中国の宇宙論

新井 晋司


宇宙はどんどん遠くなる・・・。

心理的にも、物理的にも、宇宙は私たちからますます遠ざかってゆく・・・。

それというのも、近頃すっかり俗世のことがらにいそがしくなった私たちは、夜空を見上げて月や星々を鑑賞する習慣をしだいに失って、心と宇宙の距離はいっそう遠くなるばかり。

現代の宇宙論でも、宇宙はおよそ百億年以上もまえに、火の玉となって大爆発し、以来、その時の爆発の勢いでこれまた膨張し続けているというから、やっぱり宇宙のほうも私たちから遠ざかっている。

これではなんだか宇宙と私たちの関係は、別れつつある恋人どうしみたいだ。

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宇宙の仕組みがどうなっているのか? 宇宙の大きさはいったいどのくらいあるのか? 
このような問いは、洋の東西を問わず、長い年月にわたり私たち人類を悩ましつづけてきた疑問である。

先にのべた遠ざかる宇宙は、現代の宇宙の特徴だけど、それでは古代の人々が考えていた宇宙とはどのようなものであったのであろうか。私はこれからこの小文で、中国古代の宇宙論を紹介しようと思う。

だが、そのまえに、比較のために西洋の過去の宇宙論の流れをちょとだけ一瞥しておこう。 西洋の宇宙論の歴史をきわめてあっさりといえば、二つの大きな転換点がある。

ひとつは古代ギリシア科学の時代に、それまでの神によって宇宙が創られたとする神話的な宇宙論を脱却して、合理的な宇宙論へと移行したことである。具体的にいえば、天動説(地球中心説)の成立である。

宇宙の中心に地球が位置し、その地球のまわりを太陽・月・惑星がまわっているとする天動説は、後二世紀のプトレマイオスによって大成された。その後も天動説は、中世をつうじて西欧でもイスラムでも信じられた。

そのつぎの転換点は十六世紀におとずれる。コペルニクスが地動説(太陽中心説)を唱えて、天動説から地動説への移行がおこなわれたことである。

この地球と太陽の位置を入れ換えたコペルニクス説が西欧社会にあたえた衝撃は、天文学内部だけにとどまらず、それまでの中世キリスト教社会を変革するきっかけとなったことは、みなさんもよくご存じの通り。

さて、それでは古代中国の宇宙論はどのようなものであったのか。

もちろん、中国でも神話的宇宙論はいくつかある。

たとえば、天は不周山(ふしゅうざん)という高山のいただきにある天の柱(天柱)で支えられていた。ところが、共工という乱暴者の神が祝融と大ケンカをして惨敗し、負けたはらいせに不周山に頭をぶちあてて天柱を折ってしまった。それで天が西北に傾き、同時に太陽・月・惑星も東南から西北に回転しはじめたというものである。

この説話は、北天を見ると、天が北極を中心に回転していること、つまり天の回転軸が頭の真上(天頂)になくて、北にかたよっていることをうまく説明していて、おもしろい。

たしかに先入観なしに夜空を見上げてみれば、天が回転するなら、天頂を中心に回転しているほうが自然に思われ、北へ少し回転軸がずれているのは、古代人にとって奇妙な感じがしたであろう。

その奇妙さに気づいた古代人のセンスの良さと、負けたはらいせに天の柱を折ったという物語のユーモラスさから、私はこの神話はけっこう気に入っている。

それから、詳しくのべる余裕はないけれど、この神話以外に中国には、盤古という祖先神の体が世界のもとになったという説話もある。

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戦国時代から漢代になると、右のような神話的宇宙論とはべつに、最初の科学的な宇宙論が登場する。

それを蓋天説(がいてんせつ)という。さらに、蓋天説の次には渾天説(こんてんせつ)が生まれている。この二説が中国を代表する宇宙構造説である。

大ざっぱな比較だけど、文化の同時発生という視点から考えてみると、ギリシア科学とほぼ同じ時代もしくは前後して、中国でもやはり科学的宇宙論が登場してきたのは興味深い。

蓋天説は完全な数学モデルの宇宙論である。しかもその構造は中国で最初の科学的な宇宙論ということもあって、もっとも単純なモデルである。すなわち天も平ら、地も平ら、平面として二つが平行して存在するというものである(図1)。

後には天地の丸い感じを出すために、中央が盛り上がった形を想定するようになっているが、基本的には天地を平行と見なしている。蓋天説は、天のかたちは丸く広げた蓋(かさ)のようであり、地は四角い碁盤(ごばん)のようだという。蓋天ということばは、この天を笠(かさ)と見たてたことからつけられた名称である。

この説では天は北極を中心に東から西へ、一日一回転している。太陽もまた一日一回の割合で回転する。ちょうど平らな板に太陽がくっついて回転しているさまを想像すればいいだろう。

また、蓋天説では昼夜の交替を、太陽の光は一定の円形の範囲にしかとどかないので、太陽が中国の地に近づいてくると朝が来て、遠ざかってゆくと夜になるとして説明している。

じつは蓋天説のおもしろさは、天の高さ、太陽の直径、太陽の軌道の大きさ、太陽の光がとどく範囲などを、比例計算や三角形の相似、ピタゴラスの定理を使って具体的な数値を算出していることにある。

もちろんそれらの数値は現代の天文学のものとは比較できないけれど、古代中国人が宇宙をどのくらいの大きさと認識していたかもわかるし、かれらの合理的思考や算術的思考のあともわかっておもしろい。

たとえば、それらの数値の一端を紹介すると、蓋天説では天の高さの数値を八万里と算出している。この八万里が今日でいえばどのくらいの距離に相当するかは一概にはいえないが、いちおう同説の一里を戦国時代の一里=〇・四キロメートル強と見なすと、八万里は約三万二千キロメートルになる。これが今から二千数百年前の中国人の宇宙の大きさの感覚である。

ちなみに現代の値は、地球から月までの平均距離でも約三八万四千キロメートル、太陽までの平均距離となると約一億五千万キロメートルもある。

蓋天説では、太陽も月も惑星も天にはりついていると考えているから、八万里はそのまま地から太陽や月までの距離でもある(正確には太陽や月が観測者の真上にきたときの距離)。

それから太陽の直径も、直角三角形にかんするピタゴラスの定理を利用して、千二百五十里と算出している。この里数を右とおなじように換算すると約五百キロメートル、現代値はそれよりもはるかに大きく直径約十四万キロメートルもある。

こうしてみると、古代の人が考えていた宇宙の規模はだいぶ小さかったことがわかる。だいたいどの文明でも古代になるほど宇宙の規模は小さい。

それではこれらの数字はどうやって求めたものかというと、それは図2のように八尺の棒を立ててその影の長さが一寸ちがうと、南北方向の距離で千里ちがうという一寸千里の説にもとづいて算出したのである。一寸千里の説はひとつの純然たる仮説であるが、この比率が天地にたいし自在に適用されたのである。

そうやって求めた数字を図にすると図3のようになる。図3は天地を上から、もしくは下から見たものと考えてほしい。

周地とあるのが中国の地のことで、北極より南に位置している。外衡、中衡、内衡とある円は、それぞれ冬至、春分と秋分(二分)、夏至の日に太陽が進む道筋である。

すなわち太陽は北極を中心とした円にそって移動しており、しかも季節によって異なる円を描く。そしてこれらの円軌道にそって進む太陽の動きによって、昼夜の交替や季節の変化が説明されるのである。

たとえば昼夜の交替を、冬至の軌道である外衡(がいこう)を例に取って説明しよう。

図中の「冬至日中下地」は冬至に太陽がもっとも南に位置する地点で、この地は周地から十三万五千里離れている。蓋天説では、太陽の光がとどく距離は半径十六万七千里の円内とされるから、「冬至日中下地」に太陽があるときは、周地は昼間である。

その後、太陽はしだいに外衡にそって北へ移動して行き、太陽の光はだんだんと周地にどかなくなるので、中国は夜になる。図中のいちばん北側にある「冬至夜半下地」は、真夜中に太陽が位置する地点で、この地の太陽の光はもはや中国にとどきはしない。

紙幅の都合上、上述の数字を算出した過程やより詳しい説明はできないので、関心をもった人は薮内清氏の解説(『中国天文学・数学集』朝日出版社)などを参照してほしい。

おそらく読者のなかには、中国の科学といえば、「気」「陰陽五行」「タオ(道)」といった自然哲学的な概念や、神秘的あるいは道教的などの宗教的なものをイメージする人も多いだろうけれど、じつは蓋天説はまったくの数学モデルの宇宙論である。

神も出てこなければ、中国思想につきものの気、陰陽五行、『易経』(えききょう)などはほんのちらりと顔を出すにすぎない。欠点をすぐ指摘できる理論ではあるが、数学的宇宙論を目指した構造説であることはまちがいない。

もし科学的ということを、観測値にもとづいて、数学によって自然を表現しようとする試みだと定義するならば、まぎれもなく蓋天説は科学的な宇宙論の第一歩を踏み出しているといえよう。

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つぎに、渾天説について説明しよう。漢代以降は渾天説のほうがひろく中国でおこなわれた説である。

渾天説では、蓋天説の欠点をおぎなうために、天を球形と考えるようになっている(図4)。その球形の天が、南北極を軸として一日に一回転している。球形の天の内外には水があり、大地は天の内側のちょうど半分をみたす水の上に載っている。

これをたとえて宇宙の形状は鶏の卵のようであり、天は卵殻であり、大地はそれにつつまれる卵黄のようなものという。この卵黄のたとえは、大地が球であるというたとえではなくて、あくまで地が天につつまれていることをのべたもの。

地球という概念は、西洋では古代ギリシアの時代に形成されたが、中国では大地が球であるという説はついに生まれなかった。二千年以上にわたり確実に科学を発展させてきた中国科学が、地球説を生まなかったのは不思議なことではある。

渾天説は天球説に依拠しているので、現在の球面天文学の原理と一致してる。この点で天を笠状とみる蓋天説にまさっているといえる。

ただ渾天説にもいくつか弱点があって、そのひとつは、もし渾天説によれば太陽が夜間に地下をめぐるとき、水中をくぐらなければならないというものであった。この問題は渾天説を支持した人々を苦しめ、ついに適当な答えを出すことができなかった。

結局、中国の宇宙論はこの両説を軸にして、そのほか安天論やI天論といった複数の宇宙論をまじえ、ほぼ唐代にいたるまで何百年にわたって論争がつづいてゆくのであった。

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中国科学史の研究が本格化したのは戦後のことである。今では中国の科学・技術は、三大科学として数学・天文学・医学を、四大発明として紙・火薬・磁石の指向性・印刷術を、三大技術として農業・陶磁器・建築をあげることができる。

中国科学は十五、十六世紀ころまではゆっくりと着実に発展してきた。その長い時間にわたる持続的な発展の軌跡は驚異的ですらある。

最後に中国科学史に興味をもたれた方のために、学生向きの入門書として薮内清『科学史からみた中国文明』(NHKブックス)、同『中国の科学と日本』(朝日新聞社)を紹介しておきましょう。すでに書店では入手できないかも知れないので、そのさいは図書館で借りてください。

---『学叢』’98より---


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