ベツメイユウ 『蔑冥夕』 1 気が付いた時には大草原のど真ん中に立っていた。見渡す限りに緑の絨毯が敷かれ、真上には目が眩むほどの紺碧の空が広がっている。 はるか遠くのほうに、相当な高さがあるであろう山脈が連なっている。頂上が所々白いのも見える。それ以外に見えるのは、サバンナ特有の細々とした木々が所々に生えている程度。 ここは限りなく広い。 まるで世界の中心にでも立っているような錯覚に陥る。そもそも、世界の中心など知らないのだが。それでもここは、それを凌駕するほどの魅力と壮絶さに溢れていた。 「・・・一体ここはどこなんだ?」 ポツリと独り言が漏れる。もちろん、答えなど返ってこない。 上着を探る。内ポケットに吸いなれたタバコが入っていた。一つ取り出して口にくわえる。ライターはズボンのポケットにあり、取り出して火をつけた。 吐いた煙が漂い、異物を浄化するかのように新鮮な空気がそれをかき消す。 ある程度は落ち着いた。頭も多少はクリアになったような気がする。それでも、なぜ私がここにいるかは依然わからないままだ。 丸一本をゆっくりと楽しんだ。いつもに比べ、味が薄いような奇異感を感じながら。 「・・・なんだ?あれは?」 ふと、真正面に何かが現れたことに気が付いた。吸殻を棄て、踏み潰し、ソレに目を凝らす。 白い物体が見える。それもこっちに向かって移動している様に見える。 事実、ソレは少しづつ大きくなりながら、確実にこちらに近づいている。 どうやら複数のソレが集まって、白く大きな物体を作り上げているようだった。所々に赤い点があるのも気になる。 近づくにつれて、それは明らかとなった。 モコモコとした膨らんだ体毛。 丈夫そうな角。 メェという独特の鳴き声。 あれは。 あれは、大量のヒツジだった。 それも赤い目をもった。 ・・・いや違う。 そのヒツジと私の距離は数百メートルに縮んでいた。 もう肉眼でもはっきりわかる。 それはただの赤い目ではなかった。 まるで溶岩でも詰め込まれたかのように、目が赤く爛(ただ)れていた。 そこから涙のように赤い死肉が流れ落ちている。 私は一歩後退する。 声すら出せなかった。 ヒツジの足は速く、逃げたとしても追いつかれるのは目に見えていた。 私はそれ以上動かず、迫り来るヒツジの群れを見据えた。 2 ふと目が覚める。頭を掻きながら、重たい体を無理やり起こした。 窓から月の光が差し込む。どうやら、まだ夜中らしい。時計がどこにあるかわからず、具体的な時間はわからない。 「・・・やはり夢か」 小さく呟く。 途中で夢であることは気が付いたが、これ程リアルな夢というのも珍しい。何かの前触れではないかという不安もよぎった。 ふと気になって布団を出る。 窓の前に立ち、夜の風景を見渡した。何の変哲もない平凡な町並みが、様々な色を散りばめながら光り輝いている。 ふと暗くなって空を仰ぎ見た。案の定、月が雲に隠れたようだ。 「・・・ちょっと待てよ・・・!」 私は何か胸騒ぎがした。あまりにも異常な何かをみたような焦燥感があふれ出す。 そう、今見上げた月の中に“あってはならないような物”があった気がする。 雲が動く。先ほど隠れた月が少しずつ顔を出し始めた。 「・・・まさか・・・これも・・・!」 月の右上側が明らかとなる。そこには確かな異物が存在していた。 ――月が私を睨んでいた。 比喩なんかではない。現に月に付いている巨大な眼は、確かに私の方を向いている。 雲が更に動く。 巨大な鼻が現れ、巨大な口が歯を剥き出しに笑っている。 月の表面いっぱいに人間の顔が映し出されていた。 「・・・あ・・・あぁ・・・!」 声と呼べないような音を出して私は後ずさりを始めた。しかし、私の目は月から離れない。 月に付いた口が開き始める。まるで笑っているかのような大口を開けた。頬が歪んでいるかのようにも見える。 聞こえもしない月の笑い声が、私の耳を貫いた。 3 そこは病院だった。目の前には医者がいる。 「こんな夢を見たんです」 私は医者に言う。 「そう言われましても、私には困るんですよ」 医者は髪のない頭を撫でながら、苦笑いを返す。 「まぁ、確かに夢の中で更なる夢を見ると言うのはなかなか面白い物ですねぇ」 「可笑しいと思いませんか?」 「ん? なんでですか?」 医者は微笑みながら私を見る。 「あまりにもリアルすぎるんです」 「というと?」 「夢なのに実際にその場に存在して、意識を保っているような感じがするんです」 「夢なんてそんなもんですよ。印象に残る夢は起きた時、感覚が残ってたりすることはよくあります」 「いえ、そんなんじゃないんです。だって今も・・・」 「今も?」 医者は再び私に向き直った。 「私はこの病院が何科かしらなんです」 「つまり知らずに入ったと?」 「更には病院に入った記憶がなく、今先生との話の途中からの記憶しかないんです」 「それはなんかの記憶喪失の一種ですかねぇ。どうやら夢とは関係なさそうですが」 「関係あるんです」 私は医者を見つめる。 「・・・なぜです」 「先生、正直に答えてくれませんか?」 「あなたの話は要領を掴めませんねぇ」 医者は目の付近に手を当てる。 「言いたいことがあるならはっきり言ってくれませんか?」 「では先生、はっきり言わせてもらいます」 私は息を吸い込む。 「先生は目が見えてるんですか?」 「・・・どういう意味です?」 「そのまんまの意味です。その“目に負った傷”で医者なんてやっていられるんですか?」 私はもう一度、医者の両目を凝視する。医者の両目は、まるで下睫毛を裂くかのように、縦に切り裂かれていた。その傷からは絶えず血が出続け、白衣を赤く染めている。もちろん眼球は見えていない。 「答えはイエスです。私にはあなたが良く見えていますよ」 「正直に言ってください。その目は私を見れるわけがないんです」 「よく見てくださいよ」 医者は両手で両目を塞いだ。そして、ゆっくりとその手を放していく。 私は椅子を蹴って瞬時に立ち上がった。椅子は大きな音を反響させながらバウンドした。 「ほら、私にはしっかり見えている目があります」 私は苦笑いと恐怖の混ざった顔をしたと思う。 「やっぱり、これも・・・かよ」 医者の傷口にそって、縦に開いた目がそこにあった。つまりは、通常の目を九十度回転させたように付いている。ギョロリと黒目が回転した後、私の顔に焦点が合った。 「これでもまだ見えていないというのかね?」 私は医者に近づく。 「えぇ、はっきりわかりました」 「では椅子に座ってもらえますか? 診察出来ませんよ」 「診察はいりません。もうはっきりとわかりましたから」 私は腕を振り上げる。 「もう夢はいらないんだよ」 私は思いっきり医者の顔面を殴りつけた。目から出ていた血が飛び散り、あたり一面に赤い斑点が浮かび上がった。 4 私は目を覚ました。 そして、今までのが全て夢であったことをはっきりと実感した。 私は上半身を起こす。土の上で寝たせいか、あちこち体が痛むような気がする。 目が痛む。ついでに鼻も。多分この濃い煙のせいだろうと思う。鼻が痛いのはきっと隣から来る刺激的な匂いのせいだろう。 右手をあげて頭を掻こうとするが、うまく動かない。よく観察すると手の甲や二の腕から多量の血が出ている。血の出過ぎで感覚が麻痺してきたのかもしれない。 辺りを見回す。 「これならまだ、夢の中のほうが幸せなんじゃないか・・・」 私は呟く。 まさに地獄と呼べる光景が広がっていた。 炎があちらこちらで絶えることなく燃えている。崩れかけたビルから煙が立ち昇っている。散らばった瓦礫の下には人間の物らしい手や足がはみ出ている。空は真っ黒な雲に覆われ、日の光など見えない。 私はこの光景を見て何も感じなかった。もはや感覚や感情といった物が完全にシャットダウンされたようだ。 最後に隣にいる人物を眺めた。 私の妻だ。 同時に、この刺激臭の張本人でもある。もはや生きているとは言えなかった。言える筈がなかった。 髪の毛はほとんど抜け落ち、眼球は陥没し、頬はこけて骸骨のようになり、腕や足はごぼうの様に細く茶色く変色し、腹はへこみ、体全体からわけのわからない液体を噴出し、蛆虫を全身に這わせていた。 ソレはもう妻ではなく、ただの有機物に過ぎなかった。 私は立ち上がった。血が足りないせいか、動きはぎこちなく、そして頼りない。 壁に寄りかかりながら私はその場を離れ始めた。 いくあてなんかない。どうすればいいのかなんてわからない。生存者がいるかもわからない。 それならそうでいい。地球の最後の人間になれたことを誇りに持つだけだ。 とにかくは止まっていては何もやることはない。何が何でも進もう。 こんな世界にも希望はあるはずなんだ、と。 しかし、私の足はすぐに止まった。 疑問を、最大にして最悪の疑問を思いついてしまった。 私の感情や理性が再び蠢き始める。 果たして。 そう、果たして“本当にこれが私の生きてきた現実なのか?”と これが現実と言えば現実かもしれない。しかし、今まで見て来た夢の中で、“これが現実だと言う偶像”が頭の中に描かれていただろうか? もっと言えば、何を現実と定めて、今まで見てきたものを夢と判断していたのだろう。 ソレが本当に、この壊れかけた世界だったのか? もしかしてこれは、私の“今すぐにでも現実に戻りたい”という願望と“そろそろ現実に戻ってもいいだろう”という先入観が生んだ“見せ掛けの現実”なのではないかと。 私は振り返った。 今すぐにでも、これが現実か夢かをはっきりさせたかった。 「・・・あぁ・・・」 私は頭を抱えた。予想は見事なまでに的中してしまった。 振り返った先、そこには私の妻が立っていた。横たわっていた時と同じ姿。生きている筈のない、あの姿で。 あ な た 微かに妻の声が聞こえた気がする。それがもう、目の前の有機物から聞こえたのか、ただの妄想なのか。区別など付かなかった。 妻は一歩づつ私に近づいてくる。足が折れないのが不思議なくらいだ。 私は動かなかった。もう夢に希望も絶望も持てなかった。 ただ今は、現実に戻ることしか考えられなかった。 妻は私の目の前で動きを止めた。 私は目を瞑り、その先を待った。 しかし、その前に私の記憶は遮断された。 5 次に目を開けたとき、私は広い草原の上に立っていた。 既視感がまるで波のように私に押し寄せてくる。 そう、これは一番最初に見ていた夢の草原のようにみえていた。 「どういうことだ?」 私は辺りを見渡す。やはりあの大草原に違いなかった。 あの木も、あの山も、見覚えがある気がした。 ふと足元を見た。 そこあった細く短い物を拾い上げた。 私が吸って棄てたタバコの吸殻だった。 「・・・そんな馬鹿な・・・」 前方を見る。 目を見開いてもう一度見る。 果てしない向こう。 大草原と山の境界線。 そこに白い何かが蠢いている。 そしてそれは、確かに私の方に近づいている。 そう、あの赤く爛れた眼を持ったヒツジが。 「・・・繰り返し・・・だと・・・」 私は拾い上げた吸殻を落とした。 全身の力が抜ける。 もう、何もしたくなかった。 現実を完全に忘れていることに気が付いたからだ。 このタバコは本当に私の好きな銘柄なのか? あのヒツジは私の飼っていたものなのか? あの部屋は私の寝室なのか? あの夜景は私の家から見えるものなのか? あの病院は私の行きつけの病院だったのか? あの医者は私の主治医だったのか? あの壊れた世界が私の世界なのか? あの妻は本当に私の妻だったのか? もう何もかもがわからなかった。 私の脳は思考の停止を始めていた。 夢。 それは赤く爛れた羊の目。 それは黒雲に覆われた月。 それは傷ついた逆さ睫毛。 すなわち、何も見えない。 それが夢。 それこそが夢。 夢を見る者にとって、それは所詮束の間の幻想。 誰もが欲望を駆り立てられる、狭苦しいトゥーンワールドに過ぎない。 そんな夢に浸りすぎた彼は、最後に最悪の悪夢を見た。 忘却の彼方に棄てた現実は、もう手の届かないところにある。 次に現実に手が届いた時、彼は現実に戻れる。 それまでは永遠とも呼べるこの夢の中を彷徨うことになる。 繰り返し、何度でも。 それこそ現実の世界が終わった後ですら。 ふと見てみれば、 あの赤く爛れた目をもつヒツジは、もう彼の目の前まで迫っていた。 終 |