旧・煩悩の鳥辺野(1998.7.25.〜2000.9.15.)
死ぬのが怖いなら生きてればいいやん 死にたいなら死ねばいいやん 親 兄弟 他人なんてほっといて 好きなようにすれば? けっきょく なんだかんだ言う奴は 逃げてるだけ すがってるだけ 主なんて いないよ 人々を愛し許す訳ないやん 人が作った逃げ道だよ バカボンのパパの方が人間の神的存在に近い
私は死んじゃわない方が怖いな。 ずっと生きてることの方がきっと耐えられない。 だからといって、別にいますぐ死ぬ気なんて更々ないけどね。 いつかは絶対死んでしまうから生きてられる。 おわりがあるから。いつまで生きてればいいのか そんな終わりさえ見えないのにずっといきてなんていられない。 私も死ぬ、私の大事な人もいつか死ぬから そのときは私も安心して死ねる。 別に死後の世界や天国であえるなんてそんなことは なくてもいいの。
僕は24ぐらいから、死ぬことを明確にイメージするようになり ました。ひどく、辛い作業だけど、ある一点を超えれば、すごく 気持ち良いことに気づきました。力が抜けて、宇宙を飛んでいる ような気持ちになります。死ぬ間際って、とてつもなく辛いけど、 同時に、至上の快楽に身を委ねることになるのでしょう。
私も1週間ほど前に、掲示板再開しました。トップや 映画の広場 や リンク のページも新しくしました。(また一度ごらんください。・・・) 最近,聞いているCD(賛美歌)・・・・ 主の受けぬこころみも 主の知らぬ悲しみも うつし世にあらじかし いずこにもみあとみゆ 昼となく夜となく 主の愛に守られて いつか主に むすばれつ 世にはなき まじわりよ・・・・・(賛美歌 532番) イエスさまは わたしたちの 汚い面も、醜い面も みぃ〜んな みぃ〜んな ご存知で、それでも 愛して愛して いてくださるんですね。 だからだから 安心していられるんですね。 http://www3.osk.3web.ne.jp/~prince77/
どうしてみんなそんなに淋しいんだろう。 最初から一人でいれば淋しいという気持ちも感じずにすむのに。 身近な人の死が続き、私は死ぬのが怖くなりました。昨日いた人が 突然いなくなるという恐怖。いい人も悪い人も、若くても突然死んでしまう 現実。私もいつかと思うと怖くてたまらないのです。いつも焦ってます。何か しなきゃと。
普通 一般人にあてはまる人って 群れてないと死んじゃうの? 異常と呼ばれる人は一人で生きてるのに・・・ けっきょく多数決なの? 多い方が正しくて少ない方は変? 個人的な意見ですけど 群れてる人ってさみしいんじゃない? 群れてなきゃ生きてけない 傷舐めあってるただのなぐさめ? そんなの たのしい?
死にたいって想いはあります。けど そんなんあとでいいやん って 思えてきました。 いつでも死ねるんやから そのまえにって・・・ こんな僕でもココロから心配してくれる他人がいるのだから・ 死にたいってわがままな事ですね、 世界が怖くって他人が怖くって逃げてばかり・・・それが死(自殺) いつでも逃げることはできるのだから すこしだけその人たちの ため に生きてみようかな?
私も若い時何故死は身直に存在するのに己には来ないのだろうと、敢えて危険に身を曝すことをやりました。美しいものを美しいと感じ、愛しいものを愛しく思うそんな素直な気持を持つことができることが生きていることであり、 大切にしていくことが死をむかえるまでなさねばならぬ生きる者の勤めかなと、死を思うよりも生きる思いを常に大事にしています。死はどういう形であれ必ず訪れます。その瞬間走馬灯のようにそれまでの人生が脳裏に見えると言うではありませんか。俺の人生を生きたなって笑って死にたいですね。
他人がある脅威 他人がない脅威 あたりまえであたりまえじゃない事 その脅威から逃げようと死を望むモノ 死を脅威とカンジるモノ 何もできないジブン 簡単な事なのにね・・・
人間一般が死んでいるからといって、なぜ自分も死ななければ ならないのか。自問してみなさい。 そもそも自分は「あれら」と同じ意味で人間なのか。 実感から言ってどう考えても死ぬはずはない、でも 「冷静に考えてみれば」死なざるをえない。でも、それは とても受け入れられない。自分が死ぬなんてありえない! でも、冷静に考えてみれば、死なざるをえない。いやしかし 死ぬなんてありえない。でも・・・。しかし・・・。 抜け道はどこにあります? 同じ所をぐるぐる回っていることに気付きませんか? 死ぬことを受け容れていたとすれば、死ぬのが怖いなどと 言い出すでしょうか。言い出すはずがありません。では 死ぬのが怖いという時、何を怖がっているのか。自問して みなさい。 「何が」怖いのか----それを確かに自分で掴めますか? 「死ぬのが怖いんだ」と言うかもしれません。 ですが、怖がっているのは、死、そのものではありません。 死が怖いのだとすれば、なぜ不老不死が問題の解決とは ならないのか。 自問してみなさい。他ならぬこの私が死という概念を 受け入れる必要など一体どこにあるのか。 人間や死といった概念を他人に対してだけでなく自分に 対しても適用しようとする必要はどこにあるのか。 ----- 人間や死といった概念が自らに要求するものが自分の 正直な実感と合わないからこそ、苦しくなるのです。 言葉と観念によって自らの実感を無理やり特定の型に はめようとしていたことに気付けば、苦しみは消えます。 一瞬、気付けば、それで終わりなんです。憑き物が 落ちたように楽になります。どうか気付いてください。 私は坊主じゃないけど、坐禅がおすすめです。 ただ坐って楽にしてれば、気付くのがぐんと早くなります。 坐禅といっても、坐って楽うーにしてるだけでいいんです。 なーんもする必要はありません。なにもしないことを学ぶんです。 早ければ一月くらいで気が付くでしょう。
しばらくお返事が無かったので、少し心配してしまいましたが 掲示板が直ったようで良かったです。 さて、回答をありがとうございました。 私も安寿さんに似た死の恐怖に関わって生きているのですが、(きっと同じでは ないかもしれませんね)私はこれは単に死の恐怖だけではないような気がして、 何か元があるのではないかと考えているのです。 そんな時に安寿さんのHPを見つけたので、是非聞いてみたく、前回のような質問 をさせて頂いた訳です。
確かに、見てると、人はどんどん死んでく。 ・・・でも、どうして私も死ななきゃならないんだろう。 --- 答えを待ってみる。
突然、管理者の私もしばらくこの掲示板から閉め出されておりました。 そして、ちょっと探してみたら、7月23日以降の書き込みが消えた 状態の、いわば掲示板の屍のようなものが、まったく違ったサーバーの 上に見つかりました。 この掲示板はそもそも、私ではない人々の要望に応える形で消極的に 設置したものですから、わりと管理がいい加減になっていることは否め ません。 いまさらここに舞い戻られることもないと思いますが、今月書き込んで いただいていたメッセージについて、一応コメントみたいなものを添え ておきます。 >23歳学生さん >>2ちゃんねるですか・・・。一通り見ましたが、 >>どの議論も見当違いです。あなたの苦痛はこんなごたくを >>並べても解決するわけではない。そうでしょう? おそらく、私が適当に「2ちゃんねる」のURLをご紹介した意図を、 誤解なさっているのでしょう。私がそこに、何かを得るために議論を 読みに行くということはまずありません。 >toucherさん >>安寿さんは自分で問題を解決するために >>何かやっていることとかありますか? 解決する必要を感じていない問題に対して、 解決するために何かするということはしていません。 そのつもりはないのに、いつの間にか解決してしまっ ているということが、そのうちあるかもしれません。 そもそも、「問題は何か」というところにさえ、私は 到達していないだろうし、どんなに近づいたとしても 無限に近づき得ないような気もします。 >日歌さん >>寂しくて世話焼きたがる若者に出口示せどしたいつのらす >>怖いのは死にたいからと心得てせっせと死ぬのが生きることかな 削除という粛正しても肉片がありてデータは死に損なえり 怖いという感覚なくすそのときはそれが私の死であるのだろう
「突き詰めると」::=論理的に考える時に、思考を成り立たせる 前提を検証し、前提の前提を検証し、その前提を検証し、 絶対的な解答を求めつつ相対的でしか有り得ない論理の中に 絶対的に無条件に正しい前提を探してまわること。 「無へ辿り着く」::=論理思考に絶対的な拠り所がないということ。 「考える事も無」::=絶対的な意義、意味、価値、正当性を 探すのが人間の思考の基本プログラムであるが、 もともと相対的でしかありえない意味だの価値に 絶対性を探して考えるのも無駄ということ。 「好きになることも無」::=好き嫌いや感情にも絶対的な意味 があるわけもないし、感情も二元的な論理構造がある。 「何もかも無」::=絶対と言う事は、対立が無いということであり、 分離がないことであり、「存在する」という仮の視点から眺める ならすべては無である。ただし、無に辿り着いたりするものは 無い。無は絶対的に無で、存在は分離の幻想だとも言える。 「何らかの存在という幻想」が消滅する事はあっても幻想が 無に到達したり降り立ったりする事はありえない。 同様に「考え」も失速して消える事はあっても、無に考えが 辿り着くのではない。 主体・客体を云々するなら、無は絶対主体であり、 人間を含む存在の意識の核である。 だから、絶対的な意味を探して、自分の中心の暗黒の 沈黙に戻って来たのなら、そこにどんどん落ちる事だ。 落ちると言ったが、拠り所が全く無くて重力感が無いから 落ちるように錯覚しているだけで、実は浮遊していると 言った方が近い。 無に帰る事など不可能だ。無でないものなどないのだから。 分離があって始めてどこかに行ったり、帰ってくる事が出来る。 分離を前提とした相対的な論理を絶対的なものと思い込む 馬鹿な癖が、不幸の源泉だと言える。 信仰の道でも中間管理職の神でなく、絶対的な神に向かえば、 それが何も言わない事を知る。 その時完全なる沈黙があなたの中にも外にもある。 「神」などという陳腐な呼び方は全く似合わない。 それについてどうこう言う事すら馬鹿馬鹿しい。
皆無。全て突き詰めると無へと辿り着く。 考える事も無。人を好きになることも無。 何もかもが無へと辿り着いてしまう。 生きる事も無。そして、死ぬことさえも無。 皆無。無から始まり、無へと帰る事ができるのかわからない 人は死んでも無へと帰れない。灰となり骨が残る。 いつかは死んでゆく自分が、死へと向かい生きている自分が 意味なき者と自覚しても、その考えさえも無へと辿り着く・・・
こんにちは、突然ですが、僕は以前車に後ろから不意打ちで跳ねられまして、 実際はかすり傷だったんだけど、その時の何秒か(心持ち3分ぐらい)で、 「ああ、俺の人生こんな所でフィナーレなんだ」なんていう今にすれば 恥ずかしいことを考えました。 その何秒かはかなり本気だったんですが、恐怖とか未練などは特に感じませんでした。
ってゆうか尊師さん、あんたのその「生きる」ってゆう言葉は一体何を指して言ってるんですか? 「生きている自覚」ってどうゆう意味なんですか? 「信じる」とちがって、「生きる」は生物として避けられないものだから、 自覚的であろうとなかろうと、生きていることに変わりは無いんじゃないんですか? 人間は死を知っているから、そのせいでいってみればどいつもこいつも多かれ少なかれみんなが自覚を持って生きてると思う。てゆうことはあれですか、人間はみんな生きてないんですか? 俺、頭悪いんでね。教えてよ。グル様ぁ。
尊師様、 信じていると自分で思ってるものは「つもり」でしかない、 僕もほとんど全く同じ事を考えてました。一度客観的に自分を自覚してしまうと もう修復は効かないんですよね。 キルケゴールみたいですね。 読みましたよ、「死に至る病」。 信仰の不可能なことをよくご存知なグル様ですね。 ちょびさん、そうですね。 たとえ死刑に処せられて罪を償っても、 罪を犯したという事実そのものは永久に取り消すことはできないんだものね。 なんか俺、相づち打ってばっかしだね。
病気で、ぼうっとしてたら、車にひかれそうになった。 ちょっとだけ、情景がスローモーションになって、 「ああ、ひかれる」と思ったら、無意識に、顔が笑ってた。 でも、ひかれなくて、がっかりしてる自分がいた。 やりたいことは、たくさんある。やりのこしたことも。 でも、そんなのは、重要じゃない。 死にたい、というより、消えてなくなりたい。 私が生きていたという、記録も記憶も、もし、 すべて消せるのなら、とっくの昔に、わたしは消えてる。 消える事ができないから、ほんとに死にたい人たちは、 よけいに苦しいんじゃないかな。
信ずる者は救われる。 どーでもいいんだったら何も言わずに信じていなさい。 信仰の宣言をしなくてはいられないようでは おぬし、まだまだじゃのう。 おまけによいことを教えて進ぜよう。 本当に信じている者は余りにそれが当たり前である為に 自分が何かを信じているなどと思わんのじゃ。 つまり、信じる信じないをつべこべ言っておる間は 信じてる「つもり」に過ぎないと、まぁ、そんなとこじゃ。 同じことは「生きる」についても言える。 「生きている自覚」なんぞを持っておるようでは 「生きているつもり」という思い込みの世界に住んでおるのじゃ。 ただし別にそこに住んではいかんと言うわけではないので 急に引っ越ししようなぞと思わんように。 ごゆるりと信じたつもりで生きたつもりに遊ばれよ。
「死は人生の終末ではない、生涯の完成である」 この言葉を信じて、生きています。 それが真実かそうでないか、そんなことはどうでもいいことです。 ただ、信ずるだけです。
はじめまして。共感するところの多い、良いサイトですね。繰り返し来たいです。 ちょっと歌を作ったので聴いてください。 「見慣れた橋の上で、疲れた人が立ってる。 おかしな都合故、これより空を飛びます。 夢から覚めて微笑む。僕はまだ生きてる。 明るく晴れたから、教えてくれなかったよね、 あたたかい日差しの中、僕らは二度と出会わない。 見たことのある顔、君は先を急いでる。 お空の澄んだ青い道は何処まで続いているの? あの時交わした約束、今でも覚えてる? 冷たい風吹いて、世界は消えてしまうでしょう、 小さな橋の上で、僕らは二度と出会わない。 あの時交わした約束、今でも覚えているの?」 上の詞を読んで、「くだらない」だの、「感動した」だの、何かお感じでしたら、 僕のHPに掲示板ありますので、是非おいでください。 ところで、僕はジャンケレヴィッチの「死」を読んで泣きました。「私も読みました!」という人も、お待ちしています。 あと、「ブレードランナー」好き!という人もお待ちしてます。 あと、大島弓子好き!という人もお待ちしてます。 http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/6938 勝手にリンク張っちゃいます。もし駄目でしたら、それもうちの掲示板にどうぞ。
1月16日(土)放送予定「自殺ネットワークを追う」(仮題)の関連情報を募集します。 興味のある方はhttp://www.tv-asahi.co.jp/scoop/want.htmlにアクセスしてください。
はじめまして。 以前掲示板にいたずらがあった時の安寿さんの言葉に感銘を受けました。 悪ふざけをする人も引き寄せやすいテーマだけに、自分の気持ちを語る安寿さんに 勇気を感じます。 死にたいというのは生きたいの裏返し?自分の思う自分でないことへのいらだち? 自分のために死にたいというなら、人のために生きてみるんじゃダメ? 少なくても赤ちゃん、幼児のうち、親が必死で育ててくれなきゃ、今生きてないんだし。 ボランティアで重度障害者施設に行った時のこと。車イスのように電動ベッドで 移動する人を見てショックを受けました。風邪をひいても、鼻をかむことすら 人に頼まなくてはならない生活。障害のある人に同情するのは失礼だとしても 生のかたちのありようが、人によってこんなに違うなんて知らなかった。 選択肢が豊富なのは幸せだと初めてわかりました。 生より死のほうがリアルだというなら、別のもがきかたをしてほしい。 骨髄バンクに登録するとか、建設的なことを。丈夫な体でしかできないことが たくさんあります。マイナス方向にだけ進まないで、プラスの方にも行ってみて。 案外、自分が馬鹿にしてたことに救われるかも。 ひとつのことだけ突き詰めると、つらくなる。だから他の人が必要。 いろんな人に分散して自分を持ってもらうというかんじかな。 こうして自分のかけら(共鳴できるもの)を探して日々しのいでます。 まとまらないけど、安寿さん、くれぐれも御身お大切に!
らいです。とあるHPで「テストより大事なことがある」というコメントをいただき、興味をそそられ来てみました。ぼく自身テストより大事なことがたくさんあるのはわかっているのですが、やっぱりテストが気がかりです。(今も本当は勉強しなきゃいけないし・・・) 死への恐怖・・ぼくもやっぱり死にたくないですね。まだやりたいことたくさんありますし。でもいつかは死ぬことになる。やですねぇ・・・。 ぼくは自分って何だろうって考えていると、ふと意識が飛ぶ感じにあいます。ガラス越しに見る感じになるんですよ。で、わけがわかんなくなって、自分がわからなくなる。存在自体がわからなくなるんですよねぇ・・・。 そーなると、あぁ、またやっちゃったという感じになって、戻ろう戻ろうと思うか、いつの間にか普通の状態になる。実は今もちょっと飛びかけです・・。 そんな経験ありませんか?ぼくは幼稚園の頃からあって。 では、テスト勉強があるので。現実に戻りたいと思います(笑)
ゆめまぼろしのごとくなり
人間50年 げてんのうちを くらぶれば
pisgah さん ホームページ 拝見させていただきました。 ほんとに有名な政治家や学者が聖書について語っていたのですね。 わたしも、クリスチャンですが、仕事には宗教はあまり持ち込めないので ホームページはごく超教派的なものとなっています。 一度、見にお越し下さい。 http://www3.osk.3web.ne.jp/~prince77
pisgah@14年前からクリスチャン、と申します。 死について、キリスト信者が信じて喜んでいることを書いてみたいと思います。 類のないベストセラーである聖書が死について述べていることを知るのは、あながち無益ではないと思います。 伝道の書 7章 祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。 伝道の書 12章 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。 太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。 その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓からながめている女の目は暗くなる。 通りのとびらは閉ざされ、臼をひく音も低くなり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。 彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。 だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。 こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる。 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。 空の空。伝道者は言う。すべては空。 コリント人への第一の手紙 15章 私は今、あなたがたに良い知らせを知らせましょう。 キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従って3日目によみがえられたこと・・・ 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 ヘブル人への手紙 2章 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者(キリスト)を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主(キリスト)もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 ヨハネによる福音書 3章 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
安寿さん このところまたあなたのコメントを見かけませんがお元気なのでしょうか 寒くなりましたので、風邪などお引きにならないように、お身体ご自愛下さい。 私は、「○○は風邪ひかず」のことわざ通り元気です。
はじめまして。 年増の意見です。若い日に苦しんだことは絶対に無駄にはしません。 振り返って説教する種になります。 優しさを説きながら苦しめと言う深い思考錯誤の訓練にもなります。 大切に生きて、年金基金を支えるのは若い人の義務だと思って 耐え抜いて下さい。 偶然やってきたものはなんでも自然の贈与でありそのお礼 をし続けて事故を作って死念を深めて下さい。 年取っても悟れはしないのですから。 ぐちぐち
安寿さん。 なんか、変わられましたね。生意気な言い方をすれば 成長されたと言うか。 作家で出家された瀬戸内さんのような心境ですか。 早く、私もそんな心境になりたいのですが、煩悩というか、隠れていた 人間の劫のようなものが、断ち切れず七転八倒しているのが現状です。
お急ぎでなければ、生き物は何でもそのうち死にますから、 わざわざ自分で手を下すこともありません。 死にたいと思うのも、死にたくないと思うのも、結局は まだまだ謙虚さが足りないのではないかと思うきょうこの頃。
死にたいと思う気持ち。 でも、死ねない。恐い。 たった、刃物で切ってしまえば、終わりなのに・・・。 偉そうなこと言っても、人間も同じ生き物なんだろうな。 その瞬間は本能で恐い。でも・・・。 だったら、はじめからなかったほうがまし・・・か。 他の生き物も幸福、不幸ってわかるのだろうか? こんなこと考えることのできる人間こそ、 この世で一番かなしい生き物なのかもしれない。 たとえ、ライオンに食われようとも・・・ シマウマの方が 今の俺より、しあわせかも。 生きる苦しみを知らないだろうから・・・。
ここにこうしている私とともに、人の知る知らないに限らずすべての事象、 物を構成する素粒子のさらに細部の配列までも含めて、今、今この瞬間を切り取り クリップボードへコピー ではなくて 全く同じだった瞬間が過去に存在しなかったと言いきれるだろうか。 生命エネルギーのみが漂う空間が存在するという以前、10∞乗光年以前に。 全く同じだった瞬間は未来永劫再現されないと言いきれるだろうか。 … もう観念しよう。 歌でも歌っていよう。
>役人が設定する管轄を住民に強制しないでもらいたい。役所の管轄は役所内の >ことであり、住民には関係ない。 まったくそのとうり。 でも、わからないんだよ、こんな事いっても、役人はバカだから。 だいたい、役所の腐った習慣をなおして、人事制度をなんとかせんと こんな問題なおらんど
役人が設定する管轄を住民に強制しないでもらいたい。 役所の管轄は役所内のことであり、住民には関係ない。 住民は、どこへでも自由に移動するのだ。 役人にとっては、管轄がすべてかもしれないが、 それは自分達の仕事の都合であり、住民には関係ない。 自分達の都合で、あれこれ制限するのはおかしい。 事務手続きに管轄があるのは当然だが、住民がどこへ行くのか、 どこで、何をするのかまで、指図される覚えはない。 また役所組織の連携はとれていないのは事実だ。 各組織は完全に独立しており、まったく離れている。 あまりにもバラバラで統制が取れていない。 各自がそれぞれ孤立している。 こんなことでは、どんな問題も解決できないだろう。
もう死にたい、人間がわからない… 何を考えているのか…。 理解する(理解できる人間になれる)チャンスは過去にいくらでもあった。 が、親によってことごとく崩された。 「愛情」という名の暴力と共に… コメントは要りません。どうせ読まない(読めない)…
人間が本能で生み出したといわれるR文字 「有」とは生の象徴であり すなわち ALPHA 始まりの「空間」 「無」とは いつか到達する「点」 生とはΑで始まり Β・・・隔離 Γ・・・・出発 Δ・・・・・感情 Ε・・・・・・接触 Ζ・・・・・・・誘導 ・ ・ ・ Χ・・・・・・・・破壊 Ψ・・・・・・・・・収束 Ω・・・・・・・・・・消滅 いつの日か「無」へと変わる それが「有」である限り
人間には「死の本能」があるそうです。これは、、他の生体並びに自分自身の破 壊を求める先天的な傾向だそうです。 結局人間は死へと向かうんですね。