『‐無‐限‐空‐蝉‐』
  MUGENKUUZEN


 潮騒が聞こえる。
 ザーという連続音。
 綺麗で消えてしまうように流れ出すメロディーは、
 私の耳から一向に離れないようとはしない。
 聞いているとまるで夢の中に落ちてしまう感触を感じる。
 幻想的で限りなく遠くで近い、
 真横にいるかと思えば、すでに見えなくなっている。
 そんな高揚感と疎外感が入り混じる。
 そんな妄想に浸っていると、
 突然大きな壁にぶつかった。
 なぜ聞こえるのか。
 それを考えるのに数秒かかった。
 まさに信じられないことかもしれない。
 私は瞑っていた目を開けた。
 目の前には広大な塩水の溜まり場、
 海が広がっている。
 当たり前だ。
 海にいるから潮騒が聞こえる。
 当たり前のことの筈。
 でも考えれば考えるほど、それは不思議なことである。
 ありえないことであるが、
 私は海に来た覚えなどなかった。
 仮に歩いてきたとしても、その経路を思い出すことができない。
 まるでたった今、ここで生まれた赤ん坊ように、
 それまでのことを知らない。
 覚えてない。
 まったくわからない。
 ぼんやりオレンジ色に染まった海を眺める。
 今は夕暮れらしい。
 相変わらず海は潮の満ち引きを繰り返している。
 ザーと言う音を聞いて、何かを思い出しそうだが、
 すぐに掌から逃げていく。
 まるできりがなかった。
 砂を踏む音を聞いた。
 後ろを振り向くと一人の女性が立っている。
 手には2本の缶が握られている。
 「ジュース買って来たよ。コーラでよかった?」彼女が尋ねる。
 私は彼女を無言で見つめた。
 髪が肩より少し下で、スタイルもいい。顔も綺麗だ。
 つまり、なかなかの美人で、そこらの女よりは際立って見えるような女性だ。
 でも心は「誰?」と言う声を山彦のようにエコーさせている。
 彼女は私を知ってるようだ。
 しかし、私は彼女のことを知らない。
 「遅くなってごめんね。自動販売機が見つからなかったのよ」
 彼女が私の隣に座る。
 そして私の手にコーラの缶を握らせた。
 どうしようもなかった。
 彼女の言葉に反応しようとしても、
 どんな言葉を出せばいいかわからなかった。
 私はただ、彼女の顔を見つめることしかできなかった。
 やがて、彼女の表情が変わった。
 今までにこやかだった顔がカーテンがかかったように暗くなった。
 「まさか・・・」彼女が小さくつぶやく。
 それも蚊の羽音のように、小さな小さな声で。
 やがてゆっくりと彼女の口が動き出す。
 「私のこと、覚えてる?」
 その声は恐怖に包まれた震えた声だった。
 私は彼女から目線をはずして、ゆっくり顔を振った。
 「そっか・・・」彼女が笑って声を漏らす。
 でもさっきしていた笑顔とは全く異質なものだった。
 まるで絶望を諦めたような悲しみと虚しさが詰まった笑顔。
 そんな顔をして彼女は俯いた。
 「・・・すみません」私は自然に言葉を発していた。
 自分の声すら異質なものに感じた。
 彼女が無言で顔を振る。
 「あなたは謝る必要なんてないの。あなたは何にも悪くないから」彼女は私の顔を見る。
 「でも、私は君を・・・」
 「言わなくていい」私の言葉が遮られた。「こんなこと・・・事だから」
 声はとても弱弱しかったが、
 言葉を放つ彼女の顔は笑っていた。
 でも、瞳に光が見える事はなかった。
 彼女は再び俯いた。
 私は前を向いて、海を眺めた。
 しばらく無言の時間が続いた。
 相変わらず、海は潮騒を繰り返している。
 突然彼女が立ち上がった。
 「やめたやめた。くよくよしてたってしょうがない」
 彼女は背伸びをする。
 そして、私に手を差し伸べた。
 「今日はもう遅いから帰ろ。家、わかんないでしょ。送ってくわ」
 僕は彼女の手に引かれて立ち上がった。

 *

 帰り道、歩きながら様々な事を話した。
 彼女の名前は「光岡 青海(テルオカ オウミ)」と名乗った。
 そして、私の名前は「赤銅 聖(アカガネ ヒジリ)」と言うことを知った。
 私と彼女は恋人同士だと彼女が言う。しかし、そんな事言われてもまったく心覚えがない。
 私も彼女もE高校の2年生だと言う。E高校は県内でも偏差値の高い学校だそうだ。私はそこでバスケットボールの選手をやっていて、彼女はそのマネージャーをしている。私はバスケチームの中で中心的存在だそうで、1年生の頃から活躍し、全国大会へ導いたほどの腕前だと言う。
 私の家族は5人家族だそうだ。祖父と両親、そして弟が一人。それと「タロ」と言う名の犬を一匹飼っている。祖母は3年前になくなったと言う。
 そして、真剣な顔で最も重要なことを語り始める。
 「気づいてると思うけど、実はあなた、記憶喪失になってるのよ」
 「あぁ、やはり・・・」私は詠嘆の声を漏らす。
 「結構長い間、記憶が戻らなくて・・・」
 私は暗い顔をしたのだと思う。青海が気を使って、急に明るい声を出した。
 「いや、その内戻ると思うよ。失ったままなんてないはずだしさ」
 「・・・でもさ、記憶喪失にしてはなんかおかしな気がするけど・・・」私から見れば、ついさっき記憶がなくなったという感覚なのだ。
 「あぁ、そのぉ・・・」青海が少し言葉を切る「ちょっとね、色々あるのよ」
 「色々?」
 「そ、ちょっと特別なのよ」
 私はその“特別”について聞いてみたがそれ以上言葉が返ってくることはなかった。
 そんなことを話しながら私は家に着いた。
 「明日は学校あるから休まず来てよ。じゃあ、また明日ね」そう言って彼女は帰っていった。暗い話をしたというのに、あの明るさはどこから来るのだろう。
 家に入るのに少し躊躇いを感じた。何せ記憶がない以上、この家は他人の家と同じものであるからだ。かといって行く当てなどあるはずもなく、家に入ることを拒めなかった。
 少し迷ったが私は結局「すみません」と声をかけながら家の中に入っていった。
 奥から返事が聞こえた。女の人の声だ。
 奥の戸から女の人が現れた。40代ぐらいだろうか。青海の言うことが正しければこの人が私の母親ということになる。
 「あら、聖じゃない。誰かと思っちゃった。さ、早く上がんなさい。ご飯出来てるわよ」
 私は少しもどかしい気持ちで靴を脱ぎ、家に上がった。
 足を運ぶ一歩一歩がとても重く感じられた。
 「そんな慎重に歩かなくてもいいのに。ここはあなたの家なんだから」と母は言う。記憶のことは了承済みのようだ。
 正面にあったドアを開けて母親は入っていった。それに続いた。
 そこはどうやら居間のようだった。入ってすぐテーブルがあり、そこに祖父、父、母、弟らしき人が座っていてこちらを見てる。私はとりあえず、空いている席に座ることにした。
 私が席に着くのを確認し、それぞれに「いただきます」と、一言言ってから食べ始めた。私も「いただきます」と小さく呟くように言って、箸を手に取った。
 ご飯はとてもおいしかった。きっと、この味をいつも食べているだろうなと思う。でも、味に覚えはない。懐かしさも落ち着く感じもない。たった今、初めて食べたという感動しかなかった。
 食事中の会話はいたって普通だった。その日あった出来事や、テレビに映っている事件のことなど。何も変哲もない会話だった。私はその話を聞いているだけで、黙々と箸を進めた。とても口を挟めない。これが家族だ、と青海に言われても、やはり居心地の悪さを感じ、とても安らげる環境ではなかった。
 私はとっととご飯を食べ終えた。台所が斜め後ろにあるのを確認し、食器を持って立ち上がった。食器を台所に片付けて戻ると、「あら、別においといてもよかったのに」と母に言われた。
 私は「あ、はい」とまるで知らない人に注意されたかのように答えてしまった。また場の雰囲気が重くなるんじゃないかという不安を感じる。
 とにかく、その場から離れたくて「すみません、私の部屋はどこですか」と聞いていた。
 母は「あ、そうだった」といってこちらを振り向いた。「そこのと開けて階段を上ったところよ。部屋の前に植物がおいてあるから、それを目印にして」と指をさして言う。
 「ありがとうございます」と一応礼を言う。
 「いいのよ」と言う母の声を後ろに聞きながら戸を開けて出て行った。
 階段は出てすぐの右手側にあった。階段を昇ると長い廊下にドアが4つ。その内手前から2つ目のドアの前には観葉植物らしき物がおいてあった。名前はわからないが、植木鉢の中央に立つ棒に寄り添うように立っている。葉っぱが大きく、ひときわ目立つ植物だ。私は植物を一瞥し、そのドアを開けて中に入る。
 部屋の電気を付けて見回してみたが、以外にもすっきりしている部屋だった。何しろ余計なものがない。あるのは大きなタンスと本がぎっしり詰まった本棚。それと勉強机。私はあまり物を置かない趣味らしい。全体的に部屋が無機質なものに感じる。物がないこともそうだが、青色をしたものが多いせいかもしれない。
 奥に押入れがあったので開けてみたが、たいした物は入っていなかった。上の段には布団が詰まってたし、下の段には掃除機やらモップやらの掃除用具ばかり。
 床には淡い青に所々刺繍の入った絨毯がひかれていて、ドアの反対側にある窓には、やはり青いカーテンがぶら下がっている。窓を開けて外を見ると、黒い海が見えた。もう日が暮れてしまい、空が僅かにオレンジ色になっているのがわかる。
 勉強机を見てみる。机の上には参考書や文房具がばら撒かれている。教科書類は全て、机の上の棚に並べておいてあった。整理はしっかりやっているように見える。
 隅にCDプレイヤーがあった。中身を見ないで、イヤフォンを耳にはめて再生を押す。突然喧しい音楽が鳴り響き、体がびくっと反応する。どうやらロックのようだ。聞き取れないような言葉と喧しい音楽が次々と耳に吸い込まれていく。暫く聞いた後、停止を押してまた机に戻した。
 それから、机の下にある引き出しを開けてみる。1番上の引き出しには体操着らしい服が入っていた。2番目の引き出しにはCDが入っていた。結構な数が入っており、かるく30枚は超えているように見えた。どれもシングルのようだ。3番目の引き出しはなにやらいろんなものが入っていた。何かのキーホルダーやら、何かの置物のようなものなど。どれも地方のお土産品らしい。この引き出しはその他のものを入れているという感じに見られた。
 ここまで部屋を見てみたが、驚くことに何一つ見たことがあるものがなかった。この部屋にあるものから記憶が蘇ったり、思い出に浸ったりと言うことはまるでなかった。この部屋は他人の部屋同然だった。
 私は机の椅子に座り、背もたれに寄りかかった。腕を頭の後ろで組み、ぼんやりと考え始めた。ありとあらゆる記憶を探ろうと考え込んだ。でも、やはりそれは無駄なことだった。ない記憶を探った所で、何かを思い出すなんて思わなかった。
 そこで、私はなぜ記憶がないのかを考えた。普通、記憶喪失と言えば、何かにショックを受けたりした場合に起こるはずだ。例えば強く殴られたとか、恐ろしいものを見たとか。でもそんな記憶はない。第一、海岸で座ってていきなり記憶がなくなるなんてことがあるだろうか。やはり何かあったに違いない。
 その後もあれこれと考えをめぐらせたが、それらしい答えが出る事はなかった。
 仕方がなく、思考をとめることにした。気づけばすでに明日のことを考えていた。
 明日は学校だ。青海との約束通り行かなくては。
 そう思いながら支度を始めた。

 *

 夢を見た。
 不思議な、不思議な夢を。
 私は何にもない空間にただ一人立っていた。
 上も下も前も後ろも真っ白な空間。
 見慣れたはずの肌色が妙なほど鮮やかだ。
 自分だけが進んでいるような気もすれば、
 自分だけが取り残されているような感じもする。
 突然、1つの芽が足元に生えた。
 それに反応するかのように芝生が広がっていく。
 それはドミノ倒しのような、
 波紋のような、
 そんなイメージがあった。
 やがて、成長が止まり、半径1キロ程にまでの円状になった。
 最初に現れた芽は急激に育っていった。
 私は少しづつ離れていった。
 30秒も待てば、それは見事な大木となっていた。
 白い空間に突然出現した緑。
 私は無意識に大木に触れていた。
 夢の中だと言うのに、妙にざらざらとしたリアル感があった。
 私はゆっくりと腰を下ろす。
 そして大木に背中を預ける。
 安らぎが私に襲い掛かる。
 夢の中で眠ってしまいそうだった。
 ふと芝生に触れていた右手を見る。
 だが、右手を見たわけではない。
 私はその奥にあるものを見ていた。
 そこには芝生が無く、茶色い土がポツンとむき出しになっていた。
 そこがもこもこと蠢いた。
 それは次第に頭を出し始めた。 
 大きな目を晒しだし、
 細い前足を飛び出させ、
 土から這い出ようとしている。
 一瞬グロテクスに見えたが、すぐ正体がわかった。
 それは、4年という長い年月を土の中で過ごし、
 たった今覚めたばかりの
 蝉だった。

 夢はそこで終わった。
 目を開けると、見慣れない板張りの茶色い天井が目に飛び込んでくる。そこは白い空間ではなく、紛れもなく自分の部屋だった。
 嫌にリアル観のある夢だった。なにか胸騒ぎがする。ただの勘だが。
 私は寝たまま、枕元にある時計に手を伸ばす。
 7時14分。
 学校には8時までに行けば良い。学校までは15分ぐらいだそうだから、7時45分より前に出れば十分間に合う筈だ。
 私はのっそりと起き上がる。支度はすでに済んでいるので、後は着替えて朝食を食べるだけだ。
 私はとりあえず1階に行く。降りたところで母と出くわしてしまった。
 「あら、おはよう」母が言う。
 「あ、おはようございます」まだ家族との間に壁があるようだ。
 母はそのまま台所のほうに向かっていった。
 私はとりあえず洗面所に向かうことにした。昨日、家中を見てまわったので大体の見取り図は頭に入っている。
 用を足し、顔を洗って居間に向かう。
 居間ではもうすでに朝食の準備がととのっていた。
 食べているのは母だけだった。父も弟もすでに食べ終わったようだ。祖父の分はまだある。まだ夢の中なのだろうか。
 席につき「いただきます」と呟いて箸を手にした。
 メニューはご飯、シシャモ、目玉焼き、豆腐の味噌汁、それと牛乳がついていた。見ているだけで食欲が沸いてきた。
 玄関でチャイムが鳴る。「は〜い」と母が返事をし、玄関に向かった。
 だが、数秒で母が戻ってきた。
 「聖〜。青海ちゃんが迎えに来たわよ。彼女も朝早くから大変ね〜。早く行ってやりなさい」と笑いながら言う。
 もう?と心の中で思う。
 時計を見上げる。デジタル時計は7時22分を指していた。
 私は味噌汁を一気に飲み干し、2階へと駆け込んだ。

 青海は笑顔で「おはよう」と挨拶をした。
 私がおはようと返す前に「さぁ、行くわよ」と言ってとっとと出て行ってしまった。行動の早い人だ。
 靴を履いて玄関を出て、彼女と並んで歩き出した。
 「朝だっていうのにやたらと暑いわね〜」彼女が話し始める。「こうも暑いと学校も行きたくないなぁ」
 私はどうも居づらい雰囲気に押されて、無言で返してしまった。そのかわり、顔を微笑ませた。
 「ところでさぁ・・・」彼女が言いづらそうに話す。「あれから、何か思い出した?」
 私は少し躊躇いながら小さく首を振った。
 「・・・そっか。やっぱりね」彼女は目線をそらして前方を向く。
 また気まずい雰囲気になってしまった。
 私は慌てて「だ、大丈夫ですよ。その内思い出しますから・・・。そんな悩まなくても・・・」と言う。
 彼女は首を振る。「聖君が悪いわけじゃないのよ。そんなこと言わなくて良いの」そう言っているものの、顔は悲しそうだった。
 「さぁ、もっと明るい話にしましょう。」
 学校までの15分は2人が話すには短すぎた。話しているうちに一瞬で学校に着いてしまった。とは言っても、一方的に彼女が話しただけだが。
 彼女も私も2年2組の教室だそうだ。2組は学校の2階の端にあるそうだ。学校は結構入り組んだ構造になっていた。そのため、2組の教室に行くまでの道のりを忘れてしまった。また学校中を見てまわりたいと思う。
 「お〜っす、聖」2組の教室に入ると、すぐさま男子生徒が話しかけてきた。スポーツ狩りの髪の毛で、ガタイのいい体つきをしている男だ。運動部であることはすぐに察することが出来る。顔は結構の男前でがっちりとしている。見た感じ、喧嘩で負けたことのなさそうな男だ。
 「どうした?なんか驚いた顔をして」私はいつの間にか表情が変化していたようだ。
 「ええっと、あの〜・・・」
 「大輔君、聖君はまた記憶が・・・」私の言葉を遮って青海がフォローする。“また”という部分が耳を貫いた。
 「そうか・・・、しかたがないな」水元 大輔(ミズモト ダイスケ)は軽く微笑みながら言う。
 丁度その時チャイムが学校全体を鳴り響いた。教室は一瞬のうちに静寂へと変化しつつあった。
 私は青海に席を教えられ、せかせかと席に着いた。
 全員が席に着くか否かのタイミングで先生らしき人物が入ってきた。
 教室は静寂に包まれる。

 一時間目は数学だった。
 しかも、運が悪いことに開始早々テストという最悪のパターン。一瞬にして意気消沈した。
 記憶がないということを踏まえると、まったく出来ないんじゃないかという予感が頭をよぎった。
 テストに目を通す。内容はどうやら二時関数のようだ。見るだけで頭が痛くなる。シャ−プペンを持って問題を解いてみるが、
 ・・・解ける。
 迷うことなくすらすらと解ける。
 30分もすれば最後の問題にまで到達した。
 最後の問題は結構難しいが自己採点でも80点はいってるだろう。
 50分間かけたが最後の問題だけは解けなかった。それでも満足のいく結果だと思う。
 ふと青海の方を見るが、清々しい顔をしていた。どうやら結果がよかったようだ。
 ついでに大輔のほうを見る。声には出さないものの、かなり険しい顔をしている。言葉に出すまでもない。
 その後も2時間目の国語、3時間目の物理、4時間目の日本史、5時間目の英語、6時間目の地理と受けたが、まったく差し支えなかった。記憶がないといっても、学習能力に変動はまったくないことがわかった。
 きっと記憶の種類が違うのだろうと結論付けた。
 その後、帰りのホームルームが終わり次第、私は青海に連れられて部活にいくことになった。部活はさっき話してくれたようにバスケ部だ。どうやら大輔も同じバスケ部員らしく一緒についてきた。
 体育館は玄関を出てすぐ左側のところにある。中に入ると独特の足音と、ボールがバウンドする音が響き渡る。すでに1年生が練習を始めてるらしく、激しく動き回っている。その音が不思議と懐かしく感じた。
 1年生が入ってきた私らに気づき、「こんちわーッス」と挨拶をしてくる。それに大輔が答え、「オーッス、元気にやってるか?」と大きな声で言う。その声と同時に1年生らが私たちの元に集まる。
 1年生は全部で8人いた。小柄な奴からやたらとゴツイ奴まで体格はさまざまだ。どうやら4対4でゲームをやっていたらしい。頬を流れる汗の量から、かなり長い時間やっていたのがわかる。
 「全員いるな。アップは済んでるようだから、俺らが着替えてくるまで休んでろ」大輔が指示する。1年生らは「はい!」と威勢のいい声を出し、それぞれに散らばる。私たちは更衣室に向かった。
 更衣室にも数人の2年生がいた。大輔に聞いたが、2年生は全部で11人いるそうだ。サッカーチームが出来るな、と即座に考えた。
 運動着に着替えると、体が途端に軽くなった気がする。来ていた制服が鎖のような役割をしていて、一気に開放したような感覚がある。とにかく体を動かしたいという欲求に襲われた。
 更衣室を出てまずはランニング。校外に出て、3キロほど走る。再び体育館に戻り、基礎練習を始める。ドリブルやシュートなど。こちらも勉強と同様、記憶がなくとも体が勝手に反応してしまう。ドリブルもシュートも即座に体が反応し、正確なコンディションを保ってくれる。
 そして実戦。まずは1・2年生合同で試合を行った。全員で19人いるので体育館を2つに分け、5対5の10分間勝負を行った。俺は大輔の言うがままに4人のグループに入れられた。
 4人というハンデを負っているものの、不思議なくらい面白い試合だった。やはり体はすごい。的確なパス、俊敏なドリブル、更には3ポイントシュート。どれをとっても申し分ない。まさにオールエクセレント。自分でも驚くくらいだ。まるでバスケをやるだけに産まれてきたような存在だ。信じられない。
 結局、試合はこちらのチームの圧勝。ほとんど私だけで勝負を決めてしまったようなものだった。
 「流石だな、お前は。記憶がないってのにたいしたもんだ」壁に寄りかかってスポーツ飲料を飲んでいた大輔が私に言ってきた。
 「ほんと、すごいわね。県下ならほぼ無敵よね」試合を見ていた青海も言ってくる。
 「自分でも驚いていますよ」思った通りのことを言う。「前の私もこんなだったのですか?」
 「ええ、そうよ。もう誰も寄せ付けないって感じ」青海が張り切って言う。
 「これで、潤夜がいたら最強だったのにな」大輔が小さく呟く。
 「いたら?いないのですか?」私はそう聞いてからはっとした。
 急激に雰囲気が豹変するのを肌が感じ取った。まるで突然の停電のようにぷっつりと。大輔は下を向いてしまったという顔をしている。青海は目をそらし、何かに怯えるように体を震わせている。他の部員も、皆顔を合わせようとはしない。
 またもや気まずい雰囲気にたじろいでしまった。
 その沈黙を大輔が破り捨てた。
 「このバスケ部に柳川 潤夜(ヤナギガワ ジュンヤ)て言う2年生がいたんだ」大輔が静かに語りだす。「陽気な奴で、お前のように天才的にバスケがうまかった。お前と組んでバスケをやらせたら、もう勝てる奴なんていなかった」
 「・・・なぜいないんですか?転校ですか?」意外にも自分の声が震えて驚いた。
 また大輔が黙り込む。そして決心したようにはっきりと一言だけ、
 「失踪だ」と囁く。
 私は息を飲んだ。
 「失踪・・・」ただ、その言葉を繰り返すことしか出来ないほど、自分自身を嫌悪していた。
 なぜ聞いてしまったんだろう、と。
 「一ヶ月前ほどに忽然と姿を消した。先生も友達も親も誰も知らない。ましてや置手紙もない。煙のように消えてしまった」大輔は言葉を切る。「警察に通報はしたけど、まったく手がかりなし。一ヶ月たった今も、その消息は不明。行方不明ということでその事件は警察の間でも片隅に追いやられることになった。もう、潤夜の所在は誰にもわからない」
 私はもう黙っていることしか出来なかった。ただ、後悔と嫌悪が自分の中で渦を作っていた。聞かなければ良かった。皆に悲しい顔をさせたくなかった。後の祭り。どうしようもない。
 その後は他の部員も気が抜けたようになってしまい、
 その場で解散ということで終わった。

 *

 
一週間が経過した。
 学校生活も、友達や家族の接し方にも慣れてきた。
 勉強も部活もなんとかやっていけた。勉強で困ることはないが、部活は結構大変だった。あの話を聞いた次の日には、ほとんどいつも通りの部活に戻っていた。では何が大変だったかというと、部活の内容がハードだったことを片隅に、気まずい雰囲気にならないように、部活仲間に気を使いすぎて、逆に精神的にやつれてしまった。自分がかなりの心配性であることが身にしみた。
 また夢を見た。
 この前の続きの夢を。
 初めは蝉が土から這い上がり、木に向かって歩き出す。
 それが日に日に木を上り始める。
 今では腹の辺りまでにいる。
 そしてそこで動きを止めた。
 見るたびにリアル観は大きくなっていき、
 胸騒ぎも酷くなっていくばかりだった。
 いったい何があるだろか。
 それがつい昨日、
 つまり今朝の夢だ。
 今日は土曜日。
 普通どおり授業はないのだが、部活があるためどちらにしても学校に行かなくてはならない。
 サボりたいとは思ったが、その前に青海が迎えに来てしまった。行かざるをえない。
 内容はほとんど放課後行う部活と同じだった。いつもよりハードであることを抜かせば。ウォーミングアップで7キロも走ってしまった。更には試合の回数も多く、かなり体を動かした。もう足ががくがくだ。
 終わってみれば、立つことにも嫌気がさすほど疲れていた。帰るのも億劫。
 それでも、青海に半ば無理やり立たされ、気づけばすでに岐路の途中だった。
 「どう?練習は」青海がにこやかに話しかけてくる。
 「死にそう。こんなのが毎週あると考えるととても憂鬱だなぁ」今にも死にそうな声で答える。フレンドリィな人たちのそばにいるせいか、自然と敬語が消えていた。主語も私から俺に変わっていた。
 「あは、やっぱり?私も見ててそう思ったよ」
 「大輔ももっと手加減してくれればいいのに」
 「あれ?さっき大輔君を“さん”付けで呼んでなかった?」
 「さっき怒られた。『親友だぞ!“さん”なんか付けなくていい!呼び捨てで十分だ』だってさ」
 青海が高らかに笑う。相変わらず笑顔が絶えない子だ。
 「そうだ。ねぇ、明日どっか遊びに行かない?」
 明日か。気分転換にはいいかな。
 「あ、いいねぇ」2つ返事で賛成する。「どこに行く?」
 「そうだねぇ」口に人差し指を当てて考え込む。俺は一瞬見とれてしまった。いきなり、何か閃いたように顔を輝かせてこちらを向いた。一瞬の動作に少し体が反応してしまった。「遊園地なんてどうかな?最近行ってないしさ」
 遊園地。
 頭の中でそのワードをエコーさせる。山彦のようにようによく響いた。
 「うん、いいんじゃない」
 「でしょう?」
 「でも、俺場所わかんないけど・・・」
 「いいわ、私が送ってくから。じゃあ、明日9時に迎えに行くから」
 「いや、いいよ。たまには俺が迎えに行くよ」
 「何言ってのよ。私の家わかんないでしょ」
 「あ、そうだっけ」
 また青海がクスクスと笑い出す。
 俺ははにかみながらその顔を見ていた。
 その後、次の十字路で青海と別れた。家が逆方向なのだ。少し寂しい気もする。
 結局、青海に記憶のことを聞けなかった。“また”と言った意味を聞いてみたかった。しかし、それは出来なかった。というより、聞く気になれなかった。記憶のことを話す彼女は常に辛い顔だった。そのことを思い出すだけで、胸が苦しくなる。例えるならメデューサに睨まれたのを想像して欲しい。まるで心臓まで石になってしまいそうだ。
 記憶のことは口裂け男になったとしても喋らないだろう。
 長い塀に囲まれた道路を歩く青海の背中を、見えなくなるまで見つめていた。
 記憶はいつ戻るのだろう。
 俺は自分の家に向かって歩き出した。

 *

 蝉は何も動かなかった。
 僅かな背中の歪みを覗かせながら、
 ただ静かに木にしがみついている。
 そんな事やってて疲れないのかと思う。
 と言っても表情からはまったくわからない。
 むしろ、表情など表れないのだが。
 夢の俺はそれをただ静かに見ていた。
 別に面白みも何もない。
 歪みが少しずつパリパリ開いていくのを、
 じっと見つめるだけだ。
 目線はまったく離れない。
 夢の中の俺は飽きないのだろうか。
 リアルの俺だったら、すぐ飽きてしまう。
 そんな夢の時間は無限といっていいほど長く感じた。
 やがて、少しずつ白き衣が見えてきた。
 夢の俺は、それをワクワクしながら見ていたのだろうか。
 俺には判断出来ない。
 そこでリアルが復活した。
 目の前には木ではなくて加工された木目。
 再び現世に舞い戻ることが出来た。
 服がぬれている。
 寝ている間に体中に汗をかいたようだ。
 俺は何に怯えていたのだ?
 ただ蝉が脱皮するだけの夢に。
 いったい何があると言うのだ?
 何を伝えているのだ?
 夢の俺とリアル俺ではまったく違う存在に思える。
 なぜだ。

 今日は日曜日。
 青海との約束の日だ。
 昨日言っていたとおり、9時きっかりに青海が家に訪れた。
 私服の彼女はとても可愛らしかった。蝶のように見ているだけで癒される。夢に怯えていた自分が、なんともみすぼらしく思えた。自然と顔がにやけているのに気が付き、顔に力を入れ一瞬で表情を戻す。
 徒歩10分で駅、そこから20分ほど電車、さらに15分ほどバスで行った所にその遊園地がある。あまり大きな遊園地ではなかった。ちゃんと名前もしっかりあるのだが、はっきり言ってどうでもいいのですぐ忘れた。今思い出せと言っても、もう一度パンフレットを見なくてはならない。
 遊園地の中は結構込んでいた。見渡す限り人だが、まったく歩けないというほどでもない。どちらかというと、これぐらいの方が歩きやすくていいのかもしれない。
 「ねぇ、なにから乗る?」青海が聞いてくる。
 「そうだなぁ・・・」俺はあたりを見渡す。すぐ目の前に少し小さめののジェットコースターが聳え立ってる。
 「あれから乗ろうか」俺はそのジェットコースタ−を指差しながら言う。
 「う〜ん、まぁ、あれくらいならいいかも。じゃあ行こ」青海が俺の腕を引っ張っていく。
 俺たちはさっそく、もうすでに並んでいる列に着いた。ローテーションが早いらしく、すぐ順番は回ってきた。
少し固めの茶色い座席に着くと、係員がレバーを下ろし、「しっかり掴まってください」と一言注意を添えていく。
 「ちょっとドキドキするね」青海が言う。定番の台詞だなと思いながら俺は笑顔で軽く頷く。定番といっても、どこで使われたかなんて思いだせないのだが。
 やがて、10人の乗客を乗せたジェットコースターは動き始めた。ふと青海のほうを見ると、少し顔が強張っている。その顔を見て噴出しそうになったが、前を向いて無理やりこらえた。ガタゴトと乗り心地の悪い振動と共に、確実に上っていく。正面をじっと見ると青空が広がっている。雲1つない清々しい青に一瞬見とれていた。
 そんな景色が反転した。
 急激な急降下。顔に当たる強風。適度の浮遊感。
 どれをとってもおもしろかった。まだまだ景色を楽しむ余裕がある。
 小さいだけあって、すぐに一周してしまった。少し物足りない気もする。
 「結構楽しめたね」青海が言う。
 「うん、ちょっと小さかったけどね」
 「そうかなぁ・・・」
 「じゃあ、次はあれ乗ろうか」俺は指差しながら言う。
 「あれ?」青海は俺の指先をたどる。「・・・って、えぇ!あれぇ!」
 俺の指の先には更なる巨大な橋、すなわち、今乗ったものより数倍は大きいジェットコースターが魔物のように聳え立っている。
 「無理無理!絶対無理ぃ!」青海が全身で拒否する。
 「ん?ジェットコースター苦手なの」
 「・・・ちょっとだけ」
 「じゃあ、大丈夫だよ。今のが乗れればこっちも平気だよ」
 「それ全然理屈通ってないよ。絶対無理だって」
 そんな青海を俺は無理やり連れて行った。列に着くと青海は諦めたように黙ってしまった。緊張しているのだろうか。
 先ほどのと違って、こっちは列の進みがかなり遅かった。人は大して多くないとはいえ、一応は人気のアトラクション。混まないわけがない。
 最終的には20分ほど待って乗り込むことが出来た。
 座席に座ってみると、こっちの方が少し柔らかく、質が良かった。こういうところに金をつぎ込むのか、などと嫌味を考えてみるものの、到底言えるわけがない。
 そしてとうとう待ちに待った(青海にとってはきて欲しくない)時間がやってきた。ガタガタという独特な振動音を響かせ、10人を乗せた小さな列車は確実に高さをあげていく。先ほどのよりこの時間が非常に長い。それだけで緊張と興奮が10倍にも膨れ上がっていた。
 ふと隣の青海を見る。まだ上っている最中だというのに、すでに俯きながら目をつぶり、レバーを強く握っている。微かに震えているようにも見えるが、それは俺の妄想だと思う。
 やがて機体は絶頂へと向かう。高さはわからないが、高所恐怖症の人なら十分震え上がる高さだろうと思う。
 だが、そこで思考は停止する。
 ガコンと音がし、俺の顔は下を向いていた。
 そして急激な降下。
 否、落下。
 もう傾斜がどうとか速さは何だとかはどうでもいい。
 全てが吹き飛ぶように俺の体は落ちていく。
 体は揺らされ、
 風圧で目もまともに開かない。
 髪は乱雑に乱れ、
 悲鳴や風の音から耳を塞ぎたくなる。
 それでも、乗り心地は最高だった。
 落下による浮遊感も、
 風を切る爽快感も、
 恐怖を逸した高揚感も、
 なかなか味わえない。
 最高だ。
 やがて、機体はホームに滑り込むように入る。アトラクションの終了だ。
 どう考えても、俺には短すぎる気がした。楽しさは時間の進みを早くする、というのはこのことだろう。
 もう一回乗ろうと言いたい所だが、青海が許さないだろうから発言は控えた。
 その青海だが、もう足は地についているというのにまだふらふらしている。よっぽど駄目だったらしい。乱れた髪を直すのも忘れて、調子を整えるのに全身系を集中しているようだ。彼女にとって、ジェットコースターは退屈な授業より長く感じただろう。
 「大丈夫か?」と声をかけて、一応「大丈夫」という返答は返ってくるものの、どう見ても大丈夫じゃない。
 俺は強がる彼女を無理やりベンチに連れて行き、座らせた。その後俺は「何か買ってくる」と言って、近くの売店に足を進めた。
 売店には色々な物が売られていて、何を買っていこうか迷った。というより、どれが彼女が欲しいものかを考えたと言う方が適切だ。悩んだ末、1個100円のバニラのソフトクリームを買って行くことにした。
 ベンチに戻ると彼女はすっかり調子を戻したようだ。髪もしっかり整っている。
 「大丈夫か?」一応聞いてみる。
 「うん、なんとか大丈夫」笑顔で青海が答える。
 「ソフトクリーム買ってきたぞ。食べれるか?」
 「ありがとう。大丈夫だって。心配ない心配ない」明るく話しながらソフトクリームを受け取った。
 暫く、ベンチに座ってソフトクリームを食べた。その間は彼女が一方的に話しかけてきた。主な内容は先ほどのジェットコースターの愚痴についてだった。「あんなもの、もう2度と乗りたくない」とか「良くあんなの乗って平気ね」とか。
 食べ終わった後は、また遊園地巡りを再開した。それにあたって、いつの間にか主導権が入れ替わっていた。つまり、彼女がリードしていくようになった。つまり、懲りたのだろう。
 最初に入ったのはなんとお化け屋敷だった。あれだけジェットコースターは怖いといっておきながら、こうゆうのは大丈夫なのかと不思議に思う。実際に入ってみれば予想通り。一応は悲鳴を上げて腕にしがみついてきているものの、どう見たって顔は笑っている。楽しんでいるようにしか見えない。
 それに引き換え俺はというと、こうゆうのは苦手だということを新たに発見した。声に出さないが、驚くたびに全身が震え上がり、立ちすくんでしまう。先に進むにも、青海なしではまったく進まない。元気も勇気も100倍にしなくては。顔が変えられたら、なんて考えてみたり。
 この結果から、恐怖の感じ方は俺は物理的に強く、彼女は精神的に強いという考察が得られる。それだけであるが、なかなかおもしろい。こんな二人だから、互いが相殺し合ってうまくいくものなんだろうなんて思う。
 その後も2人で様々な乗り物に乗った。例えるなら観覧車やコーヒーカップなど。どれも定番ともいえるものたちだ。
 いずれにしても、とても楽しかったと言える。その最大の要因はやはり、青海が一緒にいたことに起因するだろう。口には出せないが本当の事だ。嘘はつかない。
 動き回って2人とも疲れたということで、またベンチで休むことにした。先ほどのは青いベンチだったが、今度は赤いベンチだなと考えたが、そんな思考は霧のようにすぐ消えてしまった。
 「なんかジュース買ってくるよ」青海が言う
 「じゃあ、俺も」
 「いいわよ。さっき行ってくれたでしょ」
 「そうか、じゃあ頼むよ」
 「何がいい?」
 「そうだな・・・、コーラでいいや」
 「オッケー」そう言って青海は歩き始めた。
 俺は彼女の背中を見届け、浅く椅子に腰掛ける。この姿勢のほうが楽でいいからだ。
 暫くは人ごみを眺めていたが、また記憶のことを考え始めていた。こればからは本能的に逆らえない。
 やはり、何度考えても彼女に記憶のことは聞けない。
 今笑っている顔が歪んでしまうのは見たくない。
 かと言って、このまま記憶が戻らないのは意味がない。
 なんとしても記憶を取り戻したい。
 自分自身のためにも。
 また、彼女のためにも。
 しかし、どうしたら記憶は戻るのだろう。
 本で調べた内容ではショックを与えること。
 例えば強い衝撃を与えるとか、
 または印象に残る場所やものなどを見るなど。
 いずれも原始的で簡単な方法だ。
 案外こういうものが成立したりするものだが、今のところうまくいかない。
 やはり、その時が来るのを待つべきだろうか。
 自然復活するのを祈ることしか出来ないのだろうか。
 だが、そんなのを待っている暇などない。
 一刻も早く記憶を取り戻したい。
 あるべき2人に戻りたい。
 俺は目を瞑る。
 精神統一の一種。
 まぶたの裏にある映像が蘇る。
 夢だ。
 蝉がとまる木の夢。
 想像なのにはっきりしている。
 もちろん寝てなどいない。
 蝉はあるべき場所から動かない。
 更には背中の割れ目から白い蝉が生まれてようとしている。
 俺はそれに見入る。
 白い蝉はゆっくりと殻から這い出る。
 やがて、ゆっくりと羽が広がる。
 1枚。
 2枚。
 3枚。
 4枚。
 全ての羽が広がる。
 やがて羽が羽ばたき始める。
 徐々にスピードを上げる、
 そのスピードが最大になり、
 そして、
 俺の手から何かが飛び去った。

 *

 「結論から言いますと脳の一部が破損しています。
  この脳の断面図から見てもわかるようにこの器官に破損が見られます」
 「それはなにかに影響するのですか」
 「幸い、命に別状はありませんが、その代わり記憶に障害が出ます」
 「記憶に?」
 「ええ。記憶にはいくつかの種類があるんです。
  この器官は主に思い出としての記憶を保存するものです。
  ですから、この器官が破損すると思い出としての記憶が消滅する可能性があります。
  つまり定期的に覚えたものを忘れてしまいます」
 「どういう時に忘れるのですか?」
 「今までの例としてはリラックスしている時です。これが最も起こりやすい。
  その他には寝ている時やぼんやりした時などです。
  総合的に見ると、僅かな心の隙間にふっと忘れることが多いようです」
 「では、生活とかには・・・」
 「生活自体には影響はありません。
  基本的な事項は記憶する器官が違うのです。
  ですから日常では心配はありません」
 「治療法は・・・」
 「ないこともないです。
  しかし、手術で直すには非常に困難です。
  過去にもこういった例はあるようですが、可能性はきわめて低い。
  失敗すると何一つ記憶出来ない可能性もあります。
  現在の医学技術ではきわめて難しい」
 「そう・・・ですか・・・」
 「しかし、別の方法もあります」
 「どういったものですか?」
 「薬による治療もあるんです。
  治る可能性は低く、また何十年後になることもあります
  しかし、こちらの方が圧倒的にリスクが少ない」
 「では、そちらの方をお願いします」
 「ええ、私もこちらの方が良いと思います。
  個人的な意見ですが。
  では後ほど薬のほうをお渡ししますのでロビーのほうでお待ちください」
 「どうもありがとうございました」

 *

 私はその薬を聖君に使っていない。
 粉々に砕いて全て捨ててしまった。
 しかし、怪しまれるといけないので、一ヶ月に一度は病院に通っている。
 こうでもしなくては全てを隠すことが出来ない。
 全部彼が悪いんだ。
 何もかも聖君が・・・。
 一ヶ月と少し前のことだ。
 あのころの全てが懐かしい。
 何もなければ聖君と普通に付き合えたはずだった。
 それが崩壊したのは潤夜君のせいだ。
 彼が私に気があったのは気がついていた。
 彼は聖君と私が付き合ってることを知りながらも、私に告白してきた。
 私は当然のごとく、ふった。
 だが、それがいけなかった。
 彼、潤夜君は独占欲が強すぎた。
 そのせいで私は酷い目にあった。
 不快な電話や手紙が毎日届いたり、
 誰かに襲われそうになったり。
 それが潤夜君だって気がついたのは少したってからだ。
 私はその嫌がらせに耐えられなくなっていた。
 ある日、私は彼を呼び出した。
 人気のない体育館の裏に呼び出し、そこで

 ――彼を殺した。

 このときの感情は異常だった。
 でもこうするしかないと、そう思うしかなかった。
 今でも殺した時の感覚が残っている。
 忘れることは出来ない。
 この後は死体を運び、隠す作業をするだけであった。
 予定では近くの山で埋めるはずだった。
 そこで順調だった歯車が狂ってしまった。
 その殺人現場を聖君に見られてしまった。
 一番見られたくなかった彼に。
 彼は驚いた目で私と死体を交互に見比べた。
 だが、後ずさりをした彼は石に躓いて気絶した。
 私はまた思考を巡らせた。
 どうしたらいいのかを。
 一人暮らし潤夜君と違って、彼は一家で住んでいる。
 いきなりいなくなったら怪しまれる確率が高かった。
 先に思いついたことは死体を隠すことだった。
 死体は用意した大きな布の袋に入れ、近くにあるガラクタで隠しておく。
 その日が金曜日であったため、次の日にでも山にもって行けばよかった。
 問題は聖君だった。
 彼ばかりはどうしようもなかった。
 幸い、放課後な上に、ただでさえ人が来ない所なのでこれ以上人に見られる可能性は低い。
 だが、そうこう考えている内、聖君が意識を取り戻してしまった。
 私は戸惑った。
 咄嗟に潤夜君を殺した道具、鉄パイプを手に握っていた。
 だが、彼の様子が違った。
 彼は私の姿を見て「誰ですか?」と言った。
 私は鉄パイプを捨てて彼に近づいた。
 私が幾つか質問したが、彼はわからないと答えるだけであった。
 彼は記憶を失っていた。
 これが天使の声か悪魔の囁きかはわからない。
 しかし、私のやることは決まっていた。
 唯一の証人がいない以上、殺人を隠し通すだけだ。
 更に幸いだったのは、彼の記憶は定期的に忘れてしまうことだ。
 そんな症状があるとは知らなかったが、まさに幸運であった。
 薬さえ与えなければ、彼は記憶を取り戻さない。
 つまり私は記憶を失った彼氏を持つ悲劇の少女を演じればよかった。
 潤夜君の死体は次の日に埋めた。
 人に見つかることはなかった。
 死体が見つからなければ、彼が殺されたとはわからない。
 警察も失踪、または誘拐として捜査をするだろう。
 全てが繋がった。
 そして1ヶ月たった今、私は捕まっていない。
 潤夜君の捜索も打ち切られた。
 聖君の記憶も戻らない。
 心配することはない。
 このまま生きられるはずだ。
 きっと。
 彼の記憶が戻らなければ。
 きっと。

 *

 殻を破った蝉は
 透明な羽を羽ばたかせ、
 大空へと舞って行った。
 その光景を、
 本当の聖は眺めていた。
 悲しく、そして虚しく、
 眺めていた。
 現実の聖は気がつかなかったが、
 この木にはまだたくさんの抜け殻がついている。
 どれもが忘れ去られた過去の産物だ。
 蝉は脱皮することで成長し、
 生きられる。
 4年という長い年月を共にした抜け殻を、
 人生の中の最大のパートナーを捨て、
 そして生きる。
 そうしなくては生きられない。
 それが摂理なのだから。
 彼らは空蝉を捨てることで、
 本当の現人(うつせみ)になれるのだ。
 また土が蠢く。
 新たな蝉が生まれようとしている。
 本当の聖は木を這い上がってくる蝉を見る。
 悲しい目で、
 空ろな目で
 虚しい目で。
 この蝉もまた、
 相棒を捨て、
 空へと羽ばたくのだろう。
 相棒を忘れることで、
 自由を手にすることが出来る。
 生きるために。 
 命を繋ぐために。
 そして今日も、
 新たな蝉が
 混沌の世界に、
 羽ばたいた。

 終

 なお、この物語に出てくる病気、及び登場人物は実際に存在しません。



-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

後書き

 私の第六作目になる『無限空蝉』。今回は今までの物と比べ、完成度が高いです(主観的観察ですが)。とても満足のいく作品に出来上がりました。その分これまでもの物より長くなりました。
 当初の予定では、潤夜君は出てこない予定でした。つまり、何度も記憶を失うという虚しさを表わすだけのものでした。しかし、それでは物足りない。今までの作品と同じように薄っぺらになってしまうという理由から、更に裏を作ることにしました。で、結果このようなどうしようもない虚しさを感じさせる小説となりました。
 今回は背景にかなり困りました。蝉の絵を描くのがめんどくさくなってしまいました。よって、弟の知恵を借りて、実写のままでうまく活用する方法を編み出しました。少し無理がありますが、なかなか良いほうではないかと思う。

 これより下は作品に出ない話を含むので、伏字で書きます。
 たぶん読者で一番最後の文で意味不明になる人が多いかもしれないので、簡単な説明を施します。

 まず、複数の聖について。夢の中の聖というのは、記憶を全て持つ本当の聖です。現実の聖、つまり記憶を失った聖は本当の聖の目を借りて蝉の姿を見ていたことになります。

 続いて、蝉の示唆する内容について。結論から言えば、蝉は記憶を失った聖を表し、抜け殻は記憶を表します。蝉が抜け殻を捨てることで生きるように、聖もまた、記憶という抜け殻を捨てて生きていきます。むしろ、抜け殻を捨てなければ生きていけない。第3者によって生かされている立場という物を表しています。

文が下手で伝わりにくいかもしれませんが、その点はこの場を持って謝ります。
また、次回作を期待せずお待ちください。

戻る