北欧の探検家との伴走プロジェクト
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 予告エッセイ 森川千鶴   

お母さんの南極大陸、ルネさんの南極大陸 (03.12.8)

■旅のしたく (03.12.16)

■ある週末 (03.12.21)

 →コメント(渡部雄助)

 →コメント(竹田庸介)

■夜間飛行 (04.1.12 )

 →コメント(おおやまようこ)

 →コメント(久保田康雄)NEW

■冒険へ(その1)


               


お母さんの南極大陸、ルネさんの南極大陸 (03.12.8)

 なにげない日常に、ふとした出会いが有ります。日本の東京の郊外に住み、二人の娘の母親である私が2003年の秋のある日、北欧の探検家の存在に出会うことを誰が予測したでしょうか?大先輩の小野田さんと久しぶりに再開したことが、私にとってのルネさんの南極大陸探検への扉でした。
 なぜ、今?なぜたったひとりで?なぜ南極に?彼は何を探しにいくのだろう?そのことが気掛かりになり、とうとうある日、遠く離れた日本にいながら、ルネさんの探検に伴走することは出来ないか?と小野田さんに話しをしました。 国や世代を超えたコミュニケーションを可能にするインターネットの時代、人類が未知の世界に挑む叡智を子供達に伝えるために、ルネさんと一緒にそれぞれが自分の冒険をするのです。
  日本のテレビも南極大陸に関する番組を特集したり、次の観測隊が昭和基地に向かうタイミングと出会ったり、南極というキーワードから、私のアンテナに次々と情報が入ってきました。 一番驚いたのは、私が生まれた1961年6月は、領土権を凍結する南極条約が発効になった時でした。現在では45カ国が批准しているといいます。現在の国際情勢から多くの人が南極大陸について考えることは大事なことではないか?と、私の直感が何かにつながっている気がします。その何か?を探究するのは、私の旅です。
 私は英語が得意ではないのですが、まず南極に出発する前のルネさんに直接会って、話を聞きたいのです。そして、日本の子供達に、探検というものに対する学びの機会を与えたい。私達はあふれる情報の中にただ佇むのではなく、生きる実感に向かう喜びをお互いに伝えあうために、ルネさんの旅に伴走することを実現したいのです。

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旅のしたく (03.12.16)
 

 赤ん坊というのは、昨日できなかったことが今日できるようになるという日々を重ねていくのだなあと思っているうちに、毎朝の髪型を気にしたり、はっとするような言葉遣いを覚えたり、一輪車を乗りこなすようになっている娘がそばにいるのに気がつきました。 今日生まれた子供が1年先には自分の足で歩くようになっている。その変化を信じられる時、日々の変化はあまりにも見えにくいものですが、生きているかぎり私達の生活はたくさんの可能性に満ちているのだ、と思えます。
 ノルウエイの青年が、1人で南極大陸の探検に旅立とうとしている。その探検に遠く離れた極東の地から伴走したい、というアイデアを周りの人々に伝えはじめて、様々な反応がありました。
 探検話というのは、わくわくしますね。あまりにも壮大な話で、リアリティがない。 面白そうだが、荒唐無稽だ。あなたがなぜそれに関わるのかわからない。あなたに何ができるの?アイデアは面 白いがプランが未熟だ。 まあ、見守っていてあげましょう。協力できることはしますよ。などなど。
 極地への探検は、多くの人々にとって、今やめずらしいことではないし、ひと事なのです。それでもやはり私は、人は何かの探究のために望んだことを達成する力を持っているということを、ルネさんに伴走することで自分が感じたいし、人間のさまざまな可能性や問うことの力の大切さを子供達に伝えて行きたいと思うのです。
 これまでにワークショップという参加体験型の学習法や、ファシリテーションについて考えたりするフォーラムにかかわってきました。 ここ数年、私がかかわってきた仕事とライフステージを振りかえると、そこに共通 するテーマがあるのに気づきました。それは「self education」。自らが問いを立てられる力、それを身につけることができるための環境づくりが教育なのだ、とはっきりと思えるようになったのです。
  そして今出会ったルネさんの探検に伴走することで、そんな大人達の背中を見せることが、何よりの生きた教材になるという直感に突き動かされて、旅の準備を始めたところです。

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ある週末 (03.12.21)

 風邪をひいてしまい、熱っぽくもうろうとする中、いろんなことを考えました。極限の旅を続ける時は、自分の体だけがたよりなはず。その体とおりあいをつけるトレーニングとはどんなものだろう?万一、体調を崩した時はどう対処するのだろう?そんなことを考えはじめると、ちょっとのことで休んでいる場合ではないな、と思い、週末の友人一家とのパーティーをキャンセルするのは考え直して、料理にとりかかりました。
 友人宅には家族で訪れました。その家には、来春の高校入試を控えた受験生がいるのですが、パーティの席に最初彼の姿はなく、受験のための塾からの帰宅は夜の9時半を回ったころでした。大学以来の友人である彼の母親からは、受験の大変さ、偏差値とのにらみあい、など様々なエピソードを聞かされて、数年後の我が娘たちのことを思うと少々気が重くなっていました。
 「試験に緊張するなんて、社会に出るまでのことなんだから。。。」という彼女に、
 「社会に出ても緊張する瞬間はたくさんあるよ」と思わず反論してしまいました。緊張することは決して悪いことではない、と思ったからです。
 何かに挑む時、先が見えなくなりそうな時、果たして自分にこの山を越えることができるのだろうか?と、たじろぐことがあります。しかし、その先をみようとしていれば、必ず視界は開けてくる。そんな経験をなんどとなく味わってきました。自分が超えようとしているものの正体がはっきりわかるのはその全容が見えた時で、直面 したときはまず圧倒される。それでも希望を失わない限り、人はその山を超えていける、そう思うのです。
 その夜、ルネさんの探検に伴走しようとしていることに話題が移った時、予想通 り、「なんであなたが?」という話になりました。 「それは私にもわからない。でも思わず名乗りをあげていた」 と話していたら、 「結果がどう、というのではなく、あなたがそうしたいんだよね」 と、そこにいたみんなが笑い飛ばしてくれました。ここに私を暖かく見守り続けてくれた人たちがいる、と心が強くなった気がしました。
 受験を控えた彼女の息子に、チャレンジすることは楽しいよ、とはわざわざ言わなかったけれど、親達の会話に黙って耳を傾けていた彼が、自分自身の目標を突破してくれることを祈っています。

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 人生における緊張ということで、日ごろのことを想います。 緊張を続けながら病に倒れたらどうなるかと思うと、いまの日本に日々荒野を歩 き続ける人々のいかに多いことかと考えます。 日本人はそのような歩き続ける「過程」をより大事にする人種の(であった)ように思います。 また、緊張の果てに志を果たせず次々と倒れるひとたちに共感する人も多いはず。
  60年代、70年代、80年代の高度成長の時期、その経済的成長と裏腹に一貫 して辛い世の中をうらむような歌が多く排出されました。 フォークソングや海外のロック、演歌にも一様に人生のむなしさをつづる詩歌が 多かったようです。 会社員であっても、残業、徹夜、休出で異常に忙しい時代もありました。 成長期に酔いしれている中で、思いっきり叩き落された日本人の多くは、いまだ にアイデンティティを見出せないでいる。まるで彷徨う民族であるかのように、 あらゆることに依存型の体質になってしまったようです。
  いつの頃からか忙しい日本人はもっと休むべしという欧米からの余計なお世話に よって骨抜きにされた日本人。 それでも受験競争によって忙しい日々が変わらぬ 子供たちの話を聞くたびに、子 供のいない私は違和感と戸惑いを覚えます。何のために、受験勉強をするんだろ うと。その行き着く先はあまりにも明確であるから。
  多感な時期、どんどん吸収できる10代に、来るべきグローバルなデジタルネッ トワーク時代に備えた教育を行なうべしと考えたりしています。 それぞれの国が、民族の誇りと多様性を維持することが世界平和の均衡を保つは ずと考える人々も多い中で、その昔バベルの塔で崩壊したはずの共通のコミュニ ケーション手段がインターネットを通じて、私たちの時代に大きな変革を遂げて 神の領域に手を伸ばそうとしているかのようです。
  Windowsなどの主要なコン ピュータのOSが崩壊しても、突然世界が迷走するようなことにならないよう な、より人間的なコミュニケーション手段を築く必要があると感じます。 インターネットの進化がそのような方向の可能性を見出すか、たぶん日本ではな い、コミュニケーションテクノロジーと哲学に強いほかの国でそんなことを考え ている人たちがいるのではと思います。ノルウェーのようなところで。 北欧がデジタルコミュニケーションの世界で最先端であるということはよく知ら れていますが、実体を確認したことはありません。こうしたことは、私の力量 を はるかに超えたところで、小野田さんに頼るよりないですが。
  デジタルというシリコンでできた異種の観念的生物が、この30年あまりの間に 細胞分裂を繰り返しながら急速に繁殖しこの地球を覆っています。この新種の存 在が人類にどのような影響を与えるのかまだ見えない。 デジタル技術の進展と共にインターネットは確実に高速大容量 化を続けている現 状を見ながら、デジタルに携わるものとしては、デジタルの進化は必ずや人類に 幸せをもたらすと信じています。 氷の大地を彷徨いながら、目標を信じて歩き続けることに共鳴し、勇気付けられ る人は多いはず・・・。
  今年、私の心の支えであった大事な友人を二人も失くしてしまいました。 一人は世界的な作曲家、前衛音楽家であり、国内での評価がこれから高まると自 他共に期待されながら、現代音楽による国際交流と日本の伝統芸術の紹介を推進 する中で60台半ばで逝ってしまった石井眞木先生。 もうひとりは、NEC時代のプリンタからデジタルカメラ開発を通 して、一貫し てデジタルでのビジュアル表現にこだわり続け、コダックに移り50代半ばで倒 れた長沼久資氏。シリコンバレーでの仕事を通じて、マッキントッシュを愛し、 ビル・ゲイツの台頭を心から恨んでいた氏の目指すところはどこであったかいま だ見つからないでいます。おしえておいてほしかった。 いずれも、志半ばであったには違いないのですが、後に残された家族に幸せな時 間を与えようとした最期の瞬間までの時間の緊張感は素晴らしい生き方であった という思いを残してくれました。
  彼らのような身近な友人以外にも、たまたま最近知り合った人たちからの身の上 話も思い起こされます。 空手とコンピュータと薬剤師の顔を持つ方とゴルフ界である程度の成功をおさめ てやっとの思いで自社ビル内でゴルフのレッスンができるようになった方、いず れも40代後半で脳内に支障をきたしながら、現在50代半ばから後半。懸命に リハビリを続けながらも考え方はしっかりされていて、現在もスペシャリストと しての誇りを持ち続けている人たちです。 ただ、両者の違いは、独りであるか否かで大きな人生の岐路に立っていることで す。良き伴侶に恵まれた方は、やさしい生き方を見出して次の選択を考えていま す。一方、伴侶を愛しながらも別れることになってしまった方は、やむなく壮絶 な孤独な生き方を続けながら心の支えを探しあぐねています。
  緊張の果てに、残されたもの、与えられるものを考えると人生の幸せと残酷さを 考えさせられます。 あらためて、探検と冒険は人生そのものであると考えさせてくれます。 やや突っ込んだ、緊迫しすぎる話になったようです。 私自身、風邪の熱があるわけではないのですが、森川さんの文に触発されて朦朧 となったようです。 (渡部雄助)

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 こんばんは。森川さんの生まれた年が南極条約が締結された年だというのが なんか面白いなぁって思いました。 南極が言われるような平和の象徴である一方で、北極は米ソの世界核戦略の キーポイントだったわけですものね(今でも核原潜がうようよしてるけど)。 南極大陸を考えてみる上で、北極を考えてみるのもありなのかなぁなんて思いました。
 エッセイを読んで、「日記」の形で書かれていることから思い出されたのは、大学で尊敬している教授が自身で日常書いていた日記を講義のテキストにしていたことです。 日記は普通は自分自身に向けて自分のために書くものですが、 自分に向けて書くからこそ、何か説教がましくないような、その人の問題意識や気持ちがリアルに伝わってくるものなんだなって思います。 僕は、その教授から「知識そのもの」よりも「学ぶ動機」をもらいました。 彼が彼自身にぶつけた気持ちが、リアリティーをともなって伝わってきたからこそ、僕自身の学ぶ動機が得られたんじゃないかと今振り返ってみて思われます。
 おそらくこれからエッセイを書きつづけていくご予定だと思われますが、 ぜひ続けていって、そのエッセイ自体を教材にしてしまうのもいいなぁって思います。 そのエッセイのなかに、森川さんがこれから否応なしに体験する喜びと葛藤が、 事実の羅列でなく(事実の表現はきっと他に表現する場面がいっぱいあるでしょうから) 感情の動きが分かるようにめいいっぱい込められていると、すごくいい教材になるのではないかと思います。 文章の中に「?」がところどころでてきますよね? 森川さんでない人の「?」が、実は森川さん自身の葛藤と重なる気がしました。 気持ちが一杯つまっているのが伝わってきて、今僕自身がやはり突き動かされています。
 今ふと思ったのですが、学校の試験も、いちいち先生が問題を作るのではなくて、子ども達が普段の授業から沸いた疑問をかき集めて、それをテストにしちゃえばオモシロイ!って思いました。 テスト問題に採用されたら何点プラスとか(笑 「ある週末」の文章は、特に読んでいてグッときました! ご友人の息子さんのこれからのことを自然と考えてしまい、それが人それぞれの「冒険」につながっていくのだなぁ。
 森川さんがルネさんと出会い、そこからどんどん人が関わってゆき、 特に子ども達こそ何かが伝わっていって欲しいと強く思います。 そのためにも、ぜひ学校の先生にこのプロジェクトに関わって頂きたいなぁと思います。
 先日も思ったことですが、最近では例えば社会に出て活躍している 人たちが授業をする機会が増えてきているようですが、 そのような機会は、一日限りであったり短期間しかないように思われます。 でも、ルネさんの冒険に周到な準備と長い道のりが必要なように、 学ぶ機会もまた同じような時間が要るのではないかと思います。
 子ども達、先生、そして関わる人たちみんなで伴走できる機会になると すごくエキサイティングですね! そしてなにより、僕自身が伴走したい!と思います。 自分の今もっている仕事とのバランスをうまく舵取りしながら お手伝いしていきたいと思いますが、ただ手伝わせていただく というよりも、自分自身がルネさんの冒険から自分の冒険を していきたいです。
それでは次の展開を楽しみにしています。 よろしくお願いします!(^ー^) (竹田庸介)

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夜間飛行 (04.1.12 )

 「サン・テクジュペリの書いたものって読んだこと有る?これまで『星の王子様』もちゃんと読み通 してなかったんだけどね。。。」
と、新しい年を迎えて再会した友人が、『人間の土地』というエッセイ集の話を始めました。
 「未知の世界に向かう人の文章は、何者かへの手紙みたいなんだよね。星野道夫の文章もそんな印象がした」というのです。
 
 今日の新聞のインタビューに『13歳のためのハローワーク』という仕事辞典を編集して出版した村上龍がこんなことを答えていました。
 「自分の人生は自分が決めるものだ。人は仕事を通じて世界と接していくのだから、自分の好きな仕事で経済的に自立し、ひとりひとりの自由を獲得してみたら、と言いたい」  
 「人は仕事を通じて世界と接していく」ということばに、私は、ビジネスというのが「効率化によってお金を生む」ものだとしたら、私は「人の描く夢がお金を生む」というスタンスでこれから先仕事をして行きたい、という思いを新たにしました。  
 果たして冒険というのは、子供や限られた人々にできる特権でしょうか?またそれは、単に危険を冒すというトライアルなのでしょうか?既知のスキルで社会と関わり続けている大人は、豊かな時間という特権を失っても、未知の何かに向かうことのできる可能性を、変わらず手にしているのではないでしょうか?  
 年齢、性別、とりまく環境など、これまで人々が新しい何かに向かうことや目の前に有る果 たすべき義務から遠ざかるための言い訳を何度となく耳にしたことがあります。自分もそうだったかもしれません。踏み出す前の怖れや躊躇に確かに出会います。
  自分のできることで世の中に関わりたい、自分の軸をしっかり根ざしながら、社会と関わることで貢献したいという気持ちに変わりはありません。自分の感じにぴったりくる言葉や表現を探すことと、その感じをきちんと伝えて行くことに力を惜しまないようにしていきたいと思います。    
 さて、友人と別れてから、サン・テクジュペリの本を探しに本屋に立ち寄りました。 そこで私が手にしたのは、『夜間飛行』という短編集でした。それは、飛行士だった作者の視点がありありと浮かぶ、静かで厳しくしかし人間の生きる希望や機微が描かれた作品でした。  
 私達の生きる日々の瞬間こそが冒険かもしれない。何かに向かって歩く人たちに出会うと、そんなことを思うのです。

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 ノルウェーの写 真、いいですね。写真を眺めていると引き込まれそう、私の今いる所 とはまったく違った時間流れていそうだな、なんて思ってしまいしばし時がたつの を忘れて見入っていました。
  森川さんがノルウェーから帰国した直後の言葉が思い出されます。 「ルネさんと会ったら、そこには夢(目標)を実現するために気の遠くなるような長 〜い時間をかけながら、こつこつと周到に準備を重ねる姿があったよ。彼は、その長 い道のりさえとても楽しんでいるように見えたし、その準備があるからこそ、周囲の 人たちは彼の成功を確信できるんだと思う。冒険は既にはじまていたよ。」って。 この言葉に出会ったとき、私は一つの衝撃に打ち抜かれてしまった!のです。 恥ずかしながら、実に痛いところを衝かれた気がします。 振り返ると、何事も”勢い”だけで突っ走ってきた私は ”準備を重ねながら周到に 歩んでゆく事”その価値は認めながらも、きちんと向き合ってきただろうか?むしろ 様々な理由をつけては遠ざけて来なかった?そんな声が聞こえてきました。
ただ落ち込むよりも、この言葉には励まれた感があります。 森川さんを通して 遠い国の言葉の違う人の「力」を感じて、森川さんという フィルター自体に刺激されてしまうのかしら?。。。
伴走エッセイを読みながら、今の自分のこと、これからの自分のこと、あれこれ想い を馳せているうちにいつしか、”私もルネさんと森川さんの冒険にこっそり伴走し てしまおう”と決めたのでした!(おおやまようこ)

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 十年前、冒険やキャンプを手法としたこどもや若者の教育を考えているプロの仲間達と、あるネットワークを作りました。 今、140名余りの会員がいます。顔の見える範囲でしかネットワークしないのがコンセプトで、会員の2名の推薦がないと入会できない。そればかりではなく、公式の会合に1回出席し、夜の飲み会に参加し合格しないと入会できない仕組みです。とてもハードルが高いネットワークです。会員になりたい人は結構いるそうなのですが・・・。今もいい感じでやってます。
 昨日、その会合で面白い話を聞きました。北海道のとある湖で活動していた人の話です。 冬に湖に氷りが張り、その上にイグルーやオブジェなどの建造物を造ります。温泉を実際に引いて、氷のお風呂や自分が暮らすための家(実際に氷の家で3ヶ月間暮らしたそうです)を作ります。また、お酒が飲めるバーも作っていました。湖の上に街ができてしまったのです。
  それらを建造する時の話です。氷を湖から切り出し、または雪を水で固めたりしてブロックを作ります。そのブロックを積み重ねて行きます。 氷は重いので、ある程度までくると自重に耐えきれず、湖の氷が割れて湖に沈んでしまうそうです。そこでどうするかというと。。。待つそうです。これ以上無理かなというところで作業をやめて、待ちます。そうすると、湖の下では氷が厚くなり(氷が成長するのだそうです)、重さに耐えられるようになる。 ですから巨大な建造物をつくる時には、氷を重ねては待ち、重ねては待ちして、ようやく完成させるそうです。氷は、負荷があると成長するということでした。負荷がなければ氷は厚くならないし、負荷が大きすぎると氷は割れてしまいます。
 その後、子ども達に対して待つという姿勢が今の教育の場面にどれほどあるだろう?子ども達が成長するのを待てることが指導者に求められるのではないかという話になりました。なるほどといたく納得した昨晩でした。(久保田康雄)

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冒険へ(その1) (04.2.18)  

「とうとう来ちゃいましたねえ。」 吹雪くオスロ空港に降り立った私たちは、すでにはじまってしまった自分達の冒険をわくわくしながら噛みしめていた。 私たち、というのは、私と難波克己さん。日本にプロジェクト・アドベンチャーという教育手法を紹介し、現在あちこちでひっぱりだこの存在だ。昨年、「全国教育系ワークショップフォーラム」にゲストとしてお招きした経緯で知り合った。暮れも押し迫った12月30日、難波さんに今回のルネさんの探検をめぐって考えていることをお話したところ、「まず足を運んでみましょう!」と直感的というより電光石火の判断で、ノルウエイに探検家のルネさんたちを訪ねる旅への同行を申し出て下さったのだった。

おぼつかない英語を補えるかわからない度胸ひとつで渡欧する覚悟を決めていた私にとって、難波さんはまさに救世主だった。アメリカで永年培った教育に関するその知見と活動のみならず、人となりに魅了されている人は多い。その難波さんが心動かしてくださった。 2月に南極大陸に移動するというルネさんに会うには、1月末というタイミングしかなかったのだが、その時期の数日間ならなんとか日程を調整できるということだ。難波さんご自身は北欧の教育事情について現場を知りたい、という思いを以前より持っていたようだった。これはもうこのタイミングで行くしかない、とミハイエスさんを通 じて先方のスケジュール調整を図っていただき、航空券や宿泊先を手配し、訪問の趣意の詳細を伝えつつ、このプランを実行するにあたってのプラットフォームとなる組織の体制づくり、という荒技に見えて実は私の一番得意とするアレンジメントが始まった。

12月。毎週のように小野田さんのオフィスを訪ねる私に、ルネさんという探検家を紹介してくれたジョージス・ミハイエスさんという人物について教えてくれたり、私の考えはじめていることについて耳を傾け続けてくださっていた。同時に友人、知人、その紹介で...といろんな人に会いに行き、プランを聞いていただいた。結果 、まだ何をどうするかもわからない話をそれぞれのところで丁寧に聞いて下さったうえ、様々なアドバイスをいただくことができた。そこで形になってきたのが「冒険・創造教育研究会」だ。
さまざまな知見を持つ諸先輩方をボードメンバーとして迎えながら、情報を集めたり意見交換をできる場を作る。ルネさんの探検をリアルタイムな生きた教材として活かしながら、「冒険」「創造」といったテーマでワークショップや情報発信、教育の現場とのコミュニケーションを試みる。そしてこれらの知見を子供達へ伝えて行くための教材を生み出すことを考えていく。この研究会は2年間という期限付きのプロジェクトで、期間を満たすまでに活動や成果 を評価し次のステージを考えていく。この活動に意義を感じる人や企業とメンバーシップをとりながら、広く世間に広報していきたい。ここで私の一番大切にしたいのは、そこに関わるひとりひとりの人たちがわくわくできることのためのファシリテーション。

研究会の正式な発足日は1月9日にした。これから多くの方にメンバーシップをとっていただくためにも、どうしても自分自身の実感と確信を得たいと思った。小野田さんに最初にルネさんの話を紹介いただいた後、まずは本人に会いに行くことだ、と直感を得つつ、まずはそこに向かって歩き始めていたと思う。 小野田さんから紹介していただいたウエブデザインを手掛けておられる渡部さんの力を借りながら、まずウエブサイトを立ち上げようと相談していた。イメージが生まれても、なかなか言葉に落としていけないでいる私を、渡部さんはじっとしんぼう強く見守って下さるだけでなく、12月からぽつぽつと書きはじめたエッセイに感想や励ましの言葉を掛け続けてくれた。

ノルウエイに出発するのは1月30日。その日を迎えるまでに、ある困難が待っていた。インフルエンザの到来のシーズンだ。気をつけていたつもりが、保育園に通 う下の娘が感染したのが1月16日。なんと翌日には私もまずいなあ、という徴候とともにウイルスに感染していた。そして家族が次々と発熱。。。そんな窮状を助けてくれたのが、正月から滞在していた福岡の実家の母である。予防接種と乾布摩擦を続けていたのが良かった、と言っていたが、家事をきりもりしてくれた母のおかげで、私の北欧への旅がかなったといっても過言ではない。仕事と旅の準備と子どもの行事や通 院、と自分自身はどこで体調が完治したかも分からない中、とにかく1月30日の出発日には成田空港にオンタイムで辿り着いたのだった。後から聞くと、直前にアメリカでの学会の出席に向かった難波さんも、めずらしく風邪の症状に悩まされていたということだった。

出発の前日、難波さんと小野田さんを引き合わせることができた。「とにかく、行ってきます」と挨拶を済ませた帰りに、デパートを駆け回りスキーショップでオーバーグローブやももひきを買うのには訳があった。出発の3日前の電話でミハイエスさんが、とにかく暖かい格好を用意してきなさい、とくり返し言うのである。「オーケー」と答えながら詳細を理解できていなかったのが、翌日小野田さんが「マイナス15度の屋外での体験学習を用意しているらしい」と知らせてくれた。何が待っているのだろう?と、わくわくする気持ちがますます増してきた。 ノルウエイへ訪問したいというスケジュールを伝えてから、探検家のルネさんだけでなくノルウエイの人々との会合を次々に提案して下さったミハイエスさん。そのミハイエスさんが、今度は何か未知のプログラムを用意しているらしい。今回の旅でのミハイエスさんとの出会いが私のこれからに大きな影響を与えるだろうという予感はあったが、その後本人に会ってからというものますますその思いを強くさせられたのだった。

さて、成田空港で再会した難波さんと私は、同じ便にチェックインするスキーヤーや大会かトレーニングで渡航らしい高校生グループのたいそうな荷物を横目に、いよいよ北に出かけますねえ、うそみたいですねえ、などと言い合いながら(難波さんとはこの言葉を旅の間中交わすことになる)、1時間遅れになるという出発時刻を待った。この1時間の遅れが、経由地のコペンハーゲンでのエピソードを生むことなど予期することもなく、空港のカフェで改めてお互いのこれまでの経緯などを、浮き立つ気持ちで語りはじめていた。

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