冒険へ(その1) (04.2.18)
「とうとう来ちゃいましたねえ。」
吹雪くオスロ空港に降り立った私たちは、すでにはじまってしまった自分達の冒険をわくわくしながら噛みしめていた。
私たち、というのは、私と難波克己さん。日本にプロジェクト・アドベンチャーという教育手法を紹介し、現在あちこちでひっぱりだこの存在だ。昨年、「全国教育系ワークショップフォーラム」にゲストとしてお招きした経緯で知り合った。暮れも押し迫った12月30日、難波さんに今回のルネさんの探検をめぐって考えていることをお話したところ、「まず足を運んでみましょう!」と直感的というより電光石火の判断で、ノルウエイに探検家のルネさんたちを訪ねる旅への同行を申し出て下さったのだった。
おぼつかない英語を補えるかわからない度胸ひとつで渡欧する覚悟を決めていた私にとって、難波さんはまさに救世主だった。アメリカで永年培った教育に関するその知見と活動のみならず、人となりに魅了されている人は多い。その難波さんが心動かしてくださった。
2月に南極大陸に移動するというルネさんに会うには、1月末というタイミングしかなかったのだが、その時期の数日間ならなんとか日程を調整できるということだ。難波さんご自身は北欧の教育事情について現場を知りたい、という思いを以前より持っていたようだった。これはもうこのタイミングで行くしかない、とミハイエスさんを通
じて先方のスケジュール調整を図っていただき、航空券や宿泊先を手配し、訪問の趣意の詳細を伝えつつ、このプランを実行するにあたってのプラットフォームとなる組織の体制づくり、という荒技に見えて実は私の一番得意とするアレンジメントが始まった。
12月。毎週のように小野田さんのオフィスを訪ねる私に、ルネさんという探検家を紹介してくれたジョージス・ミハイエスさんという人物について教えてくれたり、私の考えはじめていることについて耳を傾け続けてくださっていた。同時に友人、知人、その紹介で...といろんな人に会いに行き、プランを聞いていただいた。結果
、まだ何をどうするかもわからない話をそれぞれのところで丁寧に聞いて下さったうえ、様々なアドバイスをいただくことができた。そこで形になってきたのが「冒険・創造教育研究会」だ。
さまざまな知見を持つ諸先輩方をボードメンバーとして迎えながら、情報を集めたり意見交換をできる場を作る。ルネさんの探検をリアルタイムな生きた教材として活かしながら、「冒険」「創造」といったテーマでワークショップや情報発信、教育の現場とのコミュニケーションを試みる。そしてこれらの知見を子供達へ伝えて行くための教材を生み出すことを考えていく。この研究会は2年間という期限付きのプロジェクトで、期間を満たすまでに活動や成果
を評価し次のステージを考えていく。この活動に意義を感じる人や企業とメンバーシップをとりながら、広く世間に広報していきたい。ここで私の一番大切にしたいのは、そこに関わるひとりひとりの人たちがわくわくできることのためのファシリテーション。
研究会の正式な発足日は1月9日にした。これから多くの方にメンバーシップをとっていただくためにも、どうしても自分自身の実感と確信を得たいと思った。小野田さんに最初にルネさんの話を紹介いただいた後、まずは本人に会いに行くことだ、と直感を得つつ、まずはそこに向かって歩き始めていたと思う。
小野田さんから紹介していただいたウエブデザインを手掛けておられる渡部さんの力を借りながら、まずウエブサイトを立ち上げようと相談していた。イメージが生まれても、なかなか言葉に落としていけないでいる私を、渡部さんはじっとしんぼう強く見守って下さるだけでなく、12月からぽつぽつと書きはじめたエッセイに感想や励ましの言葉を掛け続けてくれた。
ノルウエイに出発するのは1月30日。その日を迎えるまでに、ある困難が待っていた。インフルエンザの到来のシーズンだ。気をつけていたつもりが、保育園に通
う下の娘が感染したのが1月16日。なんと翌日には私もまずいなあ、という徴候とともにウイルスに感染していた。そして家族が次々と発熱。。。そんな窮状を助けてくれたのが、正月から滞在していた福岡の実家の母である。予防接種と乾布摩擦を続けていたのが良かった、と言っていたが、家事をきりもりしてくれた母のおかげで、私の北欧への旅がかなったといっても過言ではない。仕事と旅の準備と子どもの行事や通
院、と自分自身はどこで体調が完治したかも分からない中、とにかく1月30日の出発日には成田空港にオンタイムで辿り着いたのだった。後から聞くと、直前にアメリカでの学会の出席に向かった難波さんも、めずらしく風邪の症状に悩まされていたということだった。
出発の前日、難波さんと小野田さんを引き合わせることができた。「とにかく、行ってきます」と挨拶を済ませた帰りに、デパートを駆け回りスキーショップでオーバーグローブやももひきを買うのには訳があった。出発の3日前の電話でミハイエスさんが、とにかく暖かい格好を用意してきなさい、とくり返し言うのである。「オーケー」と答えながら詳細を理解できていなかったのが、翌日小野田さんが「マイナス15度の屋外での体験学習を用意しているらしい」と知らせてくれた。何が待っているのだろう?と、わくわくする気持ちがますます増してきた。
ノルウエイへ訪問したいというスケジュールを伝えてから、探検家のルネさんだけでなくノルウエイの人々との会合を次々に提案して下さったミハイエスさん。そのミハイエスさんが、今度は何か未知のプログラムを用意しているらしい。今回の旅でのミハイエスさんとの出会いが私のこれからに大きな影響を与えるだろうという予感はあったが、その後本人に会ってからというものますますその思いを強くさせられたのだった。
さて、成田空港で再会した難波さんと私は、同じ便にチェックインするスキーヤーや大会かトレーニングで渡航らしい高校生グループのたいそうな荷物を横目に、いよいよ北に出かけますねえ、うそみたいですねえ、などと言い合いながら(難波さんとはこの言葉を旅の間中交わすことになる)、1時間遅れになるという出発時刻を待った。この1時間の遅れが、経由地のコペンハーゲンでのエピソードを生むことなど予期することもなく、空港のカフェで改めてお互いのこれまでの経緯などを、浮き立つ気持ちで語りはじめていた。
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