていた。百単語というからには英単語テストだったんだろうけど、別に漢字テストもあったと思う。漢字テストでは平均点以下(クラスの半数)は”でこピンの刑”だった。生徒のオデコよりも先生の指の方が痛かったろう。

あぁ、「百単語テスト」
この言葉を思い出せてすごく嬉しいです。でかしたゾARAOCO!!自画自賛しちゃうもんね。
また思い出した。確か百単語テストは、どこかの学年が始めた行事(単なる学年共通テストですが)で、一斉テストをやって順位を発表すると生徒の士気が上がるとか語彙が増えて役立ったとかいう効果があり、下級生だったオイラ達は、そのとばっちりを受けて百単語をやることになったような?まぁ、百単語で満点近くを出すと、普段のテストで上位になれない人でも一躍ヒーローとなり盛り上がったのは確か。私はどう思い出してみても一夜漬けで臨み50点位しか取れなかったようだ。


@体育館シューズ
体育館シューズってあまり履かなかったせいか、在学中ぜんぜん傷まず、今でも実家の下駄箱に入ってるかも?
体操服は学年で色分けされていたが私の学年は緑。体育館シューズにも緑のラインが入っていて、荒高卒業後も体育の授業で使ったものの、いかにも学校指定シューズにしか見えず、社会人になってから外で履のはカッコ悪くて使わずじまい。勿体無かった。
違う話になりますが、室内履き(通称:ジョッパ)ってどこで購入してたんだっけ?学内の売店だったかな。確かにどこの靴屋に行っても、あのジョッパを見かけたことは無い。


@同窓会
このホームページを作ったきっかけは「荒尾高校公式ホームページを作って欲しい」ということと、「クラス仲は悪かったけど、20年も経ったことだし、昔のことは忘れて同窓会を開こうじゃないか」という提案でした。
しかし、熊本から離れて住んでいると同窓会の発起人になるのが大変、面倒というのも内心。

たまたま「荒高って水泳大会やってたっけ?」という疑問を解消するため姉に電話をしたところ、「1学年400人もいて水泳大会は無理やろ。たぶん中学の水泳大会と間違っとっとじゃないと?」とのこと。アリガトー姉。

さらに姉の話では「今度うちの学年全体の同窓会があるて通知が来とったよ。そろそろ返事ば出さなんばってん、どがんすっかなぁ」と。私がボヤボヤしてる内に他学年ではドンドン同窓会をやっているーーー。こりゃイカン。
また姉が言う事には「卒業してからだいぶ経っとるけんねぇ、もう覚えとらんかもしれん。普段会う友達ば見渡したら変わっとらん人が多かけど、変わっとる人は変わっとるだろうし、こがん人おらしたっけ?って思うだろうね」と。
ウーン、同窓会にこだわるよりも、いっそ学年会の方が盛り上がるかな?

確かに5年置きせめて10年置きに会ってたら面影もあろうというものだが、20年振りに会っても当時の写真付き名札でも付けてないと、自己紹介だけで同窓会が終わってしまいそう。名前やクラスとか誰それさんの友達ってことは覚えてても、顔と名前が一致しない。そもそも「あなた同じ学年にいらっしゃいましたっけ?」ということが多そうだ。
私自身影が薄かったから同級生の記憶に残って無さそうってのが一番の心配。「同級生だっけ?」と言われそうなのは私のことです。トホホ

いつも会ってる友達と話す時でも、「○○チャンが・・・」と急に名前を出されても顔がぼんやり、ニックネームは確か何々だったよねぇ。下の階のクラスだったよね。と断片的にしか覚えてない事が多いのです。同級生の話題には卒業アルバムが必要。
さぁ、あなたも卒業アルバムをめくってみてください。


@流行語
高校の頃流行った単語は、オジン、オバン、たいへーん。
”たいへーん”というのは地域限定で流行ってた語だけど、何でもないようなことでも「たいへーん」と「へーん」にアクセントをつけた独特の言い回しで女子達が言っていた。今で言う「カワイー」と同じように、何を聞いてもリアクションとして「たいへーん」と返していた。しかし、その話の内容にも応答にも大変さは微塵もなかった。
オジンとオバンは全国的に流行ってたがいつ頃から言わなくなったんだろう。福祉系大学を目指していたクラスメートが、手話の勉強をしてるとかで「手話にもオジンとかオバンってあるんだよ」と教えてくれた。今だったら「オヤジとオバサン」って手話単語がきっとあるでしょうね。


@図書館
友達が図書館の受付を担当する日や、読書好きの友達に付いて行ってとか、友達の憧れの先輩が図書館にいる!なんて情報があると行ったものです。別に図書館がエアコンが効いて快適だからということではなかったけど、行く目的は本を読んだり借りたりするばかりではなかった。
一番通ってたのは1年生の時だったが、友達の憧れの先輩がいるから私も付き合って!という理由だった。でも話し掛ける訳でもなくチラチラ眺めてただけ。可愛いモンだ。皆さま私と先輩との関係が気になると思いますが、私はあまり好みじゃなかったので応援してただけです。
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@水泳
どう考えても納得できないのが、水泳の時間。
なんたってまともに泳ぎ方の指導を受けた覚えが無い。水泳の時間はどんどん泳ぐだけで後半20分は遊びの時間でフリーだった。
そういえば授業で着用する水着は、黒か紺のワンピースならなんでもよかったのだが、私なんかは中学で使ってたスクール水着だったけど、オシャレなコは競泳用のかっこいいのを着てたなぁ。


@朝シャン
遅刻してでも朝シャンはしていく!なんて現象が出始めたのも私が高校2,3年生の時でした。
でも早朝課外に出席するために6時半の電車に乗らなきゃいけない私には関係ない社会現象でした。今思えば、課外に出ることで勉強してる気になっただけだったと思えるケド。
昔読んだ平中悠一の小説シーズ・レインに、学力と女の子の魅力は反比例するとかナントカってくだりがあり、笑った覚えがある。以前はそれが受け入れられたけど、現代はみんな小さい頃からオシャレだから、当てはまんなくなってますね。


@武道
当時は家庭科は女子だけが受け、その時間男子は武道(柔道か剣道)をやっていました。私は家庭科を受けていたので(当たり前だが)武道の授業は分かりません。ただ、剣道の方が痛く無さそうだからか、ちょっとスマートっぽいイメージからか人気があったと思います。確かに剣道を選択していたのは、比較的オシャレと言われている男子に多かったです。だからと言って柔道を選択していたのがイモい男子ばかりだったということではありません。
実生活では道具が要らない柔道のほうが、暴漢に襲われた(日常的にあるのか?)ときなどに役立ちそうな気がします。K1選手とかプロレスラーには柔道経験者も多いことですし。もし私が授業でどちらかを選べと言われたら、ボクシングを選びます。(はーい、ココ笑うところですよぉ)


@人気者・有名人
まずは生徒会関係者、成績優秀者、運動部のエース、人懐っこくて友達が多いコ、美男美女というのが挙げられますね。特に1,2年生の間はみんなが知ってる有名人が上級生にいたものです。しかし、3年生になると下級生に興味は無く、せいぜいOOちゃんの妹弟を見に行くってくらい。同級生は冴えない人(自分も含め)ばかり、誰々の噂話という楽しみも無くなっちゃったなぁ。というのが思い出。
特に有名人もいなかった我学年ですが、美女は多かったと思います。美男を挙げろと言われたら困ってしまいますが、美人や可愛い子なら10人以上挙げられます。Mちゃんが5人、Tちゃん、Yちゃん、Kちゃんが2人、Sちゃん・・・別に男嫌いでもレズでもありませんが、美しい女性は今も好き。
あなたが思い出す人気者はどなたですか?


@文化祭
文化祭ってイマイチ思い出が少ない。
文科系クラブ活動の発表会の場といったところでしょうか。クラスでも何か出し物や催し物をやっていたかどうかも覚えていない。そもそも文化祭が平日だったのか、他校の学生も見に来る土日にやっていたのか。さっぱり覚えていません。土日にやるのは3年に1度位だったかな?
覚えているのは、生物部で血液型チェックをやってもらえたとか、茶道部のお手前披露は人気があったとか、バンドをやってる人たちが体育館で演奏していたナということくらい。

後日談:
姉に聞いたところ、文化祭には大文化祭と小文化祭があり、3年おきに大文化祭をやったそうだ。
姉は3年生の時に大文化祭があり、クラスの出し物として喫茶店をやったとか。私もその喫茶店に行ったような記憶はあるが、さて自分のクラスは何をやったのか何もしなかったのか。担任が国語の先生だったので、グループごとに新聞でも作ったような気もしますが、覚えてない。
そういえば他のクラスでは”お化け屋敷”や”ビデオ上映”、”学級新聞の形で○○について問題提起”なんて企画があったような気もする。確かに暗幕で真っ暗にした教室がいっぱいあった。やっぱり他校の学生が来てくれる文化祭のほうがワクワクしますよね。当時の荒尾高校は付近の高校の中で一番新しかったので、他校の友達に「校舎がきれいだね」と言われたナ。

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@高校説明会
中学3年生の時に荒尾高校の学校説明会に参加した。
あの当時としては、熊本県内でも新しい校舎ということで、予算が付けばエアコンをすぐ設置できるような造りになっています。という説明だったが、とうとう在学中にエアコンは入らず。もしかして、現在も付いてないのかもしれないなぁ。バブルの時期くらいには予算がとれたかな?
夏は暑かったとも思うけど、何より風向きによって漂って来る工場の悪臭がたまらなかった。鼻と目に染みる臭いがキョーレツでした。
そういえば、工業地帯の学校ってことで公害対策費が付くだろうし、贅沢でエアコンを付けるわけじゃないから大丈夫と言ってた気もする。しかし所詮は国や県の景気が悪いと教育環境に予算は付かないんだなと諦めたあの頃。


@受験勉強は4当5落
受験勉強といえば、4時間寝るくらい勉強すれば合格するけど5時間寝ちゃったらダメかもという話。3当4落は身体を壊すので逆効果。
私は受験のための勉強というのをしたくなくて、6時間くらい寝てました。TVも見てたし。

確か私よりも3学年くらい上で、当時の校長の息子さんだった方が東京大学へ入学されたのは、かなり話題だった。進路指導教室前から渡り廊下に大学合格者名を張り出されるのだが、なにせ私立大学・短大・専門学校への進学がほとんどで公立大学へ行くのさえ数名だったので東京大学というのは燦然と輝いていたことでしょう。過去5年くらいの先輩方の進路先リストを在校生はもらうが、在学中「東京大学 1」というリストを見た。やっぱり先生方も、教え子が有名大学に合格するのは自慢なんでしょうね。
荒尾高には、成績で露骨に態度を変える先生はあまりいらっしゃらなかったので、先生と生徒は割と仲が良かったと思う。2年生まではね。3年になったら、新任校長の教育方針で、急に成績や進学先に厳しくなって、先生と生徒の関係がギクシャクしちゃったのが残念だった。

校長の新任挨拶が「「こんな高校に来たくなかった。T高校に戻りたい。」だったので、唖然としました。これが校長という役職に就く教育者の言うことかと思いましたね。しかし、荒高生は大人だったので、ヤジを飛ばしたり、怒ったりはしませんでしたが。今、思い出しても、可哀相な方でした。


@家庭訪問
高校生なのに今更?と思ってた家庭訪問制度。
校区が荒尾〜玉名郡部までというと30キロくらい離れた所から通ってる学生もいたし、学区外の飽託郡(現在の熊本市)から通う越境入学者もいたし、無理にやらなくても良さそうでしだよね。当時何を話したていたのやら。
勉強部屋を見る先生がいらしたのは覚えている。だいたい遠い所の学生から訪問が始まっていたので玉名の私は”何の話がでて、訪問時間は何分か”ってのを報告する義務があった。「勉強部屋を必ず見られるよ」って言った時はかなり皆慌ててた。私は姉と同部屋で、ちょうど姉が受験勉強中だったこともあり早々に切上げられてホッとした。


@学生カバン
パンパンに膨らんだブタカバン=ダサイは荒尾高校だけでなく日本中共通の意見でした。(大げさ?)
教科書は、ロッカーに入れてました。それでも、英語とか古典とか予習復習が必要な教科は教科書を持ち帰ってたし、辞書も重くて大変でした。私は特に変形させてはいませんでしたが、カバンのマチ部分を全部切り取ってペンケースも入らないくらいペッタンコにしてる人もいました。カバンと言うよりも手に持つアクセサリー?

他に、持ち手を替えて腕に通せるくらい長くしてる人も。銀蝿の歌でいえば持ち手に巻いたビニールテープの色で意思表示ってことなのでしょうが詳しいことは覚えていない。
後は、ステッカー貼ったり、ペイントマーカーで落書きしたり、ヤスリで表面を削って裏皮みたいにしちゃったり、やり過ぎて逆に普通のオヤジカバンみたいになってたりした。それがカッコいいのか?とは思ってましたが。
私はせいぜいステッカー貼ったり、キーホルダー付ける程度。


@荒玉大会(県体だっけ?)
運動部に入っていなかったので記憶は薄いけど、運動部員はトーゼン参加、それ以外の学生は応援に行こうってことで授業が休みだったと思う荒玉大会。荒尾と玉名にある高校8校で戦う。もちろん私も爽やかな初夏の空の下、荒高生の応援に行ったことは・・・無い。
ただ他の高校に行ってた友達が弓道部で、その応援に玉名の繁根木神社に行ったことがある。どっちかというと、学校公認で休める日という印象。運動部のみんなゴメンネェ。


@体育祭
体育祭といえば「えっさっさ」ですね。
日体大出身の先生の指導により始まったと聞きましたが、いつ頃から荒尾高校でやり始めたかは不明。
それと散々練習したナと思い出されるのは応援の人文字です。放課後練習するんだけど、いかんせん体育祭は学年対抗なので団長も団員も同級生。「ソコ間違ったぞ」なんて言われても最初はビクッとしてても、数日経つと「偉そーに、うるさいんだよ」って空気がただよって、険悪なムードになったことも。体育祭直前の緊迫した状況で間違うと、みんなの前に出て謝らなければならなかったです。「すんまっせーん、すんまっせーん、すんまっせーん」と。ヲトメが「すんまっせーん」なんて言えないわぁ。
私の在学中には9月にやっていたが、今はどうなんでしょう。他の高校と同じように春にやってるのかな?ちょうど理数コースができたあたりに体育祭が春に移ったような話を聞いた気がする。

確か玉名高校では縦割りの組分けなので応援団長の3年生と言えば、生徒指導の先生よりも怖かったとか。
玉名工業高校の体育祭では借り物競争では、絶対「荒尾高の女子」とか「玉名女子高生」というオタノシミ借り物を作るのがお約束だったとか。
玉名女子高校では、自作のユカタを着て踊ったりとか、凝った仮装行列が面白かった。体育祭以外でも、バトントワラーとブラスバンドは有名。
玉名農業高校では、大根踊りをやってたと思うけど違ったかな?(確認しました。玉農では大根踊りはやってないそうです。大根踊りをやっているのは熊本農業高校だそうです。)
有明高校、専大玉名高校、南関高校の体育祭は行ったことが無い。済みません。


@修学旅行
私のひとつ下までは修学旅行先は京都奈良方面で、2つ下からスキー修学旅行になった。今はどうなんでしょう。外国にでも行ってるのでしょうか。時期も11月頃だったけど、前に書いたとおり2学年下から2月くらいになった。
私のクラスは選択コース(自由行動?)でお寺廻りをしたが、他にサイクリングで散策したりするのと、もうひとつ何かをするのを選択できたと思う。私のクラスが一番地味なコースだったが、雨が降ったこともあり結局は一番有意義なコースだったと後で言われた。
学年全体で同じ場所に行く以外の、この選択コースは前年まではクラス単位でなく、個人単位で行きたいコースを選べていた。なので、違うクラスに彼氏や彼女のいるコ達は一緒に行動できるチャンスだっただけに、かなりガッカリした人も多かった。

京都の京極で買物をしたが、熊本市のアーケード街に比べたら小さなアーケード街で「京都ってこの程度?」と思ってしまった。京都には京極だけでなく他にデパートやファッションビルがたくさんあって街の規模は比べ物にならないとは想像したが、ここのしょぼいアーケードには勝ったな。と思ったね。

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@雪
雪が降るとよく電車が遅れたり止まったりしました。しかし、熊本なので大雪が振るのは10年に一度くらい。それでも雪に慣れない土地柄のせいか少しの雪でもダイヤは混乱しました。たまたま無人の南荒尾駅を使ってるときだと、荒尾駅職員がアナウンスするのをスピーカーで聞いてガッカリして電車を待ったりバスで帰るか友だちの迎えの車に便乗するか、となんとか帰り着く方法をあたるのが大変でした。
大雪が降ったといえば、高校2年の時の1月半ば。ちょうどセンター試験の日で先輩方は大変だろうなと思いました。
他に、台風や大雨後の洪水でもダイヤは狂ってましたね。さらに人身事故があると1〜2時間は電車が止まることも。都会の電車は人身事故でも20〜30分くらいで復旧するので驚きです。


@雨
雨が降ると、荒尾駅からのバスがとても混むので友達4人でタクシーを使ったりしていました。しかし、それも1年生くらいまでだったかな。だんだん便利よりも出費のことを考えて南荒尾から自転車で通い、雨が降ってもレインコートを着て自転車を使ってました。他に自転車通学に変えた理由は、地元の友だちと遊ぶのに便利だったから。


@昔バカ話
高校の頃、昔話をパロディ化した話がたくさんありました。
浦島太郎が竜宮城へ行って、勝手口から外に出ようとしたら戸が開かず「裏閉まっとったろう?」と亀に言われたとか。なぜか熊本弁です。「うらしまっとったろう、うらしまったろう、うらしまたろう・・・」
花咲かじじいは、ポチが「ここ掘れワンワン」と鳴いた場所を掘ると大判小判がざくざく!というストーリーだったが、だんだん花咲かじじいにも欲が出て来て、ポチが前脚で一生懸命穴を掘っているのを見て、花咲かじじいが「そこをどけ」とばかりにポチにしがみついたので、ポチが「はなさんかじじい」と言った。とか。

川でおばあさんが桃を拾って切ったら、桃太郎が真っ二つに切られた状態で出てきたとか、包丁で切られないように桃の半分側にすごい体勢でよけていて無事だったとか。白雪姫がリンゴを食べて眠りつづけていたが、王子様のキスで目を覚ましたものの王子があまりにもブーだったので、寝たふりをしたとかというものです。
などと書いたものの、結構記憶があいまいでうろ覚えです。あなたが覚えている話は何かありますか?話の出所はラジオか何かだったのでしょうか?毎週のように新しい話がクチコミで広がってました。


@ホラー映画と都市伝説
70年代〜80年代あたりにホラー映画が流行りましたねぇ。それこそ、新作ホラーが上映されるたびにアダ名が変わる友達もいましたが。
TVでも横溝正史シリーズが立て続けに放映され、映画の不気味さは今でもはっきりと覚えています。Gメン75とか西遊記といったTVドラマシリーズでも夏場になると怪奇モノが扱われました。ガードマンにもありましたが、これは古過ぎで知ってる人は少ないでしょう。
他に、ローズマリーの赤ちゃん、アイドル総登場のハウス、ポルターガイスト、チャイニーズゴーストストーリーなどもありましたね。

当時のホラー映画のベストスリーといえば、私はエクソシスト、オーメン、キャリーです。プラスコメディのホラーといえばバタリアンも面白かった。
特に主演の少女が撮影後に死亡したということで、怖さが増した映画もありました。私は最近まで、その映画はエクソシストかキャリーだと思っていました。そして、DVD化されたことでビデオ屋で借りてエクソシストを見たところ、オマケに出演俳優の撮影当時の思い出があり、主演のリンダ・ブレアが出ていたので「あぁ女優が死亡したのはキャリーだったんだ」と確信しました。
ところが、キャリーのDVDを購入してビックリ。キャリーでも主演女優のシシーが当時の思い出を語っているインタビュー映像が・・・
いったい私が「主演女優が死んじゃったなんて怖くて見られないよ」と思った映画はどれだったのでしょうか。「ポルターガイスト3少女の霊に捧ぐ・・・」のメリーアン役のコだったかなと思うのですが。それとも、そもそも主演女優が死んだ映画はあったのか?その噂自体が、口裂け女と同じ都市伝説だったのか?今でもナゾです。


@夕焼けと日没
大人になると夕焼けをぼんやり眺めるってこともなくなりましたが、南荒尾駅か荒尾駅を利用していた私は、冬の日没だけは鮮明に覚えています。南荒尾駅で電車を待つ時に、自分が降りる駅に丁度いい場所で電車を待つと、ホームの照明が届きにくい位置でした。冬至頃の一番日没が早い時期だと、5時45分に完全に真っ暗になっていました。夏だと7時過ぎまで明るいのですが、冬の早い日没と強風の南荒尾駅は相当寒かったことが思い出ですね。それでも、当時はスカート丈が長かったのでなんとか我慢できましたが、現在の高校生のようなミニスカートだったら、ひだ下全部が霜焼けになってたかも。
クラブ活動も夏と冬で終了時間が違ってたと思いますが、南荒尾駅と夕日ってチョット淋しげで青春のイメージに合いますよね。
朝の思い出では、南荒尾駅に到着してゾロゾロと荒尾高校生と有明高校生がホームを歩いている時に、よく突風が吹いていました。荒高生はスカートが長いので安心だったのですが、スカートが膝丈の有高生はスカートを押さえるのが大変そうでした。

@献血
年に一度程度、献血車が学校に来ていました。
確か私が3年生の時に、友だち達が献血したいというので付き合いで一緒に行きました。友達は看護学校進学希望で、意欲満々で臨んだのに数名が事前の検査でハネられ、単なるお付き合いだったはずの私はオッケーでした。かなりショックでした。あの当時は、献血経験者はいざ輸血が必要な場面で優先的に受けられるという特典があったので、まぁいいかと自分を納得させようと思いましたが、次々と友だちが帰る中、さびしく献血したのは強く記憶に残っています。
そういえば、ここ10年以上献血をしていない。たまには献血してみようかな。ただ、腕の脂肪が多くて血管が探し出せないと言われそうでヤバイ。


@中庭
3年生の校舎と図書館がある校舎の間が中庭でしたが、ここでたむろしてたのは3年生が多かったと記憶しています。特に1年生は通過しても、そこでお弁当食べたりおしゃべりしたりするには敷居が高かった。そういえば2年生の校舎から雨の日に売店へ行こうとしたら3年生の校舎を通らないと遠回りになったと思うが、あまり他学年の校舎を通っていたような気がしない。図書館側の廊下を使ってたのかナァ?さすがにその辺はおぼろげで分かりません。

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@アイドル
当時のアイドルといえば、「たのきん」「松田聖子」「中森明菜」「しぶガキ隊」「吉川晃司」「チェッカーズ」とかいろいろいましたが、今のアイドルとはちょっと違う映画界のアイドルがいましたね。専ら角川映画の薬師丸ひろ子と原田知世を指しますが。薬師丸ひろ子の映画とか見ようと思ったら、立ち見覚悟で行かなきゃいけなかったですよねぇ。
エーッと何かコメントを書かなければいけないでしょうが、あんまり無い。
10代でイメージが固まると、なかなか20代後半〜30代の山を越えられないという前例を作った方々ということでしょうか。たぶんヒロスエあたりも「10代顔」なので、20代後半からのヤマ(セクシー、優雅、母性的、理知的への変革)を越えられないのでは?と踏んでいますが、どうでしょう。

あぁ、ゼンゼン当時の話になっていない。あの当時アイドルのファンだったら今ごろ、カラオケでファンだけが知っているLPに収められている名曲を歌ったりできただろうに。もう帰れない。やっぱり、流行には乗っとけ!友だちがハマってることにもとりあえず頭つっこんどけ!という教訓です。松田聖子の「制服」って曲を知ったのも25,6歳だった。遅っ!!
流行や世相とはちょっと違うけど、最近になって学生の頃ダンパに行かなかったことを後悔している。合コンはやったんだけどねぇ。先日7歳下の人と話した時、ダンパの話が出て「ダンパってどういうの?」と聞いてしまった。自称ワサモンなので、たぶんみんなが行っていたであろうダンパを自分が知らなかったことは、かなりショックだった。(結局、愚痴かい?)

@桜
学校といえば桜の木は付き物ですね。憑き物。異常に成長が良い木というのは根っこのあたりにその昔。。。(関係ない方向へ行ったので強制終了)
九州だと桜の開花が早くて、卒業式には遅いものの、入学式あたりではとっくに散ってしまってたりする。で、一番の見頃は先生方の退任式頃(3月31日)。いつも「何だかなぁ・・・」と思ってグランドの周りの桜を眺めていました。課外授業は春休みにあっていたのかどうかは記憶に無いのですが、クラブ活動も適当だったので(私の場合です)、退任式のために久々に登校すると、桜が素晴らしく満開だったりしてウットリしたものです。でも、日が日だけにナンダカナァなのです。

話は変わるが、中学高校と卒業式が厳か過ぎて好きじゃなかった。なんだかジットリしてて、ビートルズのレットイットビーなんか流れて感傷的で嫌だった。まぁ、ちょっと淋しいって気持ちもわからんでもないが、私自身、根が暗くて冷めた性格なので暗いとか感傷的とか涙とかが大キライだ。でもって、嫌いとかイヤだと言えないのが、また辛かった。行進曲とかダンスミュージックとかを流してくれ〜。
親の気持ちになれば厳かで重厚でしんみりするのがマッチするのかもしれないから、雰囲気が変わらないだろうというのは理解する。私が自分の卒業式に出ることはないし、今さらどうでもいい話をここまで語る私は一体ナンナンダァ・・・自分の中で回線がショートしました。強制終了!


@眼鏡
眼鏡やコンタクトレンズ使用者は半数以上いたと思う。普段はかけなくても、授業中だけ使用するコは多かった。私はゴケ茶のセルフレームを使用していた。
ヤンキー系で流行っていたのは「45度メガネ」と呼ばれる横から見ると下の方が頬骨に当たる程ひねったタイプ。しかし、荒尾高校には怖い系ヤンキーはほとんど居なかったので、さすがに45度メガネは見かけなかったと思う。いや、数名いたナ!
多かったのは、銀縁メガネ、コゲ茶色のセルフレーム。今思えばアラレちゃんのようにでっかいメガネですね。アラレちゃんメガネって言って若いコにも通じるのかな?ちょっと不安。その他、いわゆるレイバンの当時の定番なすび型の眼鏡の人もいた。

メガネのレンズは、当時片方1万円前後していたが、最近では両眼で1万円程度なので、随分割安になったものです。そうでなくても、フレーム込みで5千円程度で作れるメガネ店もあるし、もう消耗品ですね。

@制服の着方(女子限定)
冬服の上着は、ウエストから下15センチくらいの丈で短く、ウエストもシェイプされていて割とカッコ良かった。特にナイスバディなコが着ると、今でいうコスプレ以外のナニモノでもない。
中のブラウスはワイシャツだけど丸衿タイプでエンジ色のリポンを巻くのだが、必ず蝶結びの結び目は1cmくらいしか出さず、超小さく結ぶのがオシャレとされていた。
これも、今考えるとナゼそれが良かったのか、普通にでっかく結んでるコがほとんどいなかったのはナゼか。と思う。ある意味脅迫的に「小さく結んで無いとセンスが悪い。ダサい」という空気があったのも事実。

夏服は変形セーラー服だったが、光多制服店だけは生地が違って柔らかく、オシャレ系ヤンキー系のコ達が好んで作っていた。個人的にはヘナヘナの生地は好きじゃなかったが、スカートと共布で作られた上着のネクタイの柔らかい感じと、袖を2,3回折るとちょっとパフスリーブっぽくなるのはイイと思っていた。
コートは紺色のステンカラーコートで、寒さ対策&カッコイイ着方というのは、衿と衿をボタンで留め、スタンドカラーのように着ることだった。
制服の着方というのは、誰が決めたわけでもなく、なぜか「こう着なければダサい」という空気があって、かっこいいのかどうか考える余地も、そもそも考えるということ自体をしたことが無かった。他の高校の生徒から見たら「変だなぁ」と思われていたのかもしれない。


@セメント袋
流行ってましたねぇ、セメント袋(そんな流行を知らない方に説明しますと、30キロ入りの米やセメントが入ってる茶色い袋ね)。
現役の高校生に言っても「アサノとかヒノヒカリとか書いてあるあの袋が流行るって何?」と思うだろうけど、洋服などのブランド名や、ユニオンジャック、NEW YORKなんてロゴが入った袋が売られていて、体操服とか入れて持ち歩いてました。ただのごわごわした袋で取っ手もついてないので、荷物が多いと持ちにくいし、雨が降ったら学生カバンにセメント袋、傘とホント大変でした。

じゃあ持つなよ。と今では言えますが、思春期の高校生はオシャレかどうかが優先なのです。
と、書いたところで思い出したが、「悪貨が良貨を駆逐する」ってのをもじって「○○は○○を駆逐する」って言い方が流行っていた。たぶんJJとかfine、HotDog press、popeyeなどの雑誌で特に使われていたので、都内の高校生〜大学生の間で流行り雑誌を通じで全国へ広まった。はず、確か、だと思う。だよね。

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@初めてのフレグランス
20年前の学生なんて、今に比べたら幼いものです。中学生で制汗剤を使うくらい、高校生でコロン程度をやっと使うくらいでしたでしょうか。脂取り紙なんて無かったし。
男子高校生は、タクティクス。女子高校生は、資生堂のシャワーコロンが定番でした。
体育の授業後は、いろんな香りが混ざって更衣室や教室がひどい臭いになっていました。
私自身、薔薇の香りが苦手で同じクラスのYチャンが体育の授業後にソレをたっぷり振りかけて来るので、結構辛い思いをしました。でも軽めのコロンだし、一時間の授業が終わる頃にはプンプンした匂いは収まっているので、しばしの辛抱。オンナの子のオシャレ魂に、とやかくいうのは野暮。


@髪型に命を懸ける
なんといっても聖子ちゃんカットですね。
くるくるドライヤーとか、アイロンでカールをつけて後ろに流す。毎朝のドライヤーやコテでカールをつけるのに疲れた女子高校生はパーマに手を出してしまうのだが、それはそれで水泳の時間の後で四苦八苦するのだ。

他に肩くらいのおかっぱで、分け目をつけず前髪を短くしてパーマをかけ、まるでランチュウ(金魚)のような、カリフラワーを乗っけたような髪型もありました。極端な段カットでしたが、何と言ってオーダーすればあの髪型にしてくれたのやら・・・
トンガッテル系の女子高校生は、ベリーショートにしてディップ(ガチガチに固まるジェル)でツヤ&セットしてリーゼント風にする。これはプラスチックスの佐藤千賀子さんあたりがお手本。または、ロングヘアーにオンザ眉毛にし絶対笑わず無表情で決まり。お手本はモデルの中川比佐子さん。ちょうどハウスマヌカンとかDCブランドブーム、テクノブームだったんですよね。

お嬢系女子高校生は、アゴあたりのワンレンで、前髪を全部上にあげてピンもしくはゴムで留めていた。この髪型をしたコばかりが3人以上で歩くと、大人しそうなはずの雰囲気が逆に連帯性を高め組織外の人を拒絶する武器になる。
今も昔も、女子高校生は自信にあふれ孤高の精神を持っていたってコトですな。


@靴下は折る
制服のスカートと靴下の関係は、常に出ている脚の量は一定という理論(?)があるが、膝下10センチ〜25センチくらいだったので、靴下は短かったですね。その上、短いソックスをさらに折ってくるぶしが出るほど短かった。
靴下をそのままの長さで履いていると「脚が太く見える」と言ってました。確かに、ふくらはぎの一番太い位置で靴下が止まっていると「私のふくらはぎサイズはこの太さです」って主張してるようだし、膝下に色のコントラストがあると長さを2等分にしてしまうので短く見えるよね。そう思うと、センスとしては間違っていない。
冬は肌色ストッキング&白ソックス、または黒タイツそれも当時は分厚いタイツが少なかったので、寒かったら2枚重ねなど。
男子学生服に白ソックスはダサいというのが自論ですが、是非止めて頂きたい。


@教科書購入
教科書は荒尾一中そばの本屋に買いに行かなくてはいけませんでした。私には姉がいて、なんだ共有できるジャン!と新しく購入しなかった教科書がありました。一応、英数国以外の教科書でね。しかし、そこで教科で差別をしたためか、英数国以外の教科をバカにしたバチが当たったのか、微妙に教科書の文言が違ったていて授業中に戸惑うことも多く、後々後悔しました。本当に勉学をしたい在校生の皆様は真似などされませぬように。お下がりが通用するのは、制服やカバンだけです。ハイ。


@ロバのパン
実は食べたことが無い。ロバのパン屋のライトパンも荒尾で初めて見ました。話では蒸しパンだとか。
1年生の時に授業中突然あのメロディーが聞こえ、向かいの山の下を通る道をロバのパン屋さんが通り過ぎました。あれが噂のロバのパンかぁ、と玉名育ちでロバのパンを見たことがない私は感激しました。

@テクノカット
テクノカットで決めた”オシャレ”と評判だった男子がいたが、彼の私服姿を見て、かなりの女子が引いた事があった。なぜ、学内で私服で会う機会があったのかは不明だが、あの日さえなければ彼の栄光にキズは付かなかったろうに・・・合掌


@茶髪
あの当時は黒髪が多かった。と記憶してたものの、茶髪(当時は茶髪なんて言葉は無いので脱色か、茶色に染めることですね)もいました。
私も前髪(の内側)を脱色していました。真面目なじょしこーこーせーと自分で言っておいてボロがどんどん出てくる私。いくら真面目といっても生真面目ではなかったので、そんなもんです。

でも、コッソリだか堂々とだかパーマをかけてるツッパリ系のコがさらに脱色してたくらいで、多くはなかったですね。脱色の定番はオキシドールでした。なので、大して脱色もできず室内では黒っぽく、日光の下でだけ脱色してるかな?と分かる程度です。可愛いもんですね。第一私は顔立ちも存在も地味だったので、私が多少違反しても先生から怒られなかった。っていうか「自己主張してます。アピールしたいのよ。」と言ってるような判りやすいタイプだと、先生も叱ったり注意したりしやすいもんね。目に付かなければ干渉されることも無いのだ。自己主張は、学校以外でやるに限る!

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あなたの昭和55〜58年はどうでしたか?この文章で、何か思い出すことがあれば嬉しいです。