『夜想曲【Fallen Angels】 前編』 0 プロローグ 雲。 空一面を包み込む漆黒の黒雲。 その黒は何もかもを遮断し、太陽の光すらも漏れることはない。 その情景はひとつの世界の絶望を予期しているように、大量の水を落としながらゴロゴロと唸りを上げ移動する。 時計はまだ夕刻の五時を指しているのというのに、これでは夜同然。 人々の不安が高まるのも時間の問題だ。 雨。 矢のように全てを貫く豪雨。 屋根に当たる矢は銃弾のように鋭く、弾けるように地面に集合してゆく。 バケツをひっくり返したというより、風呂桶をひっくり返したといったほうが適切だ。 その容赦なく降る雨を見ているだけで、凍てつくような寒々しさを感じる。悪寒というべきか。 人間が見せる悲しみや絶望をかわりに見せているのかもしれない。 雷。 一瞬にして流れる莫大な衝撃。 そして全ての拒絶を表すような激しい閃光。 どす黒い恐怖の対象として人々に戦慄を与えてきた巨大な存在。 その煌きは、あらゆる生物の死への導きを表明している。 閃光が飛び交うたびに、命が消えるのではないのかと不安になる。 窓。 日常と世界を分けるたった一枚のガラス。 このガラスがあったからこそ、私が向こうに行かなかったのかなと思ってしまう。 外の光景と中の情景は全くの異世界のようにしか感じられない。 外が闇と呼ばれるのなら、中は光と呼ぶのがふさわしい。 このガラスを壊すことは出来る。 二つの世界を融合することも出来る。 もし、この窓を壊した時、この部屋はなんて呼べばいいのだろう。 光と闇が合わされば……か。 誰かが言ってたな。 私。 窓を通して雷交じりの土砂降りを眺めていた。 この光景を見ることは、彼に手を差し伸べた時点で起こらなければならない現象だったことを、私は知っていた。 少なくとも予期していた。 そもそも私の価値観が変わったのかもしれない。 一週間前の分岐点でこの道を選んだからこそ、この情景がただの嵐ではなく、“破滅”を示唆していることに気づいた。 そして、その“破滅”に私が関与していることも認めざるを得ない状況でもあった。 彼。 今、何してるだろうか。私の人生を変えた彼は。 戦っているだろうか。足掻いてるだろうか。 叫んでいるだろうか。逃げているのだろうか。 血を流しているのだろうか。やられてしまったのだろうか。 それとももう、この世にはいないのだろうか。 そんなことはないと信じたい。 今すぐ彼に会いたい。 そればかりを願ってる。 無。 私は無力だ。なんとも情けない。 今になって“人間”であることが腹立たしい。 助けることも出来ずに祈るだけなんてもどかしすぎる。 今すぐ飛び出して彼の元に行きたい。 しかし、行ったところで私に何ができるというのだ。 そんな議論が脳内で白熱している。 私は無力だ。 聖。 彼がくれた十字架を握り締める。 彼の分身。 金色に緑や赤が散りばめられた十字架。 神様なんて信じたことはなかった。 そんな物、妄想が生んだ偶像だと考えていたからだ。 だけど、今は少し祈ってみようと思う。 平穏な世界と、 彼の無事を。 そして、願ってみようと思う。 私に出来ることがあることを。 私に勇気が宿ることを。 1 雲ひとつない快晴。 強烈な日差しが窓から差し込む。 まだ7月にもなっていないというのにこの日差しは何だ。8月と言えば宇宙人なら騙せるかもしれない。 私は窓際に座っているため、この日差しを気にしてばかりいる。おかげで授業もまともに聞けやしない(もっともまとも聞く気はないのだが)。 カーテンはあるものの、時折風でゆれ、顔に光が当たる。その繰り返しで光が点滅し、さっきから目も痛い。 外に出た時日焼けしないといいけどなぁ。さっきからそればかり考えている。 時間は現在、十二時二十分。あと、十分もすれば四時限目が終了する。 逆に考えれば、あと十分もお経みたいな授業を聴かなくてはならない。「これは拷問に近いのでは?」と皆に同意を求めても、笑い飛ばされるのがオチだったりする。 思考は再び、窓から入り込む灼熱の光にのめり込む。手のひらにあごを乗せ、外をぼんやり眺める。 正面に聳(そび)え立つビルたちは放出されている熱のせいか、ゆらゆらと揺らめいている。もっとも、その手前の運動場も、よく見たら海の波のように蠢いている。今日は本当に六月なのかと、再び疑い始める羽目になった。 全く、暑い。 日焼け止めクリームを持って来ればよかったと後悔する。生憎、今日は持ち合わせてない。私はまわりに気づかれないように、小さく溜め息を漏らす。明日は絶対忘れないと、頭の引き出しに仕舞い込んだ。 そうこう妄想を広げているうちに、キンコンカンコンとチャイムが鳴った。やっと授業の終わりだ。 先生が出て行くのを見届けると、教室の空気が氷が溶けたように柔らかくなった。誰もが安堵の声を漏らしていた。 私は手を高く上げ、背伸びをして体をほぐす。軽く立ち眩みがしたが、すぐに振り払った。 「小枝〜、弁当食べよぉ〜」 私の席の後ろにいた森重 麻奈 (モリシゲ マナ)が話しかけてくる。 「はいよ」 私、小野村 小枝 (オノムラ サエ)は答える。 早速、机を反対に向け、麻奈の机とつなげた。そして、机に横の鞄から弁当と水筒を取り出す。いつもに増して弁当が重く、私はついつい笑みを漏らした。 ふと前を向くと、麻奈はもう弁当をあけて食べ始めようとしていた。 「麻奈ぁ、食べるの早いって」 「だって、おなかペコペコだもん。しょうがないじゃん」 そう言ってミートボールを箸で掴み取り口に放り込み「うん。おいし」と呟く。 「全くぅ……」と言いながら、私も玉子焼きを口に運ぶ。 森重麻奈は私の親友だ。幼稚園から中学校までずっと一緒で、とても気の合う友達である。高校まで一緒になれたのはなんとも運がよかった。 容姿に関しては、髪が背中の中程まである私に比べて、彼女は髪の男の子のように短いボーイッシュな髪型だった。性格も容姿に反映して、私は繊細でおしとやかな女の子らしい性格(自分で言うのはかなり恥ずかしい)だが、彼女は活発で気が強く、言いたいことははっきりと言う男らしい性格だった。 性格が正反対な割には、二人そろって男子たちに人気があった。しかし、中学の頃に告白された回数を競ったところ、0対0で引き分けた経歴を持っている。どうやら人気がありすぎで男子たちが言いにくいらしい。 「最近、やたらと暑くない?」 麻奈が話しかけてくる。 「そうそう、私窓のすぐ横でめちゃくちゃ大変なのよ」 「カーテンは?」 「風で揺れるのよ」 私はカーテンを指差す。 「窓閉めればいいじゃん」 「暑くて死ぬって」 私は顔を歪めて辛さを表す。 「てゆうか、麻奈は横が柱でいいね。丁度影になるでしょ」 「籤運がよかったのよ。神様に感謝しなくちゃ」 麻奈は冷茶をすする。 「神様? この程度で?」 「神社の籤引きと同じよ。要は気持ちよ。き、も、ち」 「そう?」 「大体、どんなところにも神様はいるのよ」 麻奈は箸を空中で回す。ハエを捕まえる動作に似ている。 「例えば?」 「席の神様とか」 「何それ?」 「勉強の足りない人ほど前の席になるとか」 「変なの」 私は微笑する。 「でもそれ当たってないよね? 教卓前の、クラスでNo.一じゃなかったっけ?」 「信じ方よ。信じる者は救われる、みたいな」 「宗教の勧誘? モリシゲ教みたいな?」 「あ、それいいかも。誰か誘ってみるかなぁ」 「無理だって」 「わかんないよ。流行るかもよ。と言うわけで御馳走様」 麻奈の机の上にはすでに空っぽとなった弁当箱が無残にも置かれている。ご飯粒一つたりともない。 「あ、早〜い。私まだ半分も食べてないのよ」 「だっておなか減ってたんだもん。おなかいっぱい」と言って腹を摩る。 「・・・相変わらずの食いしん坊」私は小さな声で呟く。 「ん? なんか言った?」 「うんにゃ、何でも」 「なんか、食いしん坊とか聞こえたけどぉ?」しつこく顔を近づけてくる。 「気のせいだよ。空耳空耳」と言いながら、私は笑いを堪えていた。 「そ?ならいいけど」 麻奈がにんまりと笑う。 「そういえばさ、最近あれ出てこないよね」 私は冷茶を飲んだところで、忘れていたかのように話す。 「あれ?」 「ほら、あの、気持ち悪いの」 「えぇっと……。あぁ、『鬼』の亡骸のこと?」 「そうそう、それ」 「いいじゃない。小枝はあれ、嫌いでしょ」 「まぁ、そうだけどさぁ・・・」 「なら、いいじゃない。そのほうが平和じゃない。そんなことよりさ」 麻奈が私の弁当箱を指す。 「小枝、全然食べてないじゃない。もうこんな時間だよ」 「あ」と時計を見ながら口を押さえる。 「早く食べちゃいなって」 麻奈がくすくす笑う。 突然大きな音が教室に響き渡った。 持っていたコップを落としそうになったが、何とか零さずに堪えた。 私と麻奈は顔を見合わせ、音源を探る。 それはドアを強く開けた為に出た音のようだ。 ドアの前には 池森尚也(イケモリ ナオヤ) が立っている。 まるで持久走が終わった後のように肩が上がっている。 「おい、久しぶりに出たぞ」荒い声で尚也が言葉を発する。 「何がだ?」近くにいた男子が聞く。 「『鬼』だ」 尚也の声が妙に響き渡る。しばしの間沈黙が続いた。 「何処に?」 一人の男子が声を落として沈黙を破った。 「体育館の裏にあったそうだ」 「生きているのか?」 「いや、やっぱり亡骸だってよ」 なんだと言う声がどこからか聞こえてくる。 「とにかく、俺はもう一度行って来るから、見たい奴は来い」 尚也は窓際の席に目を送る。 「おい、太刀彦。行こうぜ」 尚也に呼ばれた 戸羽 太刀彦(トバ タチヒコ)は読んでいた本から目を離した。 「いい、一人で行って来い」冷たい口調で言葉を返す。 「なんだ」 尚也は頭を掻く。 「じゃあ、行って来るぜ」 そう言って、尚也の姿は消えた。 教室内は暫くざわざわと騒がしかったが、一人、二人と教室を離れてゆく。 「さてと」 麻奈がゆっくりと席を立った。 「私も行って来ようかなぁ。小枝は来ないでしょ」 「当たり前じゃない」 食べ終わった弁当を片付けながら言う。 「じゃあ、どんな様子か教えてあげようか」 「それもいらない。とっとと行ってきなさいよ」 「それじゃ、行ってきますか」 麻奈もドアへと行き、じゃあねと言って姿を消した。 「全く……」 私は独り言を漏らす。 周りを見渡す。 いつの間にか、ほとんどの人が教室から姿を消していた。 皆、物好きだと私は思い、軽くため息をつく。 残っていたのは私を除くと、先程尚也の誘いを断った、太刀彦だけだった。 太刀彦はこのクラスではやや『異端児』とでも言うべき人物であった。成績は目立つほどじゃない物の、常に孤高の存在としてクラスに定着していた。と言うのも、彼の性格がクールを通り越して、冷酷なまでに冷たいためである。そのため、誰からも相手にされず、話しかけられることもなく、別の意味で一目おかれていた。容姿に至っても、前髪が簾(すだれ)のように目を覆いつくし、その隙間から垣間見る鋭い眼光が常に冷たい波動を放っているために、初めて彼を見た人と言うのは、さぞかし避けたくなるであろう姿をしている。 そんな太刀彦であるが、尚也だけは別の存在にあるようだ。 尚也は太刀彦と同じ中学からこの高校に来たそうだ(あくまで“らしい”だが)。サッカー部に入っているだけあり、体格はそこらの男とは違って、大きな体つきをしている。性格は明るく、優しく、話し上手で、男女問わず誰からも人気のある男。太刀彦とはまるで正反対だ。その性格が元凶(?)となったのか、太刀彦との唯一のコミュニケーション相手となってしまった。優しいと言うよりもお人好しだな、というのが私の印象だった。 私は、2人だけで沈黙と言うのは寂しい、と言う理由で太刀彦に近づいた。 「ねぇ、戸羽君」 太刀彦は一瞬本から目を離し、私を一瞥した後、また本に目を戻してから「なんだ」と低い声で言った。 「戸羽君もああゆうの興味ないの?」 「ない」相変わらずの素っ気無い答え。 「何で? 気持ち悪いから?」 「今言った、興味ないから」 少しむっときたが、無理やり堪える。 「ところでさ、何読んでるの?」 太刀彦は黙って表紙を見せる。そこには真っ黒な背景に『黒』と赤く書かれた文字が一つ。どうやらそれが題名らしい。 「どういう内容? おもしろい?」 「人によって価値観が違う。自分で読め」 やはり冷たい答えが返ってくる。 「そ、じゃあ探してみるかな」 私は席に戻ろうとする。 「一つだけ言っておく」太刀彦が突然言う。 「何を?」 一息おいた後、低い口調で言った。 「俺に話しかけるな」 プチッと繊維が切れたような気がしたが、私は感情を押し殺す。すぐさま、平静な自分を取り戻し、 「あっそう」 と一言だけ呟いた。 同時に、確かに話し掛けるべきではなかったと後悔したが、後の祭りということで諦めることにする。 これで、彼が脳内ブラックリストに載ったのは確実だと私は実感した。 丁度その時、学校全体に予鈴がけたたましく鳴り響いた。 教室にはいまだに誰も戻ってこない。 私は溜め息をついて席に座った。 2 その日の帰り。私は商店街に向かうことに決めていた。日焼け止めを買うためだ。 部活のない日なら麻奈と一緒に帰るのだが、生憎今日は金曜日。彼女は部活があるのだ。 ちなみに麻奈はテニス部に所属している。大会の結果から見ると大して強くないが(私が言うようなことではないけど)そこらの凡人よりは遥かに強い。勿論、私など足元にも及ばない。運動神経のよい麻奈は、大抵のスポーツを人並み以上でこなしていた。特にテニスのような機敏な動作をするスポーツに関しては、かなりの腕を誇る。 そう言う私はというと帰宅部に所属している。“帰宅部に所属する”というのは少し語弊があるかもしれない。 いや、大ありか。 そのため、帰ること自体が“部活”にあたるのだ。と言っても、気をつけることなんて溝(どぶ)に落ちないようにするとか、犬に噛まれないとか、車に轢かれないとかそういった類である。 3時半とは言えど、商店街には結構な人が波を作っていた。とは言っても、人にぶつかりながら歩くほど混んではいない。 日焼け止めを買うだけだったが、本屋や文房具屋になどに寄り道をしてきたため、時計はすでに4時半を指している。だが、6月であるため、まだまだ、日は高く、辺りは明るい。 太刀彦を見かけたのはその帰り道の人込みの中だった。 体中から真っ黒な(暗いとも言う)オーラが出ているようで、遠くから見てもすぐ気づくことが出来た。 彼も私同様に帰宅部であるため、この時間この場所にいても全くおかしくなかった。 私はふと、後をつけようかと考えた。 何を買うのか気になったし、あるいはからかいや嘲笑の類(たぐい)を期待したのかもしれない。 何よりも、昼間の件が根付いており、少しは笑える話題が欲しかったのも事実だ。 太刀彦はこちらに向かってきているため、物陰で通り過ぎるのを待つ。彼の背中が見えたところで私は歩き出した。どうせ、彼から話しかけてくることはないだろうから、彼が私に気がついたかどうかは五分五分だった。 太刀彦は脇目も振らず、前方だけを見つめ歩いているので、つけるのに苦労はしなかった。 私は少なからずともこの状況を楽しんでいた。まるで探偵のようなスリルと結末の予想に胸を膨らませているからだ。 自然と顔がニヤニヤとなっていることに気がつき、すぐ顔を戻した。誰も見てやいないだろうとは思いながらも、しっかり顔は熱く、そして赤くなる。 突然、前を向いていた太刀彦の頭が動いた。私はあまりにも咄嗟のことに、ワンテンポ遅れて電柱に身を隠す。私はそこから回りに怪しまれないように、それとなく太刀彦を観察する。 太刀彦は後ろを振り返ったわけではなく、右手にある洋服店を見つめていた。しかしよく見ると、彼は洋服店と文房具屋の間にある、人2人分くらいが通れる程の通路を見つめていた。 私の角度からでは入り口しか見えないため、何があるのかは全くわからない。 七秒程見つめた後、彼は動き出した。前方ではなく薄暗い通路に、だ。 私はワンテンポ置いてから後をつけた。 通路の先は華やかな商店街とは一変して、本当に薄暗く、不気味であった。両脇が3階建ての家と言うこともあり太陽の光などろくに入らない。人が滅多に立ち入らないからか、歩くだけで埃が舞う。むせそうになるのを無理やり堪える。 太刀彦はずんずんと奥に進んでゆく。やっと彼の姿をはっきりと確認した時、少し広めな広場に出ていることに気づいた。 この通路は丁度ゴルフクラブのような形をしており、彼は丁度先端に当たるところにいるようだ。 私は壁の端から覗き見る。太刀彦は広場の中心に立っている。辺りを見回し、何かを、もしくは誰かを探しているようだった。 いつの間にか手に汗がべっとりついているのに気がついた。 辺りは物置と化しており、机やらダンボールやらが大量に積まれている。悪ガキの遊び場としては最高の場であろう。 「出て来いよ。いるのはわかってる」 太刀彦がいつもの暗い口調で話し始めた。セリフから、かなりシリアスな話らしいと悟った。 彼の声は空気を振動させ、広場全体に響く。 「……しかたがないな……」 どこからともなく低い声が帰ってくる。太刀彦より低い口調だ。 右手の隅にあったダンボールの山が動き、一つの影が現れた。 私はその姿を見たとき、ドクンと心臓が跳ね上がった。反射的に目を逸らし壁に隠れてしまった。一度目を閉じて深呼吸をする。鼓動が早まるの。 私は腹を決めてもう一度覗き見た。 今度は左手にある机の山からまた一つの影が。 さらには中央にももう一つの影が現れる。こちらは、なんと上空からやってきたようだ。ゆっくりと下降し、山積みになった粗大ゴミの上に腰を下ろした。 また私は心臓が止まりそうになる。頭が混乱してくるのをはっきりと感じながら冷静になろうと努力していた。 まず右手にいるダンボールの山の影から出てきた奴。こいつは大きく太っている。と言うより、むしろ円形そのものだ。首と呼べる物が全くなく、球体となった体の所々から手足が伸びている。身に纏った黒い布は特注であろうなどとも考えた。口は裂けそうなほど伸び、顔の大部分を占めている。目は小さく、あるかどうかもわからない。髪のない頭には僅かだが角らしき物が見える。 続いて左手の机の山から出てきた奴。こいつは太刀彦と比べ、背丈が二倍ほどある。その代わりガリを超えた超極細の体をしている。森林の中にいたら気がつかないだろうと思われるくらい、目立たない茶色の肌をしている。手足がとても長く、ナナフシを連想させる。勿論、目や口なども区別がつかない。樹木そのものだ。こっちは頭(それもよくわからないが)にはっきりとした2本の角が立っている。 そして中央の上空から参上した奴。こっちは他の二人に比べて一番人間に近い。とは言っても、それは体型だけを見た場合であり、顔や腕をみれば人間ではないことは一目瞭然だ。最も特徴的なのは背中に骨と化した翼がついていることだ。骨の翼で飛べる物なのかと思ったが、空から舞い降りたのを見たので信じざるを得ない。さらには腕が一対ではなく三対あることだ。つまり腕が6本まるで蜘蛛のようにはえそろっている。阿修羅と呼ぶには少し不気味すぎた。顔にしても今にも飛び出そうな眼球や憎たらしいニヤニヤとした笑いが際立ち、脳内に焼き付けられた。 咄嗟に思いついた語が『鬼』だった。 最近学校内でニュースとなっている死体放置事件。ただの死体ならともかく、それが人間ではないために大騒ぎとなってしまった。文化祭の準備期間であったのにも関わらず、その事件のせいで今年の文化祭は企画倒れに終わった。 それがつい先月の話。それから今日のも含めて、新たに3体もの死体が発見された。最初の事件(つまり文化祭前)に見つかった死体はまともな原形をとどめていなかった。それでも僅かに残っている残骸からも、それが人間でないことは明らかであった。その時にある男子生徒がその死体を『鬼』と呼んだ為にそれが定着してしまった。 2番目の事件は今日から約2週間前。こちらは割りと綺麗な死体であった(ただし、私は一番目の死体で気持ち悪くなってしまったため、それ以降は聞いただけ)。損傷が少なく、それを『鬼』と断定するにはわけなかった。 だからこそ、目の前にいる三人はその死体と同じ『鬼』であると私は感じた。 「付け回していたのはお前らか。目的は何だ? 俺の命か?」 太刀彦の声。 「残念だが、今日は偵察だ」 真ん中の翼がついた奴が答える。 「お前……三人……殺した……だから……見に来た」 大木がゆっくりと途切れ途切れに言う。 「今までの雑魚の事か」 太刀彦が言う。 「お前らも大したもんじゃないんだろ。どうせ」 「ナメルナ。アイツラナドハ話ニナラナイ」 球体が言う。こいつは太っているせいか発音が詰まって聞こえる。 「今までのは勝手な奴らの行動だ。迷惑をかけるな」 「お前らがそんな事言うとは心外だな」 「茶化スナ! ヤハリ今スグ殺シテヤロウカ!」 球体の口調が強まる。こいつが一番感情が激しい。 「駄目だ……お前……無理……」 大木が制する。 球体はチッと舌打ちをして黙る。こいつより大木のほうが強いと言うことか。 「とにかくだ、今この場では何もしない」 「いいのか? また誰かが死ぬぞ?」太刀彦の口元がニヤリと笑う。 「かまわん。どうせ馬鹿者ばかりだ」 翼がにやりと口元を上げる。 「第一、鬼神級のお前に勝てる奴なんざ、ざらにいねぇよ」 「だから、せこい事でもすると言うのか」 「俺たち……分け前……ある……」 「人質ヲトルナド汚イコトハシナイ。安心シロ」 「そうだな……」 翼の鬼の目線が動く。 「例えばそこにいる嬢ちゃんとか、な」 しまった! 気づかれていた! 私は咄嗟に出ていた頭を隠す。 遅いというのはわかっていながらも体が勝手に動く。 呼吸が荒くなる。 心臓が高鳴る。 手には先ほどとは比べ物にならないほどべったりとしている。 足は震え上がって、とても動ける状態ではない。 私はその場に座り込んだ。 今までの緊張がどっと全身に回ってきたみたいだ。 「まぁ、いい」 翼の奴の声。その声も、まるで水の中で聞いてるように不安定で、頭が痛くなる。 「今日は引き上げるぞ」 同時に翼が羽ばたく音がする。 「……終わり……帰る……」と大木。 「次ハナイゾ」と球体。 土を蹴るような音がした後、辺りは再び静寂を取り戻した。 コツコツと足音がし、黒い影が近づいてくる。太刀彦だとすぐにわかった。 でも私は顔を上げることも出来ず、ただ両肩を押さえて羞恥心や恐怖と戦っていた。 黒い影は目の前まで来て立ち止まった。 「……言ったはずだ」 その声で私はゆっくりと顔を上げた。きっと醜い顔をしてるんじゃないかと思ったけど、表情を直す余裕などなかった。 「俺に近づくな」 そういって太刀彦は闇に吸い込まれるように消えた。 それから数分経っても、私はその場を動けなかった。 3 次の日、私は麻奈と一緒に図書館に来ていた。 前日のこともあり、本当は行きたくなかったのだが、毎週の習慣であるために気が向かなくとも体が動いていた。 麻奈も私も結構な読書家だ。自宅にある本はほぼ読んでしまい、金銭的から無料で貸し出してくれるこの図書館に毎週来ている。 現在は麻奈とは別行動をとっている。好きな本のジャンルが違うためにいつもバラバラに本を探しているのだ。大抵は彼女が一階にいて、私は二階で本を探している。 しかし、今日に限ってはどうも本を探す気になれない。背表紙にある文字を見るだけでも気が滅入ってしまう。昨日のことがこんなにも、体に大きな負担をかけるとは思わなかった。 何か読みたい本があったような気がしたが、やはり気分のせいか、思い出せない。 それでも私は目線を本に移し、焦点が合わない程度にぼんやりと眺めていた。気分とは裏腹に頭は昨日の事や太刀彦のことばかり考えている。 ――『鬼』。 あの不可思議な体。とても信じがたい。まさか生きている物を見てしまうとは、夢にも思うことはなかった。自分が死ぬシーンは夢で見たことがあったのに。 それともう一つ気になること。 『鬼』のあの発言。学校で見つかった『鬼』の死体は太刀彦が殺したものだと言う。球体が何度も殺すという言葉を使っていたのを考えると、あいつらが弱いわけがない。むしろ強いはずだ。 しかし、あの華奢な体にどれだけの力があるというのだろう。 ……まず有り得ない。 ふと、何かが頭を過ぎった。 確かめるように頭の引き出しを開け放す。 「……そうだ」私は微かに呟いて、すぐさま図書館内を移動し始めた。 近くにあったパソコンの前に腰掛け、マウスに触れる。書名検索の画面を導き出し、そこに『黒』と入力した。数秒で該当したものが弾き出される。検索結果は千冊以上にも及んだが、『黒』と一文字だけの本は一冊だけだった。 さらにクリックし、この図書館内のどこにあるかを調べた。画面に図書館の見取り図が表示され、二階の奥にある本棚が赤く塗りつぶされている。 ――つまりそこにあると。 その場所を頭に叩き込んだ後、画面を初期の状態に戻した。そして私は席を立ち、小走りで歩き始めた。 目的の本棚にたどり着いて、すぐさま本を探し始めた。心臓が高鳴ってくるのを感じる。 先ほどの時とは違い、いつの間にか体調が元に戻っているのに気がつき、自分でも驚く。 指で背表紙を追っていくと、本棚の一番下の隅に『黒』と一文字だけ書かれた本を見つけた。 私はそれを慎重に取り出し、表紙を眺めた。そこにはやはり、太刀彦が持っていたものと同じように、黒い表紙に赤く『黒』と印刷されていた。あまり触れられていないようで、まるで新品同様だった。 さっそく表紙をめくる。同時に目次が私の目に飛び込んできた。 軽く動揺しながらも、次のページを捲る。 文章を読むにつれて、次々と一つ一つの文字が目に焼きつく。額には薄っすらと汗が滲んできた。 手の力が抜け、危うく本を滑り落としそうになった。心臓は誰かに聞こえるんじゃないかと思うほど、ドラムのように鳴り響いている。 ページを捲れば捲るほど、手は振るえ、背筋には悪寒が走る。 バタッと音を立てて、勢いよく本を閉じた。もう、とても見ていられなかった。一度深呼吸をしてからまた読もうと思ったが、心臓はとても落ち着きそうにない。 私は本に書いてあることを反芻してみた。 『もし、この世に鬼や死神といったものが存在すると言うのなら、彼らのことを指すであろう。彼らのほとんどは人間の形をしていない。彼らの誰もが人を超越した力と奇妙な能力を持つ。炎を操る者、音速で移動する者、翼を持つ物など様々である。時には人を襲うこともあるが、秩序とバランスを保つため、ほとんど攻撃的姿勢はとらず、人前にも姿を晒さない』 コインが弾かれるように3人の『鬼』が頭をかすめる。確かに奴らは人間とは呼べない。気になるのは、この『超越した能力』というものだ。翼の奴はわかるが他の2人は一体何が出来ると言うのだろう。 それと、『秩序とバランスを保つ』と言うのはどういう意味だろうか。これに例えば“世界の〜”とか“地球の〜”がつくとしたら、それはそれは可笑しな事と感じてしまう。『鬼』や『死神』なんて物は悪や闇の象徴であるし、むしろ正義や光の立場にいる人間を襲い、秩序を乱す側のはずである。それがなぜ『保つ』側の立場にいるのだろう。 さらにもう一つ、私の心臓の起爆装置となるくだりがあった。 『なお、人間の中にも超越した能力を持つ“能力者”と呼ばれる者も存在する。彼らは鬼と同等、もしくはそれ以上の能力を持ち、人間とは乖離した存在として裏社会に君臨している。事実、能力者だけをあつめた企業も存在し、我々を陰で支えていると言ってよい。彼らは『鬼』と『人間』の狭間の人と定義されているが、実際には霊現象によくある、憑依状態に近い物とされている』 もうここまでくると、これはSF小説なんじゃないかと疑ってしまう。しかし、小説と呼ぶにはストーリーがなく、評論と呼ぶにはあまりにも信憑性がない。だからといって、これを事実と受け止めるには自分が狂わなければならない。 しかし、私は見てしまった。生きて話している『鬼』を。 それは事実であり、同時に真実だ。 なら、この能力者についての記述もきっと事実であろう。自分のすぐ隣に鬼と同じ力を持ったものがいるなんて背筋が凍るような思いだが、同じクラスでずっと過ごして来たのに、これまで何も支障はなかった。だからきっと大丈夫なんだと、半ば強引に思い込んだ。 私はふと気になり、本の裏表紙を捲った。案の定、そこには発行年月と作者の名前が書かれていた。しかし、あると思っていたプロフィールはなかった。 発行されたのは今から3年前と書かれてある。それは逆に言えば、3年も前から『鬼』と『能力者』の存在があったと言うことを示す。しかし、その3年の間でその二つの単語をニュースなどで見聞きした覚えはない。 そして作者の名前のほうだが、“塙甕 愛”と書かれていた。苗字はなんて読むのかわからないが、名前のほうはきっと“アイ”と読むのであろう。この本を書いたのが女性と言うのも意外であった。 ふと時計を見るとすでにお昼近いことがわかった。 私はその本を閉じ、心臓を落ち着けるようにゆっくり歩き始めた。この本を借りる決心はとうについていた。 かすかに足は震えていたが、歩くのに邪魔にはならなかった。 一階に降りる途中で貸し出し場所の列に麻奈が並んでいるのが見えた。重たそうに何冊もの本を両手で持ち、早く終わらないかと待ち望んでいる顔をみて、私は微笑んでいた。 麻奈に近づこうとする足は、自然と早足になっていた。 終 |